砥部町

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テンプレート:Infobox 砥部町(とべちょう)は、愛媛県中予地方に位置するである。

200年以上の歴史がある伝統工芸品「砥部焼」で有名。松山と高知とを結ぶ国道33号が縦貫する交通の便と、変化に富んだ緑豊かな自然により、松山市のベッドタウンとして宅地開発が進んでいる。「住んでも 訪ねても いきいき砥部」をキャッチフレーズとしていたが、新町になってから公募による「清流とほたる 砥部焼とみかんの町」をキャッチフレーズとしている。全国的に砥部と言えば「砥部焼の町」と知名度が高い。アートの里プラン21やホップ・ステップとべと言った町総合計画でまちづくりを進めている。

地理

位置
愛媛県のほぼ中央、松山市の南に重信川をはさんで連接している。松山平野の南端に位置する。
地名の由来
古来良質の砥石「伊予砥」を産し、町内の一つ地区を砥山と称していたが、周辺の地域一帯を含めて砥部と呼ぶこととなった。
地形
南部は山が多く、北は松山平野の南端の一角を占めている。南北に流れる砥部川沿いに国道33号が走り、集落が開けている。砥部地域は全体がなだらかな丘陵地にある。松山市との北東の境の丘陵地には、とべ動物園、えひめこどもの城、県立総合運動公園などのレクリエーション施設が集中している。
広田地域は、上尾峠を越えた南側になる。
  • 山 : 障子山(伊予市との境)、行道山(同)、権現山(広田)
  • 河川 : 重信川、砥部川(重信川の支流の一つ)
気候
温暖であるが、松山に比べると1 - 2度低い。
人口

テンプレート:人口統計

歴史

※旧広田村時代の同地域の歴史については広田村の記事を参照のこと。

古代

  • 6世紀初め頃 原町地域に点在する群集古墳の代表的なものに大下田古墳があり、この頃から政治・経済・文化が進んでいたことがうかがえる。
  • 747年天平19年) 法隆寺文書に砥部荘の名が見られる。
  • 760年天平宝字4年) 正倉院文書に伊予砥3顆が課せられたとある。
  • 延喜式に伊予砥5顆が納められたとある。

伊予砥は当町外山産の砥石をさすものと考えられる。

中世

  • 河野氏の支配下に属したが、後期には長宗我部氏の進攻を受けた。

近世

  • 江戸時代 初期は加藤嘉明の松山藩に属した。
  • 1635年寛永12年)8月 松山藩と大洲藩との替地により大洲藩の所領となる。
  • 砥部焼が振興される。
  • 新谷藩の成立により大南・岩谷口・大平・下麻生が新谷藩の所領となった。

近代

  • 1889年明治22年) 町村制施行にともない下浮穴郡砥部村原町村広田村が成立。
    • 砥部村 - 外山村、北川毛村、五本松村、大南村、岩谷口村、大平村、川登村、万年村が合併
    • 原町村 - 麻生村、宮内村、千足村、河井村、七折村、大角蔵村が合併
    • 広田村 - 多居谷村、猿谷村、総津村、中野川村、高市村、玉谷村、満穂村、栗田村が合併(旧栗田村地区は1929年(昭和4年)、中山町へ編入)
  • 1897年(明治30年)下浮穴郡より伊予郡に郡域変更。
  • 1928年昭和3年) 砥部村が町制をしき砥部町となる。
  • 1955年(昭和30年)3月31日 砥部町と原町村が合併し砥部町となる。
    • 以上、砥部町(旧)「砥部町のすがた」ほかによる

新町後

行政

  • 本庁 砥部町庁舎(宮内)- 旧砥部町庁舎
    • 旧町時代に、原町連絡所(原町)、大南連絡所(大南、伝統産業会館内)は、広田村と合併したのち、廃止された。原町連絡所は、旧国道33号線「原町支所前交差点」として交差点として残っている。
  • 支所 広田支所 (総津)- 旧広田村庁舎 老朽化のため、庁舎新築。2010年(平成22年)4月から広田交流センター内に設置

町長

旧砥部町

  • 初代 梅野 鶴一
  • 第2代 佐川 義一
  • 第3代 織田 謙一
  • 第4代 松崎 明
  • 第5代 大内 茂
  • 第6代 高市 昭次
  • 第7代 中村 剛志

新砥部町

  • 職務執行者 三好 晃二 (旧広田村村長)
  • 初代 中村 剛志(なかむら つよし、2005年から)旧・砥部町長
  • 第2代 佐川 秀紀(さがわ ひでき、元副町長)

平成の市町村合併

伊予市伊予郡全体での合併を旧・伊予市等は望んだが、幹線道路が砥部町・広田村は国道33号、国道379号、伊予市他は国道56号と異にしており、早い段階で伊予市・伊予郡全体での合併構想から離脱し、1町1村での合併の道を選んだ。

広田村は圧倒的に人口が少なく、国道でつながった旧・砥部町について行く以外にない立場であった。広田村から西隣の旧・中山町に行くには、車の離合もスムーズに出来かねる峠道を行く人があるなど、相互交流という面でも難がある状況であった。

当初、前町長が旧広田村との合併を提唱したのに対し、町民からは松山市との合併を望む声が高く、町民からのリコール、現町長との選挙により前町長は落選したが、その後の町民への合併希望では旧広田村との合併を望む声が一番高くなり、松山市との合併はならなかった。

合併の形式は新設合併ではあるが、実質的には旧・砥部町による旧・広田村の吸収合併であり、合併協議自体はスムーズに運んだ。

近隣の東温市(旧重信町・川内町)と同様に、旧砥部町は、隣市町から移り住んできた人と元々住んでいる人が半々であり、合併の議論のときにも、新住民は松山市、旧住民は旧広田村というように分かれ、町を二分した。

機関

国の機関

  • 松山地方法務局砥部出張所(原町)

県の機関

  • 愛媛県窯業試験場(五本松)
  • 愛媛県動物園協会(上原町)

経済

松山市のベッドタウンであり、表面的な産業の立地状況以上に経済力がある。松山圏の一部である。

松山市に接し、南予方面、西条方面への交通の便にも恵まれているうえ、松山市内に比べると地価も低いことから、北部地域では、パン、電気機械、農業機械等の工場や物流センター、卸売事業者(薬品等)、ショッピングセンター等も立地している。

伝統的特産品として砥部焼が知られている。

主な産業

  • 砥部焼町内に80以上の窯元がある。若手育成に砥部町支援
  • 食料品製造(パン・菓子、酒造等)
  • 陶石
農業(かんきつ類、
1960年(昭和35年)ころまではウンシュウミカンとが主要な作物であったが、みかんブームが起きて開墾や水田からの転作など栽培条件の恵まれない地域においても改植が広く行なわれた。その結果、昭和40年代なかばにピークに達しウンシュウミカンだけで1100ヘクタールで栽培されていた。しかしながら全国的な生産過剰により、みかん価格は暴落し、イヨカンネーブルオレンジ等への樹種転換も行われたが、厳しい状況が続き、2000年(平成12年)現在で樹園地は652ヘクタールと半減している。
梅は七折地区のものが知られている。
林業
広田地域では昭和30年代まで林業が盛んであり、木を切れば嫁入り支度ができるとすらいわれた時期もあったが、木材価格の低迷に加え、豪雪による被害などがかさなり、林家の意欲も減退し、今日では細々と副業的に営んでいる。

主な企業

町内に大手3社パンメーカーや運輸物流会社が存在する。

社会

人口増加が続いていたが、2005年(平成17年)には自然減に転じた。増加ペースでは同じ松山市のベッドタウンとして人口が増加している松前町をしのぐほどであったが、やはり四国でも指折りの人口密度を誇る松前町を越すことはできないでいる。ちなみに松前町の人口密度は砥部町よりはるかに高いが、松前町も2005年度(平成17年度)は、人口が自然減に転じた。同年度で人口が増加したのは松山市だけである。以降、増加に転じる。広田地区が合併前と比べ、10%以上人口が減り、寂れる一方で、砥部地区は人口増加している。2010年度(平成22年度)は、広田地区の人口減に伴い、人口約400人減となった。近年、旧砥部町域(北部)で公共下水道が整備されつつあり、2011年度(平成23年度)一部供用開始する。一部住民には疑問視する声もあり反対と唱える人も数少なからずいる。

地域

教育

大学

専門学校

高等学校

中学校

  • 砥部町立砥部中学校‐広田中との統合後、老朽化のため、新校舎建設予定。
  • 砥部町立広田中学校‐2009年(平成21年)3月31日廃校、同年4月砥部中と統合。

小学校

  • 砥部町立麻生小学校
  • 砥部町立宮内小学校
  • 砥部町立砥部小学校
  • 砥部町立玉谷小学校(複式学級・へき地指定)
  • 砥部町立広田小学校(複式学級・へき地指定)
  • 砥部町立高市小学校(複式学級・へき地指定)

山村留学

  • 砥部町山村留学センター(砥部町立高市小学校隣接)

高市地区の過疎化が進む中、全国から小学生を受け入れ、地区の人が世話をする。自然が多く、様々な体験が出来る。山村留学が全国でも成功した例であり、視察に訪れる。

交通

松山市と結ぶ交通の確保に注力してきているが、国道33号の松山市内の区間が慢性的に渋滞しているため、鉄道LRT等の導入構想が何度か民間団体等により発表されたが、実現に至るまでの膨大な資金の確保の目途が立たないため、いずれも構想倒れに終わっている。なお、かつては重信川をはさんだ、松山市の森松町まで鉄道があった(伊予鉄道森松線)ことから、鉄道系の交通網の復活が望まれている。

道路

1980年(昭和55年)の総体を控え、国道33号バイパスの整備が行われるなど、松山市と結ぶ道路の整備が進んだ。その後の、自動車の増加などにより、国道33号県道23号伊予川内線との拾町(じっちょう)交差点の朝夕の渋滞が激しいため、立体交差工事(国道を高架化)が進められており、2006年(平成18年)3月22日に片側暫定供用を開始した。2007年(平成19年)共用開始。

国道33号から町内で分離(正式には重複区間あり)する国道379号は、砥部地域と広田地域とを結ぶ唯一の幹線道路であるが、旧町村境の上尾峠北斜面の区間が狭隘であり、2006年(平成18年)現在、愛媛県により整備が進められており、光景は一変しつつある。なお、同国道の旧・広田村内はほぼ高速道路並みに整備されている。旧・小田町側についても、かつては狭隘であったが、ほぼ2車線で整備されており、上尾峠北斜面の不備ぶりがよけいに目立つ状況となっている。

高速道路

砥部町内には松山自動車道が通っているものの、インターチェンジ(IC) はない。
最寄のIC:松山自動車道 13 松山IC(国道33号沿い)

一般国道

主要地方道

一般県道

  • 愛媛県道194号久谷森松停車場線
  • 愛媛県道219号砥部伊予松山線
  • 愛媛県道220号上尾峠久万線
  • 愛媛県道221号広田双海線
  • 愛媛県道335号松山川内自転車道線

道の駅

バス

伊予鉄道により、砥部までは比較的頻繁にバスの運行が行われている。愛媛県立総合運動公園で大規模な全国的イベントが開催される場合は松山市内までシャトルバス等が運行されることもある。

広田地域へは一日2本のみの運行である。
伊予鉄道のバス路線案内

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

  • 隣接する松山、東温両市と本町が共同で観光連携協定を結び、松山城、道後温泉、坊っちゃん劇場、砥部焼といった観光資源を全国にPRするために提案された。過去に伊予市、松前町、旧中山町、旧双海町を含めた同様の観光協定が結ばれたが破談に終わった。
名所・旧跡・観光スポット
陶街道五十三次(とうかいどう-)
砥部町内の砥部焼にちなむ地点を53選定し、それらを街道における宿場町のごとく、つなぎあわせ、一つの観光資源として広く集客を図ろうとする取組み。東海道五十三次にヒントを得て、語呂あわせしたもの。なお、「砥部陶街道」は商標登録されている(権利者:砥部町)。
ファイル:Tobe zoo2.jpg
愛媛県立とべ動物園、ウォーターストリートのペンギン広場
坂村真民記念館
愛媛県立とべ動物園
愛媛県総合運動公園
えひめこどもの城(児童厚生施設)
衝上断層中央構造線の露頭)
砥部焼伝統産業会館
陶芸創作館
陶板の道
とべ温泉湯砥里館(ゆとりかん)
砥石山公園
プラーナ(サレガ峠) <スキー場>
銚子ダムキャンプ場
長曽池キャンプ場
権現荘(そうめん流し)
峡の館
神の森公園
農村工芸体験館
理正院(伊予十三仏霊場12番札所、新四国曼荼羅霊場47番札所)
祭り・イベント
如月忌 - 2月、砥部町出身の井上正夫の功績を称える
七折梅まつり 2月下旬から3月上旬
ひろた山菜まつり - 4月下旬
砥部焼祭り - 4月第三土日曜日
ほたるまつり
とべアートの里・美と技の祭典
じねんじょまつり
日曜市
権現山お山開き
名産
砥部焼 - 愛媛県指定無形文化財2005年〈平成17年〉12月27日指定)
農産物(みかん、七折小梅、しいたけ、高原野菜、自然薯、栗)
たらいうどん

出身有名人

その他

市外局番
町内全域において089
市内局番
麻生地区957,958(松山局)
砥部・宮内地区962(砥部局)
広田地区969(広田局)
郵便番号
砥部局、原町局 791-21○○
広田局 791-22○○

外部リンク

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