渤海 (国)

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渤海(ぼっかい、698年[1] - 926年)は、満洲から朝鮮半島北部、現ロシア沿海地方にかけて、かつて存在した国家。大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれ、統一新羅の8倍、高句麗の4倍の領土を誇ったが、最後は契丹)によって滅ぼされた。

新唐書』に、渤海は本来粟末靺鞨であり高句麗に従属していた、姓は大氏である(渤海 本粟末靺鞨附高麗者 姓大氏「渤海、それ粟末靺鞨にして高麗に附く者たり。姓は大氏」)と記す。

旧唐書』と『新唐書』では渤海靺鞨の指導者大祚栄に関する記述は異なる。『旧唐書』では渤海靺鞨大祚栄は出自は高句麗の別種(渤海靺鞨大祚榮者 本高麗別種也「渤海靺鞨の大祚榮、本は高麗の別種なり」)としているが、『新唐書』では粟末靺鞨の出としている。

『大金国史』には、女直女真)は粛慎の遺種であり、渤海の別種(又曰女直、粛慎氏遺種、渤海之別種也。)と記す。

渤海の風俗は高句麗・契丹と同じ(風俗瑟高麗及契丹同「風俗は高麗契丹に重なり同じくする」)とある。

渤海の名は本来、遼東半島山東半島の内側にあり黄河が注ぎ込む湾状の海域のことである(→「渤海 (海域)」)。初代国王大祚栄が、渤海沿岸で現在の河北省南部にあたる渤海郡の名目上の王(渤海郡王)に封ぜられたことから、本来の渤海からやや離れたこの国の国号となった。

以下、本項では歴史上に存在した国家としての「渤海国」を扱う。民族としての「渤海民族」については、別項渤海人を参照。

歴史

テンプレート:満州の歴史 690年に即位した武則天が執政した時期は羈縻支配地域に対する収奪が激しくなり、唐によって営州都督府の管轄下にあった松漠都督府(現在の遼寧省朝陽市)の支配地域に強制移住させられていた契丹が暴動を起こした。この混乱に乗じて、粟末靺鞨人は指導者乞乞仲象の指揮の下で高句麗の残党と共に、松漠都督府の支配下から脱出し、その後、彼の息子大祚栄の指導の下に高句麗の故地へ進出、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて震国を建てた。この地は後に「旧国」と呼ばれる。大祚栄は唐(武周)の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で「渤海郡王」に冊封された。

2代大武芸は仁安と言う独自の元号を用いて独立色を明確にし、唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。また唐・新羅黒水靺鞨と対抗するために日本へ使者を送っている。軍事的な同盟の用はなさなかったものの、毛皮などが交易された。この交流は渤海滅亡まで続き、計34回使者が行き来している(渤海使遣渤海使)。 大武芸が没するとその子大欽茂が即位し大興と改元した。父武王の唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣(渤海時代を通じて132回)し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。この他旧国(東牟山)から上京竜泉府(現在の黒竜江省牡丹江市)への遷都を実施し、五京を整備する等の地方行政制度を整備するなど唐制を積極的に採り入れるなどし、国力の発展が見られた。

このようにして渤海発展の基礎が築かれたが、大欽茂治世末期から国勢の不振が見られるようになった。大欽茂が没すると問題は深刻化し、その後王位継承に混乱が生じ、族弟の大元義が即位後、国人により殺害される事件が生じた。その後は大欽茂の嫡系の大華が即位するが短命に終わり、続いて大嵩が即位し、混乱した渤海国内を安定に向かわせる政策を採用した。大嵩は唐への恭順と日本との通好という外交問題に力を注ぎ、渤海の安定と発展の方向性を示したが、治世十余年で没してしまう。大嵩没後は大元瑜大言義大明忠と短命な王が続いた。この6代の王の治世は合計して20数年でしかなく、文治政治の平和は継続したが、国勢の根本的な改善を見ることができなかった。

国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。唐は安史の乱後の混乱と地方に対する統制の弛緩のなかで周辺諸国に対する支配体制も弱体化していき、黒水都督府を9世紀初頭に解体した。大仁秀はその政治的空白を埋めるように、拂涅部・虞類部・鉄利部・越喜部を攻略、東平府・定理府・鉄利府・懐遠府・安遠府などの府州を設置した。また黒水部も影響下に入り、黒水部が独自に唐に入朝することはなくなった、その状態は渤海の滅亡直前まで続き、渤海は「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国された契丹国(のちの遼)の侵攻を受け渤海は926年に滅亡、契丹は故地に東丹国を設置して支配した。渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。

また東丹国の設置と縮小に伴い、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、契丹(遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、その都度多くは遼の保有する遼西や遼東の各地域へ移住させられ、または残留し、一部は高麗へ亡命し、一部は故地の北方へ戻った。黒水靺鞨(女真)が統合を果たしが建てた王朝(1115年1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼしたの代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満洲として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消した。

政治

王権

中央統治機構

地方統治機構に関しては唐の制度を模倣しており、『新唐書』の記載によれば三省・六部・一台・一院・一監・一局の行政機構が存在しており、名称こそ異なるが、唐の三省を模倣した行政機構が設置されていた。しかし唐の制度をそのまま移植したのではなく、渤海の現状に基づき、機構を簡略化し、唐の二十四司を十二司に圧縮して編成しているのも特徴である。

宣詔省
唐の門下省に相当し、中台省が提出した政令を審議した。長官は左相であり、品秩は正二品である。その下に左平章政事が置かれ、属官として侍中がいた。
中台省
唐の中書省に相当し、政令の草案起草と修訂を担当した。長官は右相であり、品秩は正二品である。その下に右平章政事が置かれ、属官として内史がいた。
政堂省
唐の尚書省に相当し、政令の執行を担当する行政機関の頂点に位置していた。長官は大内相であり、品秩は正二品の上位であった。助手として左右の司政が置かれ、左右平章事の下に位置していた。属官には左右のニ允がいた。下部に六部を設置し統括していた。
忠部
唐の吏部に相当し、文官の採用・考課・勲封を職責としていた。
仁部
唐の戸部 (六部)に相当し、土地・銭穀を職責としていた。
義部
唐の礼部に相当し、儀礼・祭祀・貢挙を職責としていた。
礼部
唐の刑部に相当し、最高司法機関を職責としていた。
智部
唐の兵部に相当し、武官人事・地図作成・車馬武器の管理を職責としていた。
信部
唐の工部 (六部)に相当し、交通・水利・建築及び技術者の管理を職責としていた。
中正台
唐の御史台に相当し、最高監察機構であった。長官を大中正と称し、唐の御史大夫に相当している。
殿中寺
唐の殿中省に相当し、王室の衣食住や行幸などの生活諸般の管理を担当した。長官を大令と称し、唐の殿中監に相当する従三品であった。
宗属寺
唐の宗正寺に相当し、王族の宗親族籍を初めとする事務管理を担当した。長官を大令と称し、唐の宗正卿に相当する従三品であった。
文籍院
唐の秘書省に相当し、経籍・図書の管理を担当した。長官を文籍院監と称し、唐の秘書督に相当する従三品であった。日本に派遣された19次遣日大使の李承英の官名が「文籍院述作郎」とあり、唐の述作局に相当する「述作局」或いは「述作署」が設置されていたことが窺える。
太常寺
唐でも同名の太常寺が存在している。礼楽・郊廟・社稷の管理を担当した。長官は太常卿と称され、正三品であった。
司賓寺
唐の鴻臚寺に相当し、外交と周辺の少数民族関連業務を担当した。長官は司賓卿と称され、唐の鴻臚卿に相当する従三品であった。
大農寺
唐の司農寺に相当し、農業及び営田、穀倉の事務・管理を担当した。長官は大農卿と称され、唐の司農卿に相当する従三品であった。
司蔵寺
唐の太府寺に相当し、財務、貿易の事務・管理を担当した。長官は司蔵令と称され、唐の太府寺卿に相当する従三品であった。
司膳寺
唐の光禄寺に相当し、王廷の酒食の担当した。長官は司膳令と称され、唐の光禄卿に相当する従三品であった。
冑子監
唐の国子監に相当し、渤海国内の教育を担当した。長官は冑子監長と称され、唐の祭酒に相当した。

地方統治機構

全国は5京(首都)15府62州の行政区分に分けられ、京の下に府、府の下に州が置かれた。

  • 上京竜泉府(現在の中国黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮東京城) - 首都。龍州・湖州・渤州を管轄。
    • 竜州 - 府治が設けられた。
    • 湖州 - 忽汗海(現在の鏡泊湖)付近とされている。
    • 渤州 - 黒竜江省牡丹江市南部の城址に比定されている。管轄県は貢珍県のみが現在に伝わっている。
  • 東京竜原府吉林省琿春市八連城に比定) - 周囲16km、南北3.5km、東西4.5kmの方形で37カ所の宮殿を擁していた。沃沮の故地に設けられ、上京府の東南に位置し「柵城府」とも言った。慶州・塩州・穆州・賀州を管轄。
    • 慶州 - 府治が設けられ、龍原・永安・烏山・壁谷・熊山・白楊の6県を管轄。
    • 塩州 - 現在のポシェット湾岸クラスキノ南方の城址に比定され、日本への出発港が設けられていた。下部に海陽・接海・格川・龍川の4県を管轄。
    • 穆州 - 府の南方120里に位置し、会農・水岐・順化・美県の4県を管轄。
    • 賀州 - 位置は不明であるが、洪賀・送誠・吉理・石山の各県を管轄。
  • 中京顕徳府(吉林省和竜市) - 上京府の南方に位置した。盧州・顕州・鉄州・湯州・栄州・興州の6州を管轄。
    • 顕州 - 府治が設けられ、金徳・常楽・永豊・鶏山・長寧の5県を管轄。
    • 盧州 - 中京府の東方130里に位置し、稲の産地として史書に記録がある。下部に山陽・杉盧(さんろ)・漢陽・白岩・霜岩の5県を管轄。
    • 鉄州 - 中京府の西北100里に位置し、位城・河端・蒼山・龍珍の4県を管轄。
    • 湯州 - 中京府の西北100里に位置し、霊峰・常豊・白石・均谷・嘉利の5県を管轄。
    • 栄州 - 中京府の東北150里に位置し、崇山・潙水・緑城の3県を管轄。
    • 興州 - 中京府の西南300里に位置し、盛吉・蒜山(さんざん)・鉄山の3県を管轄。
  • 南京南海府北朝鮮咸興市付近) - 沃沮の故地に設けられ、渤海の南端に位置し、沃州・晴州・椒州の3州を管轄。
    • 沃州 - 府治が設けられ、沃沮・鷲巖(じゅがん)・龍山・浜海・昇平・霊泉の6県を管轄。
    • 晴州 - 南京府の西北120里に位置し、天晴・神陽・蓮池・狼山・仙巖の5県を管轄。
    • 椒州 - 南京府の西南200里に位置し、椒山・貊嶺・澌泉・尖山・巖淵の5県を管轄。
  • 西京鴨緑府(吉林省臨江市) - 高句麗の故地に設けられ、「若忽州」とも称された。神州・桓州・豊州・正州の4州を管轄。
    • 神州 - 府治が設けられ、神鹿・神化・剣門の3県を管轄。
    • 桓州 - 西京府の西南200里に位置し、桓都・神郷・淇水の3県を管轄。
    • 豊州 - 西京府の東北210里に位置し、州府は吉林省安図の仰臉山城に比定されている。下部に安豊・渤恪・隰壌・硤石の4県を管轄。
    • 正州 - 富爾河の流域に位置し、東那県らを管轄。
長嶺府
高句麗の故地に設けられ、営州道の要所に位置した。現在の樺甸県の蘇密城を府城とし、瑕州、河州の2州が設けられた。
瑕州が府治であり、河州は現在の梅河口市に比定されている。
扶余府
夫余の故地に設けられ、扶州、仙州が設けられていた。
扶州は府治が設けられ扶余、布多、顕義、鵲川の4県を管轄していた。
仙州は強師、新安、漁谷の3県を管轄していた。
頡府
夫余の故地に設けられ、州、高州が設けられていた。
州は府治が設けられ、現在の昌図県八面城に比定されており、粤喜、万安の2県を管轄していた。
高州に関しての領県については記録が残っていない。
定理府
挹婁の故地に設けられ、定州、潘州が設けられていた。
定州は府治が設けられ、現在の依蘭県城に比定され、定理、平邱、岩城、慕美、安夷の5県を管轄していた。
潘州は沈水、安定、保山、能利の4県を管轄していた。
安辺府
挹婁の故地に設けられ、現在の双鴨山宝清富錦一帯に比定され、安州、瓊州(けいしゅう)を管轄していた。
安州は府治が設けられていたが、瓊州同様詳細については不明である。
率賓府
率賓の故地に設けられ、綏芬河流域に位置し、華州、益州、建州が設けられていた。
華州は府治が設けられ、現在の黒竜江省東寧県大城子に比定されている。
建州は現在のウスリースク(双城子)に比定されている。
東平府
拂涅の故地に設けられ、伊州、蒙州、沱州、黒州、比州が設けられていた。
蒙州が現在の寧城県に比定されていたこと以外、詳細は不明である。
鉄利府
鉄利の故地に設けられ、現在のウスリー江以東の日本海沿岸部に比定されている。
下部に広州、汾州、蒲州、海州、義州、帰州の6州は設けられていたが、詳細は不明である。
安遠府
越喜の故地に設けられ、率賓州の北、興凱湖の東に位置し、寧州、州、慕州、常州の4州が設けられていた。
寧州が府治であったが、それ以外に関しては不明である。
懐遠府
越喜の故地に設けられ、安遠府の北、鉄利府の南に位置し、達州、越州、懐州、紀州、富州、美州、福州、邪州、芝州の9州が設けられていた。
達州は懐福、豹山、乳水などを管轄していた。
富州は富寿、新興、優富などを管轄していた。
美州は山河、黒河、麓河などを管轄していた。
独奏州
独奏州とは府に統括されず、京師に直接上奏できる州である。
渤海では郢州、銅州、涑州が独奏州として記録に残り、王室に直属していた。
郢州は延慶、白岩の2県を統括していた。
銅州は上京の南、現在のパルパ嶺一帯に比定され、花山県などを管轄していた。
涑州は現在の吉林市付近に比定されている。

上記州以外に『遼史』に記録されている集州(奉集県を管轄)、麓州(麓郡、麓波、雲山の3県を管轄)を加えることで62州となり、『新唐書』に記載される62州に合致する。しかし前記の地方統治機構は渤海存続期間において絶対的な制度ではなく、『遼史』の地理志に「安寧郡」や「龍河郡」という記録もあり、渤海前期には見られなかった「郡」が出現していることからも明らかである。このほか政治・軍事上の理由から唐制に倣い節度使を設けている。『遼史』太祖紀・下に節度使来朝の記録があり、節度使存在の傍証といえる。

軍事制度

渤海では唐制の16衛に倣い左右猛賁、左右熊衛、左右羆衛、南左右衛、北左右衛の10衛が中央に設けられていた。また地方には府兵制が確立されていたと考えられている。しかし渤海後期になると、府兵制が次第に崩壊し、左右の神策軍、左右三軍が設置された。これらは唐の北衙六軍との関連が認められ、渤海王室が設置した常備軍であった。

司法制度

渤海の司法制度に関しては、唐の文宗の時代に大彝震の治世には法律の運用面で国内が安定していた事を示す史料があり、渤海は法律面でも整備が進んでいた事の傍証となっている。律令格式は他の統治方式同様に唐制を模倣したものと考えられている。

司法機関としては中正台、礼部、大理寺が任務に当った。

中正台
渤海最高の監察機関であり、長官の大中正は官民の監督の他、王室内部の粛清や、礼部、大理寺と重要案件を審議する権限を有していた。
礼部
渤海最高の司法機関であり、徒隷、勾覆、関禁の政令を職責としていた。
大理寺
渤海最高の裁判機関であり、訴訟を担当すると共に、礼部とともに裁判員の人選を行っていた。

対外関係

交通

陸上交通

陸上交通は上京府を通信に全国の京・府・州・県に放射状に道路が整備されていた。その交通路は現在の道路、鉄道に沿ったものと考えられている。またこれらの中央からの道路以外にも、5京と旧国の間にも道路が整備されていた。

道路の中で最も重要なのは「営州道」と称されるものである。これは渤海から唐に向かう朝貢使などが使用するものであり、営州(現在の朝陽市)であり、唐が東北地区を支配する要所とされていた地域であり、燕郡城(現在の義県)、安東都護府(現在の遼陽市)、新城(現在の撫順市付近)、長嶺府(現在の樺甸県付近の蘇密城)を経て上京に至る1200km弱のルートである。

新羅への交通は南京府を中心とする「新羅道」が存在していた。『三国史記』地理志には「新羅の泉井郡より柵城府に至る、凡そ三十九駅」との記載があり、泉井郡(現在の咸鏡南道徳源)より柵城府、則ち上京府までの道路の整備状況をうかがい知ることが出来る。この他契丹との交通には扶余府を起点とする「契丹道」が設けられていた。

水上交通

渤海の海上交通は新羅日本への通交に利用されていた。唐への交通は『新唐書』地理志に登州より渤海への交通路が記録されており、登州(現在の蓬莱県)を起点に亀歆島(現在の磯島)を経て烏湖海(現在の渤海海峡)を渡り、更に烏骨江(現在の靉河)を遡上し西京府に至る「朝貢道」と称される道程が示されている。

新羅への海上交通であるが、南海府の吐号浦(現在の鏡城)から朝鮮半島の東沿岸を南下するルートと、西京府から鴨緑江に沿って海上に進み、更に朝鮮半島西沿岸南下するというルートが存在していた。しかし王都から距離のある西ルートは東ルートほど活発に利用されることはなかったようである。

日本への海上交通は「日本道」とよばれるものである。起点は上京府を基点とし陸路塩州(現在のクラスキノ)に至りそこから海上を進むというものである。海路は大まかに3ルートに分類することが出来る。その一つが「筑紫路」であり、塩州を出発した船は朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を経て筑紫の大津浦(現在の福岡)に至るルートである。当時の日本朝廷は外交を管轄する大宰府を筑前に設置していたため、渤海使に対しこのルートの使用を指定していたが、距離が長くまた難破の危険が大きいルートであった。第2のルートが「南海路」と称されるルートである。南海府の吐号浦を起点とし、朝鮮半島東沿岸を南下し、対馬海峡を渡り筑紫に至るルートであるが、776年に暴風雨により使節の乗った船団が遭難、120余名の死者を出してからは使用されていない。第3のルートが「北路」であり、塩州を出発した後、日本海を一気に東南に渡海し、能登加賀越前佐渡に至るルートである。当初は航海知識の欠如から海難事故が発生したが、その後は晩秋から初冬にかけて大陸から流れる西北風を利用し、翌年の夏の東南風を利用しての航海術が確立したことから海難事故も大幅に減少し、また航海日数の短縮も実現した。

外交

唐との関係

大祚栄が震国を建国した当初は、武則天が夷狄から収奪する方策を執っていたため唐と対立していた。そのため当初は突厥や新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行芨を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。

招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの良好な待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられる。

この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は自治政権を確立すると同時に、羈縻体制下での外交関係を継続していた。

なお唐滅亡後は、渤海は中原王朝との外交関係を継続している。

突厥との関係

698年の渤海(当時は「震」)建国当初は東突厥の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、東突厥第二可汗国の第2代阿史那默啜は唐を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は東突厥の属国としての地位を甘受することになり、東突厥から派遣される吐屯(トゥドゥン)により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。

その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると東突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、東突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に東突厥と断交している。

734年、東突厥は渤海に使者を派遣し、契丹の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て東突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後、東突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年回紇により東突厥は滅亡した。

契丹との関係

渤海建国に当たっては営州の反乱と契丹の反唐活動により、大祚栄が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。720年に唐が渤海に対し契丹及びへの攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、これを拒否していることからも推測されるものである。

しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『新唐書』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。

渤海末年、渤海の勢力は衰退し、926年には契丹人による国家、により滅ぼされ、その故地には東丹国が建国された。

新羅との関係

698年に震国が建国された際に新羅はかつての百済全土及び高句麗の一部を領有すると共に、北進政策を採用して渤海の安定を脅かすようになった。またその渤海は唐と対立しており、唐の脅威を抑え、同時に新羅の北進を牽制するため新羅に接近する政策を採用した。当初は新羅の藩屏と称し、新羅の五品の官職である大阿飡を授位されている。しかしその後渤海と唐の関係が好転するに従い、渤海と新羅の関係は変質し、大武芸の時代になると高句麗の故地の回収が目標となり両国関係は緊張、それは721年に新羅が北辺に長城を築城したことに現れている。

渤海と唐が「登州の役」で対立した際、新羅は唐の出兵の求めに応じ渤海を攻撃したが、悪天候に阻まれ新羅軍は大損害を蒙っている。この出来事は新羅の北進政策を抑制すると共に、唐と新羅の対立を政治的に解消させる効果をももたらした。新羅はこの功績により唐から寧海大使の地位を与えられ、浿江以南の高句麗の故地統治を正式に承認させることに成功したが、同時に渤海を牽制する役割をも担うこととなり、渤海と新羅は厳然と対立することとなった。

新羅との対立という状況に際し、渤海は日本と通好することで新羅を背後から牽制することを画策した。安史の乱に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫したことで、軍事的解決の姿勢を放棄し、以降は政治的解決を模索するようになる。新羅側から790年一吉飡(7品)の伯魚を、812年級飡(9品)の崇正を渤海に派遣していることは、政治的な安定を模索した結果であり、新羅道の発展を創出することになる。

この良好な関係も、大仁秀が即位して渤海の領土拡張を目指すようになると、再び両国の均衡は崩壊することになる。826年には新羅の憲徳王浿江に300里の長城を築城したことからも情勢の変化を読み取ることができる。

次に両国の関係が好転するのは10世紀の契丹の勃興という外的要因による。渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解を図る。しかし当時の新羅は国勢が衰退し、既に後三国の時代に入っており、軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、そればかりか渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。新羅は一面で渤海に同調するそぶりを見せ、反面に使者を送り方物を献じるという二面性の外交を展開した。遼が王都の忽汗城を包囲した際には、新羅は渤海に出兵し、更にこの軍功により耶律阿保機により褒賞を受けている。

渤海の存続期間全体を俯瞰するに、渤海と新羅の両国は対立の歴史と捉える事が可能である。

回紇との関係

回紇(ウイグル)は鉄勒諸部の一つであり、バイカル湖南方で遊牧を中心に生活していた。8世紀半ばに東突厥を滅ぼし、また唐を支援して安史の乱を平定するなどの軍事活動を行うと同時に、経済活動も活発に行われ、渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。回紇商人の足跡は上京府以外にも、率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、古ウスリーク城からは突厥文字が刻字された回紇人の遺跡が、沿海州チャピゴウ河岸の渤海寺院跡から出土した景教の陶牌からも回紇人の渤海に於ける活動を示している。しかしその文化・経済交流も840年回鶻回紇)の政権崩壊により消滅した。

黒水靺鞨との関係

渤海建国当初は黒水靺鞨諸部は独立した勢力を有しており、また唐との対立と、周辺諸部に対する支配強化を推し進める渤海は黒水靺鞨に対し懐柔策を採用した。当初は突厥の支配を受けていた黒水靺鞨であるが、次第に突厥の支配を脱し唐へ帰属する路線への転換を図った。722年に首長の倪属利稽が朝見し、勃利州刺史に冊封され黒水府を設置するに至ると、唐と黒水靺鞨による渤海挟撃を危惧した大武芸は黒水靺鞨に出兵している。

大欽茂が即位すると唐との大幅な関係改善が見られ、必然的に黒水靺鞨との緊張状態の緩和を見るに至った。大仁秀の時代になると、渤海により海北諸部の討伐が行われ、黒水靺鞨は渤海に服属し、独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、渤海の統治に対する反乱が発生し、黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。

渤海末期の9世紀になると、黒水靺鞨は新羅との連盟を模索するなど自立の道を探るようになり、また渤海の衰退により黒水靺鞨に対する統治が弱体化したことで、最終的には渤海の従属的地位を脱し、924年には後唐に使節を送るようになった。

日本との関係

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渤海と日本の関係は当初は新羅を牽制するための軍事的性格が強く、唐に対抗するため奈良時代から日本に朝貢した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義ら[2]を日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、日本に到着した時、当時の日本で蝦夷と呼ばれていた人々によって殺害され、生き残った高斉徳他8名が出羽国海岸に漂流し、翌年聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。 日本海側の、金沢敦賀秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。

経済

農業

農業では考古学の成果より渤海全域での鉄器の使用、牛耕の利用が確認されている。これらの農器具を利用し、渤海では五穀と称される(もちきび)、(きび)、が広く栽培されていた。これ以外に忽汗水流域の荏(えごま)、盧城の稲、丸都の李、楽游の梨など各地で特徴ある作物が栽培されていたことが知られている。また前後時代の記録を見ると葵菜の栽培や、渤海の使節が来日した際に渤海人の好む大韮を用意した記録からも、様々な野菜が栽培されていたことを窺い知る事が出来る。また、渤海の在った時代は有数の満州南部が温暖だった時期であり、この事も農業に寄与した。

牧畜業

渤海では馬の飼育が重視されていた。これは軍事的な需要の他、駅站交通や貿易需要からもかなりの数が生産されていたことが知られている。また豚、牛、羊などの飼育も盛んであり、それらは渤海人の墳墓の中からそれらの骨が発掘されることからも十分に窺える。

漁業

渤海の漁業は相当の技術発展を遂げており、唐へ奉献した方物の中に「鯨魚睛」と称される鯨の眼球が含まれていたことから規模の大きい捕鯨までを可能とする段階に達していた。また各地の特産品として湄沱湖(現在の興凱湖)の(フナ)や、忽汗海(現在の鏡泊湖)の「湖」などが記録に残っており、この他文昌魚(鯉の一種)、鰉魚(チョウザメ)、大馬哈魚()、斑魚、鯔魚などが記録に残っている。

冶金業

渤海の在った地域は鉄を豊富に産出する地域であり、全域から多数の鉄製農具が出土しており、かなり冶金手工業が発展していたと考えられる。

狩猟業

唐への朝貢記録には鷹、鶻が進貢されており、特に海東青は鷹狩りの珍品とされ、貴重な貢者として唐へ献上されていた。他にも太白山(現在の長白山)の兎や扶余の鹿などは特産品として『新唐書』に記録されている。また日本との関係で重要な地位をしめたものが貂である。日本の貴族間で珍重された貂皮は当時の日本における最先端ファッションとして受け入れられていた。

紡績業

手工業

商業

商品経済が発展していく中で渤海では貨幣が使用されていたと考えられている(極少数枚ながら開元通宝が出土している[3])。それは大武芸が日本に送った国書の中で「皮幣」の文字を使用していること、873年に日本で貿易を行った際に、賜銭を得て日本の物産を購入していること、滅亡に際して耶律阿保機が「獲る所の器、幣」を将士に分け与えたことからも物々交換の段階を超え、貨幣が流通していた事を示すものと考えられている。

貿易

文化

渤海は唐に対して何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は儒教的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。

前述したように日本との通使も行われており、初期は新羅・唐に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。実態は別として渤海からの使節を日本は朝貢であると認識しており、日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている(遣渤海使)。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある。

宗教的には仏教の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。

渤海文化は唐の影響が非常に強いが、高句麗文化の継承もされており、二つの文化から独自の文化を作り出している。

教育制度

渤海の教育制度は唐制に倣ったものであったと推察される。日本に派遣された渤海使の随員のなかに大小さまざまな録事官が設けられており、また渤海滅亡後に建国された東丹国に広く博士や助教が設置されていたことから、これら官職に類似するものが渤海にも設置され、それは唐制に類似するものであったことを窺わせる。

また上流階級では女子に対する教育も実施されていた。これは貞恵公主や貞孝公主の墓碑に「女師」の文字があることから推察されている。

これらの教育制度により育成された人材は、一部が唐に留学し、科挙に及第する者を輩出するなど、相当な教育水準を有していたと考えられる。

言語と文字

渤海国の公用語は初め靺鞨語が使用されていたが[4]、言語の唐風化が進んで次第に漢語が公用語となった。その他、渤海国に属する高麗人,突厥人,契丹人,室韋人,回紇人などはそのまま自己の言語を使用していた。[5]

また、表記文字としては当時の東アジアで一般的であった漢字を利用していたとされる。上京遺跡から出土した文字瓦には、漢字を簡略化した渤海独自の文字が記録されているが、独自の文字はあまり使用されなかったと考えられている[6]

渤海史主要年表

  • 668年 により高句麗滅亡、平壌安東都護府を設置。高句麗遺民は満洲の営州に強制連行される。
  • 671年 新羅戦争始まる
  • 697年 契丹・李尽忠の乱。靺鞨の乞乞仲象、乞四比羽らが東走。唐、安東都護府を廃止。
  • 698年 大祚栄、震国建国
  • 705年 大門芸が唐に入侍。唐による侍御史を震国に派遣。安東都護府復活。
  • 713年 唐、大祚栄に渤海郡王に冊封
  • 719年 大祚栄卒し、大武芸即位
  • 721年 新羅による東北国境での長城建設
  • 722年 黒水靺鞨が渤海領を通過して唐に遣使
  • 725年 唐により黒水靺鞨に黒水府が設置される
  • 726年 大武芸の弟・大門芸、唐に亡命
  • 727年 渤海、高仁義らを日本に派遣。蝦夷地に漂着したため高仁義等多数が殺害され、残った者が高斉徳に率いられ入京
  • 728年 日本、送渤海使を派遣
  • 732年 渤海の将・張文休、水軍を率いて山東の蓬莱港を占領
  • 733年 唐、大門芸に命じて渤海を攻撃させるが、大雪のため失敗
  • 738年 大武芸卒、大欽茂即位
  • 739年 遣唐判官・平群広成、渤海使とともに帰国
  • 746年 渤海人及び鉄利人1100人出羽国に漂着
  • 749年 この頃、旧国より中京顕徳府に遷都
  • 755年 この頃、中京顕徳府から上京龍泉府に遷都
  • 762年 唐により大欽茂を渤海国王に冊封
  • 774年 大興から宝暦に改元
  • 777年 日本の舞女11人を唐に献上
  • 779年 渤海人通事、日本の朝廷で鉄利人と席を争う
  • 785年 上京龍泉府から東京龍原府に遷都
  • 790年 新羅、伯魚を渤海に派遣
  • 793年 大欽茂卒。弟・元義が即位するが廃位され、嫡孫が即位。都を東京龍原府から上京龍泉府に戻す。
  • 798年 唐により大嵩璘を渤海国王に冊封
  • 809年 唐により大元瑜を渤海国王に冊封
  • 810年 日本からの最後の第15次遣渤海使
  • 812年 新羅が崇正を派遣
  • 813年 唐により大言義を渤海国王に冊封
  • 818年 唐により大仁秀を渤海国王に冊封
  • 821年 王文矩を日本に派遣
  • 826年 新羅、渤海との国境に長城を築く
  • 830年 大仁秀卒、大彜震が即位。咸和と改元。
  • 833年 賀守謙を幽州盧龍節度使に派遣。唐により張建章の渤海遣使。
  • 853年 張建章が幽州に戻り『渤海記』を著す
  • 860年 李居正を日本に派遣
  • 906年 宰相の烏炤度を唐に遣使。その子の光賛、賓貢に及第。
  • 907年 唐滅亡。渤海
  • 911年 大光賛を後梁に派遣
  • 918年 に使節を派遣
  • 919年 最後の渤海使を日本に派遣
  • 924年 渤海軍、契丹軍占領中の遼東に反攻
  • 925年 契丹軍、渤海の扶余府に侵攻。礼部卿の大和釣ら100戸を率いて高麗に投ず
  • 926年 契丹軍、上京龍泉府を攻略。渤海滅亡。契丹、渤海故地に東丹国設置。
  • 928年 東丹国、遼陽に遷都
  • 929年 東丹国使、来日
  • 930年 日本との通交が絶える。以降、東丹国が史料から消滅。

渤海王の一覧

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渤海王系図
  1. 高王 大祚栄698年 - 718年
  2. 武王 大武芸718年 - 737年
  3. 文王 大欽茂737年 - 793年
  4. 大元義793年 - 794年
  5. 成王 大華璵794年
  6. 康王 大嵩璘794年 - 808年
  7. 定王 大元瑜808年 - 812年
  8. 僖王 大言義812年 - 817年?)
  9. 簡王 大明忠817年? - 818年?)
  10. 宣王 大仁秀818年? - 830年
  11. 大彝震830年 - 857年
  12. 大虔晃857年 - 871年
  13. 大玄錫871年 - 895年
  14. 大瑋瑎895年 - 907年?)
  15. 諲譔907年? - 926年

渤海国の継承国家

  • 皇帝を称したもの
  • 王を称したもの
    • 後渤海
      • 渤海(復興)928年 - 976年
      • 渤海(大光顕の勢力)930年 - 934年
      • 渤海(再興)989年 - 1018年
    • 定安 938年 - 1003年
    • 兀惹(烏舎城渤海)981年 - 996年以後
  • その他、渤海遺民によるもの
  • 契丹によって渤海の故地に設置されたもの
  • 渤海国の王室である大氏の後裔を自称したもの(したがって、これらは民族として繋がっているという意味ではない)
    •  1115年 - 1234年

渤海の元号

歴史論争:渤海の歴史帰属をめぐる問題

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渤海の歴史的地位を巡っては近年になり朝鮮民族の王朝、あるいは中国少数民族による地方政権と看做すかによって大韓民国及び北朝鮮中国の間で歴史論争が発生している。中国側の歴史観については東北工程を、韓国における歴史観については南北国時代をそれぞれ参照されたい。

韓国、北朝鮮は渤海は高句麗を継承して成立した朝鮮民族系の政権であり、新羅と対立し「南北国時代」を形成したとし歴史教育を行っている。これに対し中国は、渤海は高句麗同様に中原王朝より冊封を受けた中国の少数民族による地方政権であるという歴史観を呈示し、両者の間で大きな歴史論争を惹起している。

これに対しロシアの歴史学界からは、旧ソ連時代以来の、渤海は極東少数民族による自立した独自の文化・社会を有した国家であり、中国や朝鮮半島に関連付けることに反対する学説が提示されている。

これらの各国の歴史観は現代の政治情勢と関連し、渤海を自国に有利な歴史観で理解しようとする政治的立場との密接な関係が存在しているためと考えられる。日本では渤海を靺鞨人と高句麗の遺民からなる国家であるとする説が一般的である[7]

脚注

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参考文献

  • 石井正敏 『日本渤海関係史の研究』 吉川弘文館、2001年。
  • 上田雄 『渤海国』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年。
  • 上田雄 『渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国』 講談社〈講談社現代新書〉、1992年、ISBN 4061491040。
  • 鳥山喜一ほか 『渤海史上の諸問題』 風間書房、1968年。
  • 金毓黻 『渤海国志長編』 金氏千華山館、1934年。
  • 朱栄憲ほか 『渤海文化』 雄山閣出版、1979年。
  • 関口明 「渡嶋蝦夷と粛慎・渤海」『日本古代の伝承と東アジア』 吉川弘文館、1995年、ISBN 464202283X。
  • 津田左右吉ほか 『渤海史考』 商務印書館、1939年。
  • 濱田耕策 『渤海国興亡史』 吉川弘文館、2000年。
  • 三上次男 『高句麗と渤海』 吉川弘文館、1990年。
  • 森公章 『「白村江」以後』 講談社、1998年、ISBN 4062581329。
  • 李殿福ほか 『高句麗・渤海の考古と歴史』 学生社、1991年。
  • 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店、1997年、ISBN 4004305101。
  • 高凱軍『通古斯族系的興起』(中華書局 2006年
  • F.W. Mote, Imperial China, 900-1800, Harvard University Press, 1999年, ISBN 0674012127.
  • 朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』東方書店、1996年、ISBN 4497954587
  • 森安孝夫「渤海から契丹へ」『東アジア世界における日本古代史講座7』学生社、1982年、ISBN 4311505078
  • 森田悌「渤海の首領について」『弘前大学國史研究94号』pp1-8 弘前大学國史研究会、1993年、pdf
  • 鈴木靖民・金子修一・石見清裕・浜田久美子編 『訳註 日本古代の外交文書 』八木書店、2014年、【執筆者】赤羽目匡由・伊藤さやか・河辺隆宏・河野保博・窪田藍・河内春人・近藤剛・澤本光弘・鄭淳一・鄭東俊・中野高行・廣瀬憲雄・堀井佳代子・皆川雅樹・村上史郎、ISBN 978-4-8406-2601-9 C3021、[1]

関連項目

外部リンク

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日本語

日本で作成された漢籍

中国語

  • 元来は700年建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。
  • 高仁義を筆頭とする24名を派遣している。『続日本紀』727年(神亀4年)9月庚寅の条
  • 『古銭新典』P265
  • ソ連のエ・ヴェ・シャフクノフの研究によれば、渤海語で王をいう“可毒夫”は「おそらく満州語の“卡達拉”(カダラ:管理するの意)や、ナーナイ語の“凱泰”(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう」としている。また、渤海人と靺鞨人の名前の最後に“蒙”の字がついていることがあるが(烏借芝蒙、己珍蒙、慕思蒙など)、これは靺鞨語の重要な膠着語尾の一つを示しており、ツングース語系の各民族は氏族を“木昆”“謀克”と称しているが、“蒙”の音が“木”や“謀”の音と近いことを考えると、この“蒙”の音はその人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる。《『渤海史』1996,p248》
  • 朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』p247
  • 『通古斯族系的興起』P174
  • 森安孝夫1982年、森田悌1993年