田丸美寿々

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テンプレート:基礎情報 アナウンサー 田丸 美寿々(たまる みすず、1952年7月1日 - )は、日本ニュースキャスター、テレビ・アナウンサーである。日本ニュース時事能力検定協会理事、早稲田大学大学院政治学研究科非常勤講師。

フジテレビ勤務を経て、1983年昭和58年)からはフリーランスとして活動している。

人物

広島県高田郡八千代町(当時)出身[1]埼玉県立川越女子高等学校を経て、東京外国語大学外国語学部英米語学科卒業[1]

女性報道キャスターの草分け」[2][3][4][5]、またフジテレビアナウンサーを経てフリーランスに転身して成功、「女性フリーアナウンサーの草分け」でもあり[6]、同時に、略奪結婚で話題となって「不倫女子アナの草分け」ともいわれる[7]。また、また頼近美津子らとともに、女性アナウンサーのタレント化といわれる「女子アナ[8]、「美人女子アナ」といわれる存在の先駆けでもあった[9][10][11]

著書、翻訳多数。

生い立ち

祖父は若い時、一旗上げようとアメリカ合衆国に渡り貿易商をしていた[1]。父親はアメリカで生まれ、帰国後高校教師、母親も小学校教員であったが、美寿々が生後8ヶ月の時、父は職を辞し単身英語の勉強を目的にアメリカに留学[1]。父親はサンノゼ州立大学卒業後、サンフランシスコで邦人向けの新聞記者職を得た[1]。それに伴い美寿々は母親と共に渡米、5歳からの5年間をカリフォルニア州で過ごした[4]。父親がアメリカ生まれの日系二世というのも頼近との共通点である[1]。頼近とはライバル視された時期もあったが、大学の先輩後輩の間柄で頼近が田丸を慕っていた[12]

小学校4年の時、父親が日本のNHK国際放送に就職したため帰国し[1]、初めは東京都小金井市[1]、中学校から埼玉県草加市[1]所沢市に居住した[4]。これは昭和30年代後半のことであり、いわゆる帰国子女のはしりだったともいえる[13]。アメリカでも日本語を勉強していたが、学校では広島弁を笑われて苛められ、高熱が続いて登校拒否にもなった。自分が少し解放されたのは大学に入ってからという[1]

フジテレビアナウンサー

大学卒業後の就職先は三井物産に内定していたものの[1]、好奇心から学内の掲示板を見て、親に内緒でフジテレビへも応募した[4]。田丸は当時低迷期にあった同局の就職試験に合格、1975年昭和50年)に報道局解説放送室付リポーター[注 1]として入職した。2000人の受験者で大卒の採用は3名だった[1]

当時のフジテレビでは、正社員以外のアナウンサーをリポーター(記者)と呼んでいたが、田丸はこのリポーターとしての入職であった。同期入局には、後の同局アナウンス室長・堺正幸や、報道局解説委員の和田圭フリーアナウンサー酒井ゆきえらがいた。

「重要なニュースは男が読まなければ信頼されない」と思われていた時代[3]、女性アナウンサーの出番は、街の話題やお知らせなど、業界で言う「暇ネタ」とか「ヤワネタ」の担当、天気予報、番組司会者のアシスタントなどだった[2][4]。当時は女性アナウンサーは勿論、女性記者、カメラマン、ディレクターなど、女性そのものの姿が報道の現場になかったという[14]。当時はそれが普通で、田丸本人もアナウンサーを長くやるとは思わず、それを差別とも思わなかったと話している[1]。入社時、「報道をやりたい」と当時の鹿内信隆会長に直訴すると半年間、お茶くみやコピーとりばかりの閑職に追いやられた[1][2]。同期の酒井は、『ママとあそぼう!ピンポンパン』の担当となっていたが、田丸にようやく決まったのが『FNNニュース』の天気予報だった。入局2年目の1976年昭和51年)にはロッキード事件が発生したが、田丸は天気予報中に自由民主党の内部抗争の話題を引き合いに出し、政府筋から猛抗議を受けることになった。

その後、天気予報や『3時のあなた』のアシスタントを3年半務めた田丸は1978年昭和53年)10月、『FNNニュースレポート6:30』へ先輩の逸見政孝と共にメインキャスターとして抜擢された[2]。逸見がとにかく現場に行って生の声を伝えようとしたので、田丸も時に強引な突撃取材を行う[1]。当時はまだアナウンサーが取材することが珍しい時代だった[1]。逸見は田丸を評して「この番組に強烈なイメージを持たせたのは田丸美寿々さんであり、報道番組における女性の位置を考える時、彼女の果たした役割というのははかりしれないものがある。当時、アナウンサー、レポーター採用試験の際に『田丸さんのようなキャスターになりたい』という女性志願者の声が、どんなに多かったか。彼女は、さまざまな意味で個性的な女性でした。今まで私が一緒に仕事をした女性の中では傑出しています。彼女は十年に一度、あるいは二十年に一度出るかどうかの逸材であろうと思います」と述べている[2][15]

1980年昭和55年)4月にNHK初の早朝ニュースショー、『NHKニュースワイド』で、初代女性キャスターとして頼近美津子森本毅郎とのコンビ(平日)、土曜日は山根基世明石勇)が、同じ月から加賀美幸子が『7時のニュース』でメインキャスターとなる[16]。田丸はフジテレビ女性キャスター第1号であり、業界全体でも女性キャスターの草分けである[1][2][3][17][18][19]。この番組では、キャスターが現場に出向いてリポートする新しい手法がとられ、田丸も笹川良一武見太郎ら、大物とされる人物に直撃インタビューを行った。こうした相手に田丸は、言葉じりをひとつひとつ捉えて揶揄する形で、さらに言葉を引き出そうという手法を取ったため、相手が激昂し「やり過ぎ」「最も聞きたい筈の本質についてアプローチ出来ていない」などの批判を受けた[20]

1981年昭和56年)4月、頼近がフジテレビに引き抜かれて鳴り物入りで移籍してきたが、この移籍を手引きしたのは、同郷で大学の先輩・後輩の関係でもある田丸であった[21]。元々、アナウンサー志望だった頼近は、大学時代から先輩の田丸に就職先など相談していた間柄であった[22]。頼近がフジテレビ史上初の女性正社員となったため、機構改革が行われ、ようやく田丸らもアナウンサー(正社員)という身分になった。1981年7月、頼近と共にフジテレビ代表としてダイアナ妃結婚の衛星中継ロンドンからレポート[23]

1982年昭和57年)2月に発生した日航機事故の取材の際、機長に事故発生当時の心境を聞こうと、警察が張っていた立入禁止のロープを越えて病院から出てきた機長に突撃取材を敢行したが、警察はこの予想外の取材姿勢に対し、フジテレビに警視庁記者クラブへの出入りを5日間禁止する処分を下した[1]

不倫スキャンダル

1982年昭和57年)、情報番組 『おはよう!ナイスデイ』の女性メインキャスターに起用されて話題となった。しかし、番組開始から間もなく、田丸が妻子あるジャーナリスト美里泰伸と不倫関係にあることが報じられた[1]

田丸と美里は翌年2月に結婚したが、これは田丸によるいわゆる略奪婚であり、また当時美里の妻が妊娠中であったこともあってスキャンダルとなった[1][7]。これに対して田丸は、「(美里泰伸を前妻から)奪ったのではなく、譲ってもらった」と発言、写真週刊誌 『FOCUS』をはじめとするマスメディアからバッシングを受けた。このことから、田丸は、不倫女子アナの草分けとも看做される[2][7]

1983年昭和58年)2月2日に田丸の退任記者会見が行われ、同年3月末をもってフジテレビを退職することを発表した[24]。担当していた『おはよう!ナイスデイ』は1983年に入って視聴率が上がり[注 2]同局編成局長・日枝久も「結婚は個人の問題。番組は4月以降も続けてもらう」と話していて、田丸の契約は3月で切れるもののフジテレビは4月以降も起用の方針であった[24]。田丸は急転直下の電撃退職だった[24]。退社会見には当時の同局編成局長・日枝久も同席、田丸は 『おはよう!ナイスデイ』宇留田俊夫プロデューサーと私の間の個人的な不信感」と会見で公表した[24][注 3]。田丸は退社前月の2月7日をもって担当番組の全てから降板し、約40日間の長期有給休暇に入った。最期は10日間でフジテレビの各部署に挨拶回りを済ませると、予定通りに同年3月一杯で同局を退社したテンプレート:要出典

フリーランス

1983年昭和58年)3月にフジテレビを退社して独立すると、退社翌日にゲスト出演した『モーニングジャンボ奥さま8時半です』(TBS)から田丸は結婚後の本名である「美里美寿々(みさと みすず)」の名前で、フリーランスのアナウンサーとしての活動を開始した。

1985年昭和60年)からは、客員研究員(国際関係論)として、アメリカ合衆国・ニュージャージー州プリンストン大学に約1年間留学したが[1][4]、これには夫・美里も付き添って同地に滞在した。

翌年帰国した田丸は初め、テレビ朝日と専属契約を締結[1]、同局の番組、『モーニングショー』、『ザ・スクープ』、『ナイトライン』、『朝まで生テレビ!』、『ザ・ニュースキャスター』などに出演した。これらの活動を通して、田丸は女性フリーキャスターの草分けともなった[6]1986年フィリピン2月革命直後のマニラに乗り込み、就任直後のアキノ大統領にインタビューを敢行、日本大使館の強いバックアップもあって世界のメディアに先駆けこれを成功させた[25]。『ザ・スクープ』でコンビを組んだ鳥越俊太郎は、「当時はしょっちゅう喧嘩して、田丸に殺意を覚えたが、今は感謝している」と述べている[26]

1991年平成3年)美里泰伸と離婚した際にもマスコミの関心が集まった[1]。美里は手記を発表したが、田丸は沈黙を通した[1]。テレビ朝日との専属契約を1994年平成6年)に解消した田丸は、新たにTBSとの間に専属契約を締結、同局の報道番組 『報道特集[27]』の総合司会を2010年平成22年)3月まで務めた[28]。また、選挙報道特別番組にも司会として度々出演、1998年自由民主党総裁選挙で勝利した小渕恵三が「日本国万歳、自民党万歳」と定型文例の口上を述べ万歳した際には、「どうして自分の言葉で素直に表現できないのでしょうか」と評して話題になった。

私生活

主張・発言

  • 選択的夫婦別姓制度導入に賛同する。「反対派の議論は、社会の現実と合わない現在の法律を守ろうとしている」と反対論者を批判する[29]

出演番組

報道・情報番組など
その他

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. フジテレビアナウンス部は、正式には『解説放送室』という報道部の直轄だった(週刊ポスト2009年7月31日号 46頁。
  2. この年、千葉大女医殺人事件などで田丸がレポーターとしての本領を発揮し、視聴率は10%を超えて同時間帯民放番組のトップに躍り出ていた[24]
  3. 「私の結婚に関して、意図的としか思えない情報の流布など、結婚の妨害工作があったんです。その方とはもう一緒にやっていけない。それは一緒に続けろという会社の方針に相反するのだから、会社を辞めることにしたんです」と話した[24]。妨害工作について具体的には会見で話さなかったが、芸能誌では「宇留田俊夫プロデューサーが『番組のイメージダウンにつながるから、離婚を成立させてから知り合ったという風に発表してくれ』と私たちの結婚問題に干渉してきた」などと話した[24]。「プロデューサー以外のスタッフとの軋轢はまったくない」と話したが、プロデューサーを含むスタッフとの間に溝を深め、修復できない所までいったのではないか評せられた[24]

出典

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主な著書

  • 「薔薇は荒野に咲け」東京白川書院、1981年
  • 「面白おしゃべり術」青春出版社、1982年1月
  • 「男の空模様」1993年12月
  • 「可愛い女はちょっと生意気」PHP研究所、1994年10月
  • 「自分らしさが愛される」大和出版、1996年9月
  • 「20代のあなただからできること」大和出版、1999年8月
  • 「本当にやりたいことのために、今しておくこと」PHP研究所、2004年12月
  • 「働く女性の会話のおしゃれ」三笠書房、2002年2月
  • 「働く女性のちょっと気のきいたものの言い方」三笠書房、2003年5月

参考書籍

関連項目

外部リンク

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  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 逸見政孝氏 田丸美寿々を「20年に一人の逸材」と語っていた(NEWSポストセブン)日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した(NEWSポストセブン)
  3. 3.0 3.1 3.2 SPECIAL REPORT:キャンパスナウ:教育×WASEDA ONLINE
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 田丸美寿々さん: わたしと司法 | 関東弁護士会連合会
  5. 2014年05月08日の記事 | 山村美智 Official Blog各局渡り歩いた…田丸美寿々「報道特集」降板のワケ - 芸能 - ZAKZAK
  6. 6.0 6.1 田丸美寿々さん「報道特集」キャスター卒業へ
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 「不倫女子アナの全歴史」 『週刊現代』 (講談社) 2008年8月23・30日号、25-27頁
  8. テンプレート:Cite journal
  9. テンプレート:Cite news
  10. 美人女子アナの草分け…頼近美津子さん死去 スポニチ Sponichi Annex
  11. 和田アキ子『和田アキ子だ 文句あっか!』日本文芸社、117、118頁
  12. 「週刊文春」1981年12月24、31日号、159-160頁
  13. 「報道特集」田丸美寿々キャスター9月いっぱいで卒業
  14. 田丸美寿々 | Journalism School
  15. 逸見政孝『マジメまして逸見です Majime it's Me』フジテレビ出版、1985年、113-114頁
  16. サンデー毎日」1980年4月6日号、116頁
  17. 日本初の女子アナ 1年で退社し9年後年下男性と心中した(NEWSポストセブン)
  18. ニュースキャスター田丸美寿々: 紀伊國屋書店BookWeb
  19. もっとも、日本テレビでの青尾幸小池裕美子石川牧子など田丸の前から夕方のニュースでキャスターを務めた女性もおり、業界全体で田丸が明確に"第1号"と言えるかは不透明である。
  20. 『マジメまして逸見です Majime it's Me』120-121頁
  21. 週刊朝日」1981年2月13日号、35頁
  22. 週刊サンケイ」1981年2月19日号、24-25頁
  23. 佐藤孝吉『僕がテレビ屋サトーですー名物ディレクター奮戦記』文藝春秋、2004年、312-317頁、「週刊朝日」1981年8月24日号、43頁
  24. 24.0 24.1 24.2 24.3 24.4 24.5 24.6 24.7 「サンデー毎日」1983年2月20日号、163-164頁
  25. 田丸美寿々さん報道特集降板 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
  26. 鳥越俊太郎氏、『ザ・スクープ』で共演した田丸美寿々に「殺意を覚えた」と告白
  27. 27.0 27.1 2008年4月から2010年3月までは『報道特集NEXT』
  28. 28.0 28.1 田丸美寿々の「降板」で『報道特集』に不協和音 - 現代ビジネス
  29. 婦人公論」2003年2月7日号