源為朝

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源 為朝(みなもと の ためとも、旧字体:爲朝)は、平安時代末期の武将源為義の八男。母は摂津国江口(現・大阪市東淀川区江口)の遊女

の名手で、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称す。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配したので、追討を受け自害した。テンプレート:要出典範囲

一方、琉球王国正史中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき追討を逃れて現在の沖縄県に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になったといわれる、伝説的な人物でもある。

生涯

為朝の生涯については軍記物語の『保元物語』に拠るところが多い。為朝は『保元物語』の事実上の主人公で、そこには人間離れした為朝の活躍が描かれているが、テンプレート:独自研究範囲しかし『愚管抄』には為朝が兄の頼賢とともに奮戦したとあり、『吾妻鏡』にも戦場で射られた大庭景義が為朝のことを「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、当時から世に聞こえた剛の武者であったことは確かである。

以下本項では『保元物語』の記すところにしたがって為朝の生涯をたどる。

鎮西総追捕使

為朝は七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。強弓の使い手で、左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かった。勇猛で傍若無人、兄たちにも遠慮しなかった。

13歳の時、父・為義に勘当されて九州に追放されてしまう。尾張権守家遠が後見となって豊後国に住んでいたが、肥後国阿蘇郡平忠国の婿となる(薩摩国阿多郡の誤りとの説もある、この場合、平忠国は薩摩平氏平忠景)。その後、自ら鎮西総追捕使を称して暴れまわり、菊池氏原田氏など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めを繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまった。香椎宮神人が為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、久寿元年(1154年)に出頭の宣旨が出されてしまう。為朝はこれに従わなかったが、翌久寿2年(1155年)に父が解官されてしまった。これを聞いて為朝は帰参することにし、九州の強者28騎を率いて上洛した。

保元の乱

保元元年(1156年)、鳥羽法皇崩御すると、治天の君の座を巡って対立していた崇徳上皇後白河天皇の衝突は避けられない情勢になっていた。双方が名だたる武士をそれぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義は上皇方の大将として招かれる。老齢を理由に再三これを辞したものの、遂には承諾させられ、為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇の御所白河北殿に参上した。一方、為義の嫡男で関東を地盤としていた義朝は多くの東国武士とともに天皇方へ参じた。

為朝は三尺五寸の太刀を差し、五人張りの強弓を持って西河原面の門を守った。7月11日、軍議が開かれ、為朝は「九州で多くの合戦をしましたが夜討に勝るものはありません。ただちに高松殿(天皇方の本営)へ攻め寄せ、火を放てば容易に勝てましょう。兄の義朝が出てくれば私が射落としますし、清盛なぞは敵にもなりません。逃げ出してくる主上の駕車の人夫を射散らして、主上をお連れすればよろしい」と夜討を献策するが、左大臣藤原頼長は「乱暴なことを言うな。夜討などは武士同士の私戦ですることだ。主上と上皇の国を巡る戦いである。興福寺僧兵の到着を待って決戦するべし」と退けてしまった。為朝は兄の義朝は必ず夜討をしかけてくるだろうと予見して口惜しがった。

その夜、為朝の予見通りに天皇方が白河北殿に夜討をかけてきた。為朝を宥めるために急ぎ除目を行い蔵人に任じるが、為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」と跳ね付けた。

平清盛の軍勢が為朝の守る西門に攻めてきた。清盛の郎党伊藤景綱とその子忠景(忠清)忠直が名乗りをあげると為朝は「清盛ですら物足りないのに、お前らなぞ相手にならん、退け」と言う。景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放つ。為朝はものともせず「物足りない敵だが、今生の面目にせよ」と七寸五分の矢を射かけ、矢は忠直の体を貫き、後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さった。忠清は矢を清盛のもとに持ち帰って報告し、清盛たちは驚愕して怖気づいてしまう。清盛は部署を変えて北門へ向かうが、嫡男の平重盛が口惜しいことだと挑もうとして清盛があわてて止めさせた。

剛の者の伊賀国の住人山田伊行は矢一本で引き退くのは口惜しいと思い、進み出て名乗りをあげて射かけるが、一の矢を損じ、二の矢をつがえるところを為朝に射落とされてしまった。

清盛に代わって兄の義朝の手勢が攻め寄せ、郎党の鎌田政清が進み出で名乗りを上げた。為朝は「主人の前から立ち去れ」と言い返すが、政清は「主人ではあったが、今は違勅の凶徒」と言うや矢を放ち、為朝の兜に当たる。これに為朝は激怒して「お前なぞ矢の無駄だ、手打ちにしてくれる」と鎮西の強者28騎を率いて斬り込みをかけ、政清は敵わずと逃げ出し、「これほどの敵には遭ったことがございません」と義朝に報告した。義朝は「馬上の技は坂東武者の方が上である」と坂東武者200騎を率いて攻めかかり乱戦となった。

義朝は「勅命である、退散せよ」と大声をあげるが、為朝は「こちらは院宣をお受けしている」と言い返した。義朝は「兄に弓を引けば神仏の加護を失うぞ」と言うと、為朝は「では、父(為義)に弓を引くことはどうなのか」と言い返し、義朝は言葉に窮してしまった。再び乱戦になり、無勢の為朝はいったん門内に兵を引くが、義朝勢は追撃にかかる。義朝の姿を確認した為朝は射ようとするが、よもや父と兄とに密契があるかもしれんと思いとどまった。

接戦となると無勢の為朝は不利であり、大将の義朝を威嚇して退かせようと考えた。狙い誤らず、為朝の矢は義朝の兜の星を射削る。義朝は「聞き及んでいたが、やはり乱暴な奴だ」と言うや、為朝は「お許しいただければ二の矢をお見舞いしましょう。どこぞなりと当てて見せます」と言って矢をつがえる。とっさに、深巣清国が間に割って入り、為朝はこれを射殺した。

大庭景義景親の兄弟が挑みかかるが、為朝は試にと鏑矢を放ち、景義の左の膝を砕き、景親は落馬した兄を助け上げて逃げ帰った。後に源頼朝に仕えて御家人になった景義は酒宴でこの合戦について、為朝は無双の弓矢の達者だが、身の丈よりも大きい弓を使い馬上での扱いに慣れずに狙いを誤ったのだろうと語っている。

義朝の坂東武者と為朝の鎮西武者との間で火が出るほどの戦いが繰り返されたが、為朝の28騎のうち23騎が討ち死にしてしまった。一方、坂東武者も53騎が討たれている。

他の門でも激戦が続き、勝敗は容易に決しなかった。義朝は内裏へ使者を送り火攻めの勅許を求め、後白河天皇はこれを許した。火がかけられ風にあおられて、白河北殿はたちまち炎上。崇徳上皇方は大混乱に陥り、上皇と藤原頼長は脱出。為義、頼賢、為朝ら武士たちも各々落ちた。

為義は息子たちと共に東国での再挙を図るが、老体であり気弱になり、出家して降伏することに決めた。「義朝が勲功に代えても父や弟たちを助けるだろう」と為義は希望を持つが、為朝は反対してあくまでの東国へ落ちることを主張する。結局、為義は出頭して降伏する。しかし、為義は許されず、息子たちも捕えられ、勅命により義朝によって斬首されてしまった。

為朝は逃亡を続け近江国坂田(滋賀県坂田郡)の地に隠れた。病に罹り、湯治をしていたところ、密告があり湯屋で佐渡重貞の手勢に囲まれ、真っ裸であり抵抗もできず捕えられた。京へ護送された時には、名高い勇者を一目見ようと群衆が集まり、天皇までが見物に行幸した。

伊豆大島の流人

既に戦後処理もひと段落しており、為朝は武勇を惜しまれて助命され、8月26日に肘を外し自慢の弓を射ることができないようにされてから伊豆大島流刑となった。

やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の三郎大夫忠重の婿となり伊豆諸島を従え年貢も出さなくなった。伊豆諸島を所領とする伊豆工藤茂光を恐れた忠重は密かに年貢を納めるが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまう。

伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)はの子孫で大男ばかりが住む鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰った。為朝はこの島を加えた伊豆七島を支配する。

嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下った。同年4月、茂光は伊東氏北条氏宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせた。

為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、島で生まれた9歳になる我が子・為頼を刺し殺した。自害しようと思うが、せめて一矢だけでもと思い、300人ほどが乗る軍船に向けて得意の強弓を射かけ、見事に命中し、船はたちまち沈んでしまった[1]

館に帰り、「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」[2]とつぶやき、南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って自害した。享年32。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったが[3]加藤景廉が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた。

没年は治承元年(1177年)ともいわれる(『尊卑分脈』)。

大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。

為朝伝説

ファイル:Yoshitoshi Driving away the Demons.jpg
月岡芳年画「為朝の武威痘鬼神を退く図
ファイル:啓蒙挿画日本外史 源為朝.jpg
大槻東陽著『啓蒙挿画日本外史』明治35年発行「源為朝強弓ヲ挽テ官軍の艦ヲ覆へス」
  • 佐賀県黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「牛津」と呼ばれるようになった。
  • 武蔵国足立郡宮内村(現在の埼玉県北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1208年)に八丈島に弥陀寺を創建した(現在の宗福寺)。太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原征伐後帰農して今に連綿と系譜が続いている。
  • 琉球王国の正史『中山世鑑』や公選の歌集である『おもろさうし』では、源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この伝承に基づき、大正11年(1922年)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている[4]
  • 鎌倉時代に現在の岩手県宮古市に本拠を置いた閉伊氏の資料には、源為朝の遺児といわれる閉伊為頼(大嶋為家・閉伊頼基・佐々木十郎行光とも)が源頼朝より陸奥国閉伊郡気仙郡を賜り、閉伊氏を称したとある。
  • 信濃国伊那地方を領し、江戸時代には交代寄合となった座光寺氏は、『寛政重修諸家譜』で為朝の後裔と称している。ただし、座光寺氏は諏訪氏の一族であると見られている。
  • 源義経は本当は八男だったが、源氏の勇者の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる。
  • 伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射ったところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、井戸ができたという。この場所が現在の六角ノ井といわれている。
  • 「雁股(かりまた)の泉」伝説:奄美諸島の喜界島の小野津集落には、源為朝が琉球に渡ろうとした途中にシケに遭い喜界島の沖合を漂っているときに島に住人がいるかどうかを確かめるために雁股の矢を放ち、その矢を抜き取った後から清水が湧き出たと伝えられている。
  • 河内源氏義国流に連なる今川貞世は、自著『難太平記』の中で、自身や足利尊氏の先祖にあたる足利義兼の出自を為朝の子であるとし、係累である足利義康が幼い頃から嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、足利氏の家系にも学術的にも認められていない[5]

脚注

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参考文献

関連項目

  • 古写本によっては、300人が乗る大船の記述はなく、「500余人にて百余艘に乗って」とあるため(新 日本古典文学大系 『保元物語』 岩波書店)、それほどの大船ではなく、300人を乗せた船というのは後代の加筆の(誇張された)線がある。後述の「強弓による沈没」も、百余艘の記述に従った場合、舟の規模は小さかったことになり(1艘辺り6人前後)、誇張表現ではなくなる。
  • 『保元物語』原文「昔は矢一つにて鎧武者二人を射通しけり。今は舟を射て(舟底に穴をあけ沈没させて)多く人をぞ殺しけり」。
  • 『保元物語』の記述では、「空(から)自害ではと恐れ」、つまり自害したと見せかけているのではないかと半信半疑だったことが語られている。
  • なお、『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」)。なお、最近の遺伝子の研究で、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞、2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。
  • 臼井(1969)