澤登正朗

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テンプレート:サッカー選手 澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - )は、静岡県富士宮市出身の元サッカー選手サッカー解説者・サッカー指導者。現役時代はMFとして活躍、日本代表にも選ばれた。また、Jリーグの初代新人王でもある。引退後はテレビ雑誌などでのサッカーの解説者として活動。JFAアンバサダーも務める。

プロフィール

東海大一高(現・東海大翔洋高)2年生のときに選手権優勝。3年生では準優勝。東海大学体育学部卒業後、1992年から清水エスパルスの草創期メンバーとして活躍し、2005年11月23日に現役引退を表明して現役生活にピリオドを打つまで清水一筋で常に第一線で出場し続けた。Jリーグ創設の1993年から2005年まで、同一クラブのみで13年連続ゴールを決めているただ一人の選手である[1]

デビュー以来一貫して清水に所属し第一線で活躍[2]1996年から2000年にかけては主将としてチームを引っ張り、1996年のナビスコカップ1999年のJ1・2ndステージでチームを優勝に導く(同年のベストイレブン)などチームに対する貢献度は絶大で、今なお「ミスター・エスパルス」と称される。その功績を賞して、2007年1月21日日本平スタジアムで、清水出身の選手として初めて引退試合を行った。詳細は後述する。

日本代表としても1994年ワールドカップアメリカ大会予選を戦い、ドーハの悲劇も経験している。

現在は地元静岡県を中心にサッカー講習会の講師、静岡放送静岡朝日テレビのサッカー解説者として出演している。(静岡放送「SBSテレビ夕刊(イブニングニュース)」月曜レギュラーなど)

2007年6月30日静岡市葵区モンマスティー静岡店をオープン。

テレビ朝日報道ステーション」のサッカーコメンテーターとして2008年2月6日からレギュラー出演している。これはサッカーキャスターの前任者・福田正博が浦和コーチに就任し降板したためによる後継。当番組では、巻き戻しを多用しての解説を特徴とする。

2009年3月12日にJ監督就任が可能になる公認S級コーチに認定された。

2013年から浜松大学サッカー部の監督に就任。

逸話

  • 澤登が引退した直後のシーズンとなった2006年シーズン開幕前、クラブ側が彼の付けていた背番号10番を欠番としなかったことに対し、サポーターから非難の声が上がるほどであった。
  • 1993年5月7日1994年FIFAワールドカップアメリカ大会のアジア地区1次予選最終戦・対アラブ首長国連邦(UAE)戦がアウェイアル・アイン・スタジアムにて行われた。ここまで7戦全勝で迎えた日本代表は既に同年4月のホーム(国立競技場)におけるUAE戦で2対0の勝利を収めていたが、この日は気温33度、湿度も20%程度の過酷な天候が影響してかよもやの苦戦を強いられる。ホームの利と衰えない運動量に支えられたUAEのカウンター攻撃を凌ぎつつ、0対0で迎えた後半32分福田正博に代わり澤登が途中出場。UAEがPKと決定的なシュートを2度、ゴールポストとクロスバーに当てる幸運に助けられたものの、日本劣勢の展開は変わらずついに後半37分技ありのループシュートを決められ先制点を許してしまう。しかしわずか1分後の後半38分、澤登はUAEゴール前のクリアーミスを見逃さず右足で前方にトラップ、2度目の小さいバウンドが上がった所をペナルティエリア外側中央から豪快に右足を振りぬいた。左サイドネット際目掛けて放たれた鮮やかなミドルシュートはGKの手をかすめて決まり、このゴールによって試合は1対1のドローに終わる。その豪快さもさることながら、日本が一次予選無敗を守った殊勲のゴールでもあった。当時歴代最強と言われた日本代表の意地を見た瞬間とも言え、約1週間後には念願のJリーグの開幕を迎える時期でもあった。澤登自ら、このゴールを「思い出のゴール」として挙げている[3]
  • 日本代表で長年背番号10を付けていたラモス瑠偉は、10番の後継者として澤登を指名していた。
  • 清水は悲願のステージ優勝を果たした1999年シーズン、年間を通じて非常に安定した成績を誇り、チャンピオンシップこそ惜しくもPK戦で敗れたものの、年間の勝点では2位を完全に引き離す成績であった(1位の清水が勝点65、2位のが勝点58)。澤登はその中心選手として活躍した功績が認められ、7年目にして自身初のベストイレブンに選ばれた。

伝説のフリーキック

1999年のJリーグチャンピオンシップ第二戦、清水のホーム日本平スタジアムで最大のライバルジュビロ磐田と対決。
試合はチャンピオンシップ史上初の静岡ダービーとなったことや、第一戦で清水が敗北を喫していたことなどから、立ち上がりから激しい展開を見せる。
前半34分、中山雅史が前線からプレスをかけ、西澤淳二からボールを奪取。守備の乱れから服部年宏のミドルシュートが決まり、アウェイのジュビロ磐田が一点を先制する。
わずか3分後の前半37分、三浦文丈アレックスに対してファウル。この際、三浦の執拗なマークに苦しんでいたアレックスが、報復行為で一発退場を受け、早くも0-1かつ十人で戦わなければいけない状況に。1999年シーズンのステージ優勝はアレックス抜きには語れないほどその存在は大きく、絶望的な雰囲気が漂う日本平スタジアム。
しかし、澤登はそのファウルで得たFKを直接決める。
先制された直後に試合を振り出しに戻しただけでなく、アレックス退場により停滞したチームのムードを払拭する値千金の一撃であった。また、その直後に失点に繋がるミスを犯した西澤淳二に声をかけている姿が印象的であった。
そのFKは「伝説のフリーキック」とまで呼ばれ現在でも語り草となっており、澤登にとって、そして清水にとっての歴史に残るゴールとされている。

引退試合

個人タイトル

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 16試合 3得点(1993-2000)[6]

テンプレート:サッカー代表個人成績 |- |1993||5||1 |- |1994||6||1 |- |1995||0||0 |- |1996||0||0 |- |1997||0||0 |- |1998||0||0 |- |1999||1||0 |- |2000||4||1 |- !通算 |16||3 |}

得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1993年5月7日 アラブ首長国連邦アルアイン テンプレート:UAEf 1-1 引分 1994 FIFAワールドカップ予選
2 1994年10月9日 日本尾道 テンプレート:MMRf 5-0 勝利 アジア競技大会
3 2000年2月16日 マカオ テンプレート:Flagicon ブルネイ 9-0 勝利 AFCアジアカップ2000予選

個人成績

テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1992||rowspan="14"|清水||rowspan="5"|-||rowspan="7"|J||colspan="2"|-||10||1||3||0||13||1 |- |1993||35||7||1||0||4||2||40||9 |- |1994||41||7||1||0||1||0||43||7 |- |1995||40||13||colspan="2"|-||1||0||41||13 |- |1996||29||9||16||3||3||0||48||12 |- |1997||rowspan="9"|10||31||11||6||0||3||1||40||12 |- |1998||32||10||4||2||5||3||41||15 |- |1999||rowspan="7"|J1||28||9||4||1||3||0||35||10 |- |2000||27||3||4||1||5||0||36||4 |- |2001||26||9||2||1||5||2||33||12 |- |2002||29||3||7||3||3||2||39||8 |- |2003||14||2||2||0||4||0||20||2 |- |2004||24||1||5||0||1||0||30||1 |- |2005||25||1||5||0||1||0||31||1 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始381||85||57||11||41||10||479||106 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終381||85||57||11||41||10||479||106 |} その他の公式戦

テンプレート:サッカー選手国際成績表 top テンプレート:サッカー選手国際成績表 th |2002-03||清水||10||1||1 |- !通算!!colspan="2"|AFC |1||1 |}

経歴

出演番組

関連項目

脚注

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外部リンク

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  1. J創設からの13年連続ゴールを記録したプレーヤーとしては、他に三浦知良(カズ)がいるが、カズは途中で移籍を挟んでおり、また国外移籍によってJリーグに不在の時期がある。また、中山雅史は15年連続ゴールを達成しているが、中山が所属したジュビロ磐田1994年からのJリーグ加盟であり、創設からの連続ゴールではない。移籍を挟み、かつ1994年からの13年連続ゴールとして、他に藤田俊哉がいる。
  2. J創設時から一度も移籍することなく10年以上同じチームでプレイしたのは、澤登以外には鹿島アントラーズ本田泰人浦和レッズ福田正博東京ヴェルディ北澤豪横浜F・マリノス永山邦夫がいる。
  3. 引退後に出演したTBS、『スーパーサッカープラス』内での発言。
  4. 名波浩(背番号7)も出場予定だったが、実母の死去により欠場した。
  5. オフィシャル発表された背番号は18番であったが、試合当日、ラモスの計らいで「JAPAN ALL STARS」の背番号10番を譲り受ける。また、カズからキャプテンマークも譲り受けた。
  6. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「daihyo」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません