福興

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福興(ふくこう、女真音;フシン、? - 1215年)は、の官僚。金の皇室である女真完顔部の出身で、太祖の従弟(穆宗盈歌の末子)の鄆王吾都補(完顔宗昻)の末裔[1]。中国名は承暉維明。女真名は福興

生涯

金の宗室出身として生まれた福興はその毛並みのよさから官界に進んで経歴を積み、章宗が皇太孫となるとその侍正に選ばれた。章宗の即位後、側近に登用されて兵部侍郎兼右補闕の要職に進むと、さらに章宗の制度改革で提刑司が新設されると東京咸平等路提刑副使となり、以後地方官を歴任した。

のちに召還されて中央政府に戻ると刑部尚書に就任、知審官院を兼ね、さらに知大興府事(金の首都中都大興府(現在の北京)の長官)に転じたが、再び地方官に移り、山東路統軍使として南宋との戦争の最前線を指揮した。福興は学を好み、しばしば不条理に対する批判を皇帝に直言する剛直な性格であった。

1206年に章宗の命で、皇叔である衛王が正使で福興自身が副使として、蒙古高原にいるチンギス・ハーンの下へ使者として赴いた。ところがチンギス・ハーンは衛王を愚鈍と馬鹿にして、むしろ、鋭い面構えを持っている福興に好意を示して、対応したという。

1208年、愚鈍とされる衛紹王が皇帝に即位すると、中央政府に戻って御史大夫参知政事を歴任した。1211年にチンギス・ハーンの率いるモンゴル帝国軍が金に侵攻して来ると尚書左丞に任ぜられ、同族の参知政事完顔胡沙と共に防衛に当たったが、敗れて解任された。1213年に衛紹王が廃され、宣宗が即位すると再任されて尚書右丞に任ぜられ、衛紹王を殺した胡沙虎が誅されると平章政事兼都元帥に昇進して対モンゴルの全権を委ねられた。この間、家族を残して来た滄州が落城し、後妻と末子らをまとめて失う。

1214年、モンゴル軍は中都に迫るが、福興は和議を提案し、反対派を押し切って歳貢の支払いや皇女の降嫁など全面降伏に近い内容を含む和平を取りまとめた。和平成立後、宣宗が中都を捨てて開封に遷都するとこれに反対したが容れられず、自らは右丞相兼都元帥の肩書きを帯びて中都に留まった。

モンゴル軍は宣宗の遷都を和平違反として咎め、金への再度の遠征を開始した。福興は中都の官民を激励して抵抗を指揮したが、中都はモンゴルの大軍の包囲に曝され、疫病が蔓延し、さらには難民が殺到して人口過剰になったこともあり、過酷な食糧不足に陥った。また開封からの食糧護送隊が派遣されても、その途中でモンゴル軍に壊滅され奪われる始末だったという。1215年夏5月についに福興は覚悟して、陥落を目前に部下の命を救うために降伏を許可して服毒自決し、中都は落城した。

この時に何度も会見した彼の非業の死を聞いたチンギス・ハーンは優秀な福興の死を惜しみ、手厚く埋葬したという。

宣宗はその死を大いに悼み、開府儀同三司、太尉尚書令、広平郡王を追贈し、忠粛王した。また、彼の嫡子を要職に就けたという。

脚注

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  1. 続資治通鑑』より。