王渾のソースを表示
←
王渾
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''王渾''' *[[晋 (王朝)|晋]]代の人物。[[王氏]](琅邪王氏)出身。 *晋代の人物。王氏(太原王氏)出身。 == 王渾 (琅邪王氏) == '''王 渾'''(おう こん、生没年不詳)は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋]]の軍人・政治家。[[字]]は'''長源'''。父は[[王雄 (三国)|王雄]]。子は[[王戎]]。[[徐州]]琅邪郡の人。 [[涼州]][[刺史]]を務めた。[[竹林の七賢]]の[[阮籍]]・[[山濤]]と交流があった。また、子は七賢の一人である。 == 王渾 (太原王氏) == '''王 渾'''(おう こん、[[223年]]- [[297年]])は、中国三国時代から西晋の軍人・政治家。字は'''玄沖'''。父は[[王昶 (曹魏)|王昶]]。弟は王湛。子は王尚・王済・王澄・王汶。孫は王卓・王聿。妻は鍾琰([[鍾ヨウ|鍾繇]]の曾孫、『晋書』「列女伝」)。[[并州]][[太原]]郡の人。『[[晋書]]』に伝がある。 === 生涯 === 深沈典雅で器量があった。父の爵位である京陵侯を継承し、[[曹爽]]の招聘を受けたが、曹爽が失脚し誅殺されると免職になった。後に懷[[県令]]として復帰し、[[司馬昭]]の参軍事となり、黄門侍郎・散騎乗尉・越騎校尉と昇進した。禅譲により晋が成立すると揚烈将軍の官を加えられ、[[徐州]]刺史に転任となった。そのころ天災により飢餓が発生していたため、施しを行い人心を安定させた。封邑の加増を受け、東中郎将・監[[淮北]]諸軍事となり、[[許昌]]に駐屯した。 転じて征虜将軍・監[[豫州]]諸軍事・仮節・領豫州刺史となった。[[呉 (三国)|呉]]に対し武威を示したため、呉から降伏してくる者が甚だ多かった。呉の[[薛瑩]]・[[魯淑]]が軍勢十万と号し攻め寄せたとき、州兵の多くが休暇でおらず、手元には一握りの兵しかいなかったが、王渾はその手勢で呉軍の不意を突いて出陣し、薛瑩らを撃破した。 安東将軍・[[都督]][[揚州]]諸軍事・持節となると、揚州刺史の応綽と[[淮南]]諸軍事を派遣して、呉の長年の重要拠点であった皖城と諸屯営を攻め破り、多数の穀物・稲苗・舟船を焼いた。王渾は東の境界に兵を並べ、その地形・敵城を観察し、来たる呉の攻撃に備えた。 [[279年]]からの[[呉の滅亡 (三国)|征呉の役]]では、揚州刺史の周浚と司馬の孫疇を派遣し呉の[[張悌]]・[[孫震 (孫呉)|孫震]]を破って二人を斬り、首級と捕虜合わせて7800を得るなど多大な功績を挙げた。しかし王渾が呉の主力と戦っている隙に、[[益州]]から[[長江]]を下って侵攻してきた[[王濬]]が[[孫皓]]を降したため、その独断専行を弾劾した。[[司馬炎]](武帝)から呉を降した大功を王濬と共に評価され、褒美を与えられると共に子弟に爵位が与えられた。 揚州方面に留まり暫く統治に励んだ後、尚書左僕射・散騎常侍となり中央に戻った。武帝の弟の斉王[[司馬攸]]が、[[匈奴]]の[[劉淵]]を除くよう進言すると、劉淵と親交があったため彼を弁護した(『晋書』劉淵伝)。後に司馬攸が武帝と仲違いし帰藩を命じられたときは、多くの群臣達と共に反対し、外に出すのであれば司馬攸に代えて[[司馬亮]]を充てるべきだと勧めた。しかし武帝はこれに従わなかった。子の王済は武帝の娘婿で寵臣の一人であったが、やはり父と共に武帝の意向に反対し寵愛を失い、暫くして父に先立ち世を去った。 [[太熙]]年間に[[司徒]]となり、[[恵帝 (西晋)|恵帝]]の時代になると[[侍中]]を加えられた。[[楊駿]]が誅殺されると、旧臣として崇敬を受け、兵権を特別に与えられたが、文官である司徒が一時の寵愛によって兵を持つことは、旧典にはないとしてこれを返上した。論者は皆、その謙譲と見識を称えたという。 後に、楚王[[司馬イ|司馬瑋]]が司馬亮と[[衛カン|衛瓘]]を討つため挙兵したとき、三軍に威名の轟く王渾を味方につけようとしたが、王渾はこれに応じず家兵千余人を配備し私邸に引き篭った。司馬瑋が誅殺されると、その兵を率いて官舎へ赴き、[[録尚書事]]に任じられた。王渾は官職を歴任したため著しい称賛を受けたが、台輔([[宰相]])に就いてからはその声望を日ごとに落としていったとされる。 [[元康 (晋)|元康]]7年([[297年]])死去。長子の王尚が早くに亡くなったため、次子の王済が後継となっていたが、その王済も先立ったため、王済の子の王卓が跡を継いだ。中華統一の元勲の一角として、王渾とその一族は高官・高位を得、西晋朝廷において栄華を誇ることになった。 == 参考文献 == *『晋書』 *『三国志』 == 外部リンク == *[[:zh:s:晉書/卷042|晋書(ウィキソース中国語版)]] {{DEFAULTSORT:おう こん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:魏晋南北朝時代の人物]] [[Category:琅邪王氏|こん]] [[Category:太原王氏|こん]] [[Category:223年生]] [[Category:297年没]]
王渾
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報