知恵の館
知恵の館(ちえのやかた; アラビア語:バイト・アル=ヒクマ, بيت الحكمة Bayt al-Ḥikmah)は、830年、アッバース朝の第7代カリフ・マームーンが、バグダードに設立した図書館であり[1]、天文台も併設されていたと言われている。知恵の家と訳される場合もある。
サーサーン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった[2]。「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」は「図書館」を指すサーサーン朝の呼び名の翻訳だと言う。
主要活動
ギリシア語の学術文献の、アラビア語への翻訳であった[1]。時にはシリア語を介しての翻訳になった。
国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学に関するヒポクラテス・ガレノスなどの文献から、哲学関係の文献はプラトン・アリストテレスとその注釈書など、膨大な書物が大々的に翻訳された(「大翻訳」)。 また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。
10代カリフ・ムタワッキル(在位:847年 - 861年)以降の反動期によって、活動が急速的に衰えていくこととなった。
スタッフ
スタッフの多くは、シリアのネストリウス派や単性論派のキリスト教徒、ハッラーン出身のサービア教徒であった。
ローマ帝国主要部のキリスト教は、4世紀から6世紀にかけて、「イエスは神の属性のみを持つ」という思想と、ギリシア哲学を異端としてしまった。そのため、ネストリウス派などは東方に逃れることとなった。
- ヤハヤー・イブン=マーサワイヒ - 初代館長。キリスト教徒
- フナイン親子 - 翻訳家。キリスト教徒
- クスター・イブン=ルーカー - 翻訳家。キリスト教徒
影響
翻訳のおかげで、イスラム世界のさまざまな人々が、アラビア語で学問を論じ始め、アラビア語は知的言語・共通言語としての力を高めることともなった。
古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統が、イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。
ユダヤ教徒も、サアディア・ベン・ヨセフやマイモニデスは言うまでもなく、哲学関係の書をアラビア語で読み書きするようになった。それまでユダヤ教徒の間ではアラム語やギリシア語が共通語・日常語であったが、アラビア語に取って代わられるようになった(ユダヤ教やシナゴーグ、聖書解釈・詩作といったものなどに関する場面以外は、アラビア語で話し、書くようになっていった)。
その後
時代は飛ぶが、12世紀を最後に、イスラム世界におけるギリシア哲学研究は停滞し始め、ユダヤ教徒も次第に哲学に関してヘブライ語で書くようになり(書き言葉としてのヘブライ語の復興)、ラテン語を学ぶユダヤ教徒も出てくる。