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'''熊 十力'''(ゆう じゅうりき、Xiong Shili, 号は子真 [[1885年]] - [[1968年]][[5月23日]])は、現代[[中国]]の著名な学者であり、[[新儒家]]の代表的な思想家である。 [[黄岡]]県([[湖北省]])の出身。原名は継智だが、升恒、定中と改名し、後に十力と改める。号は子真、漆園老人と号した。父親は郷村の塾教師であった。若くして父母を失い、軍に入った。[[1911年]]の内外を震撼させた[[武昌]]起義に参加し、湖北督軍府参謀に任じられる。辛亥革命の失敗後、[[1917年]]に[[広州市|広州]]へ行き、[[孫文]]が推進する「護法運動」に参加したが、その失敗の後、[[哲学]]研究に専心することを決意。[[1920年]]には、[[南京市|南京]]の[[支那内学院]]に入り、欧陽竟無大師に従い、[[仏教学]]を研習した。その後、武昌の文華大学、[[天津市|天津]]の南開中学、[[北京大学]]、[[浙江大学]]で教鞭を執る。 日中戦争の勃発後、北京大学の移転に従い、南して[[昆明]]([[雲南省]])に移り、楽山復性書院で、宋明理学を講授する。彼は、ある民族が存続するためには、自己の哲学と自己の文化を持つことが不可欠であると考えた。これにより、精力的に[[儒家]]の学説に対する研究を開始した。また、『読経示要』などの[[儒学]]に関する著作を著し、[[胡適]]らの人々の“全盤西化”の主張に対して批判を展開した。ただし、聖賢の手になるという[[経典]]の中に沈迷することなく、伝統的な儒学に対して徹底的な反思を加え、なおかつ、その中に諸子百家の諸説をも呑み込み、儒仏をも融合し、一個の思弁的で緻密な[[中国化]]した哲学を独創した。 [[1944年]]、その『新[[唯識]]論』(語体文本)を上梓し、[[重慶市|重慶]]商務印書館より中国哲学会の『中国哲学叢書』甲集の第1部として出版した。本書は彼の最も主要な思想書であり、熊十力の哲学思想体系が完成したものである。彼の思想の変化を端的に表現すれば、文言文本は、なお“新仏家”の学者の所説と評することができ、それに対して、語体文本は“[[新儒家]]”の学者の著作とみなすことができる。そのやや後に出版された『十力語要』、『十力語要初続』などの書中において、熊十力の'''新儒家哲学思想'''の主要な内容が展開されている。解放後、首届全国政治協商会議に参加、その後、全国政協、二、三、四届委員に選任される。1968年5月23日、文化大革命の迫害を受けたのち、[[上海市|上海]]で病没(絶食して死んだとも伝えられる)。 ==著作== 『新唯識論』([[1932年]], 文言文本)、『原儒』([[1956年]])、『体用論』、『明心篇』、『仏家名相通釈』、『乾坤衍』など。 ==評価== “'''熊学'''”の研究者は中国国内のみならず海外にも多く、『大英百科全書』の中でも「熊十力と[[馮友蘭]]は中国現代哲学の傑出人物である」と紹介されている。 またその三大弟子といわれる[[牟宗三]]、[[唐君毅]]、[[徐復觀]]は、熊十力と異なり大陸を逃れ、香港や台湾で活躍した。 ==参考文献== *『新儒家哲学について:熊十力の哲学』[[島田虔次]]著(同朋舎 1987年) ISBN 4810405966 *『新唯識論』[[吾妻重二]]翻訳(関西大学出版部 2004年) ISBN 4873543878 *中島隆博「新儒家と仏教――梁漱溟、熊十力、牟宗三」『思想』No.1001(岩波書店、2007年) {{DEFAULTSORT:ゆう しゆうりき}} [[Category:中国の儒学者]] [[Category:北京大学の教員]] [[Category:浙江大学の教員]] [[Category:文化大革命の被害者]] [[Category:黄岡出身の人物]] [[Category:1885年生]] [[Category:1968年没]]
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