玉置宏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:混同 テンプレート:基礎情報 アナウンサー 玉置 宏(たまおき ひろし、1934年1月5日 - 2010年2月11日)は日本フリーアナウンサー司会者である。元文化放送アナウンサー。本名、玉置 宏行(たまおき ひろゆき)。日本司会芸能協会名誉会長、横浜にぎわい座初代館長。神奈川県川崎市出身。

来歴・人物

生家の家業は米屋。神奈川県立川崎高等学校明治大学商学部卒業。1956年文化放送に入社し文化放送第1号の男性アナウンサーとなる。

1958年三橋美智也の勧めでフリーに転身。司会を中心にテレビ・ラジオ・舞台などで活動。同年から1977年までTBSロッテ歌のアルバム』を19年・1,000回、1967年からNET(現・テレビ朝日)『象印スターものまね大合戦』を10年務める。冒頭の挨拶「一週間のご無沙汰でした。玉置宏でございます。お口の恋人、ロッテ提供、『ロッテ歌のアルバム』…」は当時流行語になる。『スターものまね大合戦』でも「一週間の…」のくだりは言う。『玉置宏の笑顔でこんにちは!』(ニッポン放送)や『にっぽんの歌』『昭和歌謡大全集』(テレビ東京)、『ラジオ名人寄席』(NHKラジオ第1)など多くの長寿番組の司会を手掛ける。

長年に渡り出演した、「玉置宏の笑顔でこんにちは!」の出演時期には、定期券で電車で通っていた時期もある。

このほかコロムビアレコードの専属司会者となる。この際に漫才師のコロムビア・トップ・ライト青空一門の客分となる。

1979年には、東映映画のシリーズである「トラック野郎」シリーズの最終作『故郷特急便』に大阪梅田コマのコンサート司会者役で出演する。

1981年には真咲よう子とのデュエット曲『東京ラスト・ナイト』で歌手活動を開始し、同曲は10万枚を販売する。

1989年からは当時親交のあった森数人(琴古流尺八師範)や北島三郎等の薦めで日本音楽作家協会が主催する日本縦断イベント(交通遺児チャリティコンサート)の司会・進行役を2期務め3期目からは、作詞・作曲・編曲家の冬樹かずみと歌手の村上幸子が、健康上の理由から勇退した玉置の代わりを務めた。玉置宏の歌謡日本はそのまま継続して放送されている。また単発ではあったが台湾(他3ケ国)で行われたアジアチャリティソングフェスティバルの際にも、急遽代役として推挙した冬樹かずみ계은숙のフェスティバル進行を心配するあまり、ノーギャラで総合司会を再度引き受け最後までやり遂げたことでも、その人となりが広く知られることとなった。加えて生粋の大洋ホエールズ・横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズファンである。同球団の1998年の日本一決定までは6球団しかないんだからもっと優勝してほしいとゲキを飛ばしていた。ファンになったきっかけは秋山登土井淳と大学の学部で同級であった事である。1998年にベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝を決めた日には『ニュースステーション』の番組冒頭に登場し、「38年ぶりのご無沙汰でした」と述べる。また、同日の優勝決定試合で無料開放された横浜スタジアムで進行役を務めた。また、ノンベーズという草野球チームの監督をしていた時期もあり、野球に対する情熱の深さを知ることができる。

幼い頃より、家族や家業の使用人等と寄席に通ったり、放送での寄席番組に親しみ、一時は、噺家を志したほどの落語好き。学生時代にも、寄席や落語会などに頻繁に通っていた。

演芸関連のレコードやテープ、CDや、個人的に演芸番組の放送をエアチェックした落語演芸の録音(録画)したものや、各方面から入手した(録音、録画した)ものを数多くコレクションしており、演芸関連の資料も数多く所有する、演芸評論家としての一面もある。

NHKラジオ第1で、長年放送し番組席亭(番組進行、解説役)を務めていた『ラジオ名人寄席』では自身の録音(録画)からの音源も提供して放送を行っていた。2003年に開設された横浜にぎわい座の、初代館長に就任する。2007年5月12日の「第12回林家彦六賞」に於いて、「寄席関係に貢献、話芸の発展に尽力した」との事で「彦六特別賞」が贈られた。

しかし2008年3月、玉置が持ち込み『ラジオ名人寄席』内で使用した落語の音源のうち一部がTBSが収録したものでありその使用についてTBSから許諾を得ていなかったことが川戸貞吉草柳俊一からの申し入れで明らかになり、玉置は同番組を降板し同番組は打ち切られる。番組内で放送の音源にはTBS以外でも許諾を得ていない音源使用も多数あることを両者から指摘され調査の結果、放送された12年間にTBSほか7社から91演目、再放送も含めると計205件の無断使用があったことが明らかになっている。使用料合計の約1300万円は、NHKとの番組委託契約によって番組制作であるNHKエンタープライズが全額支払ったが、玉置自ら申し出て改めてNHKエンタープライズへ全額支払いを行った。また番組発のNHKサービスセンターが販売する落語CD、カセット商品3演目分も市販のレコード等を無許可で使って商品化していたことが判明し廃盤とする。

この『ラジオ名人寄席』での音源不正使用事件の個人的責任を取り、日本芸能実演家団体協議会理事の辞任と自身の司会番組『昭和歌謡大全集』を降板。また横浜にぎわい座館長も辞任の意を表したが、慰留され留まる。以後、舞台のほかはスカパー時代劇専門チャンネルで放送の『中継・横浜にぎわい座 名作傑作落語選』に出演する程度で事実上第一線からは退いた。事件の責任を取っての行動である。

2010年2月11日午前10時33分、脳幹出血のため神奈川県内の病院で死去[1]テンプレート:没年齢2月4日に倒れ入院加療中だった。不正使用事件以後、急激にやつれ、倒れる直前にはろれつが回らぬなど、関係者等からその体調を案ぜられていた最中であった。

玉置宏の死去の報に、元祖御三家橋幸夫舟木一夫西郷輝彦を始め、縁のあった歌手などが相次いで追悼コメントを出し、改めて玉置の歌謡界への貢献ぶりと存在感がクローズアップされている。

2010年4月12日 東京・千代田区丸の内の東京會舘9階ローズルームに於いて「お別れの会」(実行委員長は、桂歌丸)が催され、親交のあった歌手や落語家など、芸能関係者を中心に約500人が参列した。祭壇には、生前好きだったハイボールを作るためのウイスキーと炭酸水、マイク等が供えられた。

「特殊部落」発言糾弾事件

1973年7月19日フジテレビ系列の「3時のあなた」"男を斬る"のコーナーで、以下の発言が大きな問題となった[2]テンプレート:Quotation フジテレビ側は番組の最後で「先ほどの玉置氏の発言に不穏当なところがありましたので、おわびして訂正いたします」と放送したが、玉置の発言は系列局の関西テレビテレビ西日本などの放送を通じて問題となり、7月24日部落解放同盟による第1回糾弾会が大阪の関西テレビで開かれた[2]

出席したフジテレビと関西テレビの代表は、以下の6項目を約束した[2]

  1. 玉置宏本人と8月16日に会わせること
  2. フジテレビはこの問題で別途時間をとって放送すること
  3. 民放連との話し合いを実現すること
  4. 社員研修をおこなうこと
  5. 俳優協会や日本タレント協会に同和問題の説得と働きかけをおこなうこと
  6. 人権意識を高める番組を放送すること

関西テレビでは8月7日8月8日に部落解放同盟講師による研修会を開いている[2]

8月16日の第2回糾弾会には、部落解放同盟から中央本部副委員長の松井久吉、中央執行委員の西岡智のほか、大阪府京都府奈良県兵庫県和歌山県広島県高知県の代表を含む130人が出席し、玉置のほか、フジテレビ編成部マネージャーの日枝久、関西テレビ取締役編成制作局長の伊藤たちを糾弾した[2]

玉置は自己批判書を提出し「弁解の余地はない。深く反省している。部落問題を勉強する」と繰り返し詫びたが、部落解放同盟は納得せず、「きれいごとにすぎない」と4時間にわたり糾弾した[2]。フジテレビと関西テレビも「社会の公器として部落解放の一端を担っていく姿勢がまったくない」と糾弾された[2]。このため両局は、部落解放同盟向けの番組を2本制作した[2]

最終的に玉置は土下座して謝罪し、12月25日の「3時のあなた」で涙ながらに研修の結果を報告し、自己批判をおこない、ようやく許された。後日、玉置は「あれだけの脅迫に耐えたのだから、私にもう怖いものはない」と述懐していた[2]

なお、この事件の当時は部落解放同盟の対立団体である正常化連(部落解放同盟正常化全国連絡会議、現・人権連)も糾弾をおこなっていたため、玉置の「特殊部落」発言があった当日に電話で抗議し、7月20日7月25日9月19日10月18日の4回にわたり、フジテレビやフジテレビ系列各局を相手に確認会を開いて追及した[2]テンプレート:See also

出演番組

TV

ラジオ

CM

著書

  • 玉置ナレーション大全集(1998年)ISBN 978-4401601318

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

先代:
-
ロッテ 歌のアルバムシリーズ 司会者
初代(1958年5月 - 1977年8月)
玉置宏
次代:
千昌夫
小島一慶
(1977年8月 - 1979年3月)
  1. 司会者の玉置宏さん死去、76歳
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 『差別用語』(汐文社、1975年)p.49-51