相国寺

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法堂(正面)

相国寺(しょうこくじ)は、日本禅寺京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。山号萬年山(万年山)と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺(万年山相国承天禅寺、まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)という。

本尊釈迦如来開基(創立者)は足利義満開山(初代住職)は夢窓疎石である。

足利将軍家伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文雪舟は相国寺の出身である。また、京都観光名所として著名な鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。

歴史

永徳2年(1382年)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。

義満は、禅の師であった春屋妙葩開山となることを要請したが、妙葩はこれを固辞。妙葩の師夢窓疎石を開山とするなら、自分は喜んで2世住職になると返したため、疎石が開山となった。尤も、2世住職・妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388年)に没している。

相国寺は京都最大の禅宗寺院の1つとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は全高(尖塔高)109.1m(360。比較資料:1 E2 m)を誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔である。昭和4年(1929年)の依佐美送信所鉄塔(250m)竣工までのおよそ530年間、高さ歴代日本一の記録は破られなかった。義満没後の応永32年(1425年)に再度全焼している。

応仁元年(1467年)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失(相国寺の戦い)。天文20年(1551年)にも細川晴元三好長慶の争いに巻き込まれて焼失(相国寺の戦い)、ここまでで都合4回焼失している。天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌が住職となり、復興を進めた。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。

伽藍

境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。

  • 法堂重要文化財) :「無畏堂」とも言い、慶長10年(1605年)、豊臣秀頼寄進によって再建された。日本にある法堂建築としては最古のものである。天井にあるの絵は狩野光信の手になる。特定の場所で手を打つと反響するため、「鳴き龍」と呼ばれる。

塔頭寺院

かつては臨済宗の事実上の最高機関として五山以下の諸寺を統括する役所鹿苑院があった。足利義満が鹿苑院の院主である絶海中津僧録に任命して以来、その院主が僧録を兼務し鹿苑僧録として権勢を振るうことになった。明治時代初期の廃仏毀釈の嵐に見舞われて廃絶。

かつての山内塔頭

山内塔頭

  • 大光明寺
  • 林光院
  • 玉龍院
  • 普広院
  • 慈雲院
  • 慈照院
  • 豊光寺
  • 長得院
  • 養源院
  • 光源院
  • 瑞春院 - 水上勉が幼い時に暮らし、小説『雁の寺』のモデルになった。
  • 大通院

山外塔頭

文化財

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無学祖元墨蹟 与長楽寺一翁偈語

承天閣美術館収蔵品については、同美術館の項を参照。以下には相国寺伝来品のみを掲げる。

国宝

重要文化財

  • 本堂(法堂)附 玄関廊
  • 紙本墨画猿猴竹林図 長谷川等伯筆 六曲屏風
  • 絹本著色十六羅漢像 陸信忠筆 16幅
  • 絹本著色鳴鶴図 文正筆 2幅
  • 絹本墨画淡彩 鳳凰図 林良筆
  • 紙本墨画 山水図 絶海中津の賛あり
  • 子元祖元高峰顕日問答語
  • 十牛頌(・絶海中津筆)10幅
  • 明主勅書
  • 異国通船朱印状
  • 普広院指図

アクセス

鉄道
自動車道

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関連項目

参考文献

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外部リンク

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