犀川 (長野県)

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テンプレート:Infobox 河川 犀川(さいがわ)は、長野県内を流れる信濃川水系一級河川。一般に、松本市島内奈良井川を合流させて以降の下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、上流部は梓川(あずさがわ)と呼ばれる。

地理

飛騨山脈(北アルプス)南部の槍ヶ岳(標高3,180メートル)に源を発し上高地を南流。白骨温泉からの湯川や乗鞍高原からの小大野川を合流させたのち、奈川渡(梓湖)で奈川を合流させる。ここで東南に向かっていた流れを東北方向に変え、安曇3ダム奈川渡ダム水殿ダム稲核ダム)を経由し、島々集落付近で黒川島々谷川を合流させ松本盆地に流れ込む。松本盆地で楢川塩尻市方面より北流してきた奈良井川を合流させる。ここを境として上流部を梓川、以降を犀川と呼んでいる(後述・#梓川と犀川の違いを参照)。

犀川は松本盆地を北流する中で、同じく槍ヶ岳を水源とする高瀬川仁科三湖青木湖中綱湖木崎湖)からの水も合わせ合流する。安曇野市内ではこのほか穂高川や万水川などが合流し、犀川白鳥湖は1,000羽を数えるコハクチョウカモの群れが越冬する場所として知られる。生坂村からは北東へと向きを変え、ところどころ蛇行しつつ美しい渓谷犀峡(さいきょう)と呼ばれる。長野市信州新町では水内ダムが琅鶴湖を形成し、久米路峡では長野県歌「信濃の国」の歌詞にも登場する名勝・久米路橋が架かる。長野盆地では裾花川を合流させ、戦国時代武将上杉謙信武田信玄川中島の戦いを繰り広げた川中島で千曲川へ合流する。合流点には落合橋が架かる。

水運

1832年天保3年)から1902年(明治35年)すぎまで、犀川を利用した水運事業が行われていた(犀川通船女鳥羽川を参照)。

梓川と犀川の違い

河川法上では上高地を水源とする流路を犀川本流と定めているが、上高地から安曇3ダムを経て奈良井川が合流するまでの犀川は梓川と呼ばれ有名である。一説には、奈良井川と梓川が合流して犀川となるのではなく、少し下流の高瀬川が合流した地点「押野崎」が犀川の始点である、という説もある。梓川を含めた犀川は、長野市の千曲川(信濃川本流)との合流点から上流で比較すると千曲川を延長、流域面積共に上回る。

このように、一つの河川が上流と下流とで名称が異なる例は日本全国に数多くあり、信濃川(新潟県)と千曲川(長野県)、淀川大阪府)と宇治川京都府)・瀬田川滋賀県)、江の川島根県広島県)と可愛川(広島県)、筑後川福岡県)と大山川(大分県)が有名である。

電源開発事業

犀川には、生坂村から長野市にかけて上流より順に生坂ダム平ダム水内ダム笹平ダム小田切ダムが建設されている。いずれも東京電力が管理するダムである。これらはあくまでも発電専用ダムであり、洪水を防止する能力(治水)には期待できない。ダム完成後50年ほど経過するが、流域では何度か洪水災害に襲われている。長野市信州新町では洪水の原因が電力会社にあるとして、水内ダムの撤去を求める運動にまで発展したことがある。

東京電力は犀川流域に多くの水力発電所を建設している。犀川上流の梓川には奈川渡ダム水殿ダム稲核ダムが、支流の高瀬川には高瀬ダム七倉ダムがあり、犀川流域に建設されたダム15基のうち10基は東京電力が所有し管理する発電専用ダムである。残り5基は国土交通省北陸地方整備局が管理している大町ダム(高瀬川)と、長野県が管理している奈良井ダム奈良井川)および裾花ダム奥裾花ダム湯の瀬ダム(裾花川)で、この5基は多目的ダムに分類される。ただし湯の瀬ダムは洪水調節機能を持たない利水(上水道・発電)を目的としたダムである。

災害

急峻な地形を縫って流れるため、幾度と無く水害土砂災害を引き起こしている。1847年5月8日に発生した善光寺地震では、河岸の山腹が崩壊し水篠橋付近で河道閉塞を発生させた後に崩壊。湛水と出水により幾つもの村が壊滅的被害を受けた。

伝承と文化

神話における記述

仁科濫觴記』よれば、崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王(仁科氏の祖)が都より王町(現・大町市)に下った際、安曇平安曇野の古称)が降水時に氾濫して水浸しになることを憂い、解決を命じた。治水工事に長けた白水郎(あまこ)の長の日光(ひかる)の指導の下、工事が施工され、川幅が広げられたため、氾濫は止んだ。この時、川幅を広げた場所が、山征(さんせい:山を切り開くこと)をした場所ということで山征場あるいは山征地と名づけられた。この治水工事の話しが、「泉小太郎伝説[1]」となって今日に伝えられていると考えられている[2]。ちなみに信府統記などでとりあげられている泉小太郎伝説は、龍によって犀川が開かれたことになっており、その開いた場所は、すべて山清路 で一致している。それらの理由から、この「山征場」あるいは「山征地」は、そのまま山清路に比定しても良いと考えられている[3]

このとき、会議によって「山征」の矩規(のり:方法のことか?)を話し合った場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」と名付けた。この征矩規峡が『安曇開基』、『仁科開基』などに見られる「犀乗沢(さいのりざわ)」に比定される。犀乗沢の場所がはっきりとどこであったかは判っていないが、『安曇開基』などによると、安曇野市豊科高家地区熊倉の東のあたりであったと書かれている。テンプレート:要出典範囲

民話における記述

1917年大正6年)発行の『日本伝説叢書』に、犀川に架かる久米路橋(水内橋)にまつわる人柱伝説についての記述があるので、要約して以下に紹介する[4]

梅雨のたびに流されてしまう久米路橋に、村人たちは困り果てていた。何とかして川のの怒りを鎮めようと、村で知恵者といわれた老人に意見を求めた。するとその老人は、自分たちの川の神に対する敬意が足りない、次に橋を架けるときは一人の村人を人柱にして神に供えよう、しかし罪もない者を人柱にするのは可哀想だから囚人を使おう、と提案する。そこで、庄屋から小豆を盗んだ罪で捕らえた男を牢屋から引き出し、橋の杭の下に生き埋めにした。その男は村の外れで暮らす貧しい百姓で、お菊という名のがいた。お菊が自宅で毎日赤飯を食べていると言いふらしていたため、不審に思った役人が話を聞いたところ、その男が愛娘のために盗みを働いたことが分かった。
父親を人柱に失って以来、お菊はずっと悲しげな顔をして、一言も口をきかなくなってしまった。それから母親の手一つで育てられ、17歳になる頃には道行く人も思わず足を止めるほどの美人になっていたが、口のきけない娘を妻にする男は現れなかった。ある日、軒下で佇んでいたお菊は、鳴いたキジを狩人鉄砲を使って撃ち落とす光景を目にする。黙っていれば命は助かったものを、父は私がしゃべったせいで死んだ、また誰かを死なせることのないよう、決して口をきくまい、と言ってお菊は再び口を閉ざし、それから一生口をきくことはなかった。

この民話は1957年昭和32年)発行の『信濃の民話』にも「おしになった娘」という題で収録されている[5]。これは下高井郡山ノ内町上条の高橋忠治による話を作家松谷みよ子が再話したもので、娘(お菊)が「もりい」、父親が「五作」、母親(故人)が「おてい」という名前になっていたり、物語の最後で娘(もりい)が失踪するなど[5]、『日本伝説叢書』のものと異なる点がある。菅忠道は「おしになった娘」について、「民話の再話と再創造の分岐点に立っているといえるような記念碑的な作品」と評価している[6]

これと似た人柱伝説は大阪府淀川に架かる長柄橋にも伝わる(長柄橋#古代の長柄橋を参照)。

流域の自治体

梓川

長野県
松本市

犀川

長野県
松本市、安曇野市東筑摩郡生坂村大町市長野市

支流

これより犀川

並行する交通

道路

鉄道

橋梁

下流より記載。

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク

  • 松本・安曇平に伝わる民話犀竜と泉小太郎』(童話龍の子太郎』のモデル)によると、泉子太郎と母が山清路で犀川をふさいでいたを破り、かつての底にあった松本盆地の大地を露出させたという。
  • 仁科宗一郎著『安曇の古代 -仁科濫觴記考-』(柳沢書苑、1982年)
  • 仁科宗一郎著・同書 28-32頁
  • 『日本伝説叢書 信濃の巻』99 - 103ページ
  • 5.0 5.1 『日本の民話 1 信濃の民話』52 - 58ページ。
  • 『松谷みよ子全集 9 龍の子太郎』174ページ(かっこ内は引用)。