第1次西園寺内閣

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概要

日露戦争中に桂太郎との間で交わされた約束によって立憲政友会総裁である西園寺公望が後継に就任した(なお、この禅譲は元老の干渉を恐れた桂が事前に西園寺の後見人である伊藤博文井上馨の許可を取ったのみで、元老会議は召集されなかった)。だが、桂と元老は人事や政策に条件を付けて制約をかけ、西園寺も自分の両腕と言える原敬松田正久の2人だけを入閣させる条件で折り合った。桂はこの内閣の後見人を自負して、政権運営にまで関与しようとしたために内務大臣原敬との微妙な政治的駆け引きを行うこととなる。

鉄道国有化第3次日韓協約日露協約日仏協約の締結など、山縣有朋ら元老や桂の意に沿った政策を遂行する一方で、山縣の支持基盤である内務省改革のために郡制の廃止を計画して失敗したり、貴族院議員の入閣を実現させるなど、政党政治実現に向けた努力は続けられた。ただし、閣内では政友会は少数派であり閣内は円滑ではなかった、成立から2ヶ月後に加藤高明外務大臣が鉄道国有化に反対して辞任(ただし、実際には健康問題が絡んでいたとされている)、続いて山縣伊三郎逓信大臣阪谷芳郎大蔵大臣が鉄道予算の問題で対立して共に辞表を明治天皇に提出しようとした際には、両名を天皇の前に連れてくるだけの西園寺までが辞表を提出してしまい、原と寺内正毅陸軍大臣が必死に説得して西園寺の辞表のみを撤回させる騒ぎも起きた。第10回衆議院議員総選挙において過半数に迫る187議席を獲得したものの、政友会の基盤が確固たるものになることを警戒した山縣有朋から財政政策の不備と社会主義取締の緩さを問題視する上奏が行われた。これを松田(蔵相)と原(内相)の更迭要求と見た西園寺はこれを機に総辞職をすることとなった(近年では、桂による反政友会工作の発覚や井上馨による増税による財政再建要求が実現困難であったことも原因として挙げられている。なお、原たちは総辞職の上奏が行われるまでその事実を知らされていなかった)。

だが、閣内少数派であったとは言え、政友会党員が閣僚の殆どを占めながら終始混乱で終わった第4次伊藤内閣と比較すれば、官界や貴族院にも支持勢力を形成出来た事など、政友会にとっては大きな成果も伴った。なお、徳富蘇峰は「(西園寺は)仏(桂)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた」と評し(『大正政局史論』)、西園寺の度を越えた「盟友」桂への依存が政権崩壊の真の原因と評している。

国務大臣

第1次西園寺内閣 1906年(明治39年)
1月7日
同年
1月13日
同年
3月3日
同年
3月27日
同年
5月19日
1908年(明治41年)
1月4日
同年
1月14日
同年
3月25日
内閣総理大臣 西園寺公望 西園寺公望 西園寺公望 西園寺公望 西園寺公望 西園寺公望 西園寺公望 西園寺公望
外務大臣 加藤高明 加藤高明 西園寺公望
(臨時兼務)
西園寺公望
(臨時兼務)
林董 林董 林董 林董
内務大臣 原敬 原敬 原敬 原敬 原敬 原敬 原敬 原敬
大蔵大臣 阪谷芳郎 阪谷芳郎 阪谷芳郎 阪谷芳郎 阪谷芳郎 阪谷芳郎 松田正久
(兼務)
松田正久
陸軍大臣 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅 寺内正毅
海軍大臣 斎藤実 斎藤実 斎藤実 斎藤実 斎藤実 斎藤実 斎藤実 斎藤実
司法大臣 松田正久 松田正久 松田正久 松田正久 松田正久 松田正久 松田正久 千家尊福
文部大臣 西園寺公望
(臨時兼務)
西園寺公望
(臨時兼務)
西園寺公望
(臨時兼務)
牧野伸顕 牧野伸顕 牧野伸顕 牧野伸顕 牧野伸顕
農商務大臣 松岡康毅 松岡康毅 松岡康毅 松岡康毅 松岡康毅 松岡康毅 松岡康毅 松岡康毅
逓信大臣 山縣伊三郎 山縣伊三郎 山縣伊三郎 山縣伊三郎 山縣伊三郎 山縣伊三郎 原敬(兼務) 堀田正養
内閣書記官長 石渡敏一 石渡敏一 石渡敏一 石渡敏一 石渡敏一 南弘 南弘 南弘
法制局長官 一木喜徳郎 岡野敬次郎 岡野敬次郎 岡野敬次郎 岡野敬次郎 岡野敬次郎 岡野敬次郎 岡野敬次郎

脚注

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外部リンク

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