清水善造

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テンプレート:テニス選手 清水 善造(しみず ぜんぞう, 1891年3月25日 - 1977年4月12日)は、群馬県群馬郡箕郷町(現高崎市)出身の男子テニス選手。

来歴・人物

群馬県立高崎中学校(現:群馬県立高崎高等学校)を経て東京高等商業学校(現一橋大学)卒業。第1次世界大戦後の時代に活躍し、熊谷一弥と共に日本テニス界の黎明期を築いた名選手である。

日本に初めてテニスが紹介されたのは1878年明治11年)であったが、ボールの製造に必要なゴムが輸入困難であったことから、日本独自の軟球を用いたソフトテニス(軟式テニス)が編み出される。そのため、通常は「テニス」と呼ばれるスポーツに“硬式”テニスという呼称があるのも日本独特の呼び方である。清水は日本における硬式テニスの開拓者として活動した。

俳優清水善三、藤木大三(現関西学院大学教育学部教授)らは、清水の孫にあたる。

選手経歴

1920年大正9年)6月のウィンブルドン選手権大会で、清水はいきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年優勝者への挑戦権決定戦)の決勝まで勝ち進んだ。

当時はテニス・トーナメントの方式も現在とは大きく異なり、前年優勝者は無条件で決勝に行き、そこで1回戦から勝ち上がる選手(チャレンジ・ラウンドの優勝者)と決勝戦を戦う「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)方式を採用していた。そのチャレンジ・ラウンド決勝戦で、清水は当時の世界ナンバーワン選手、ビル・チルデンアメリカ)に 4-6, 4-6, 11-13 の激戦で敗れたが、この大活躍で硬式テニスを日本に紹介した。チャレンジ・ラウンド決勝で清水を破ったチルデンは、オールカマーズ・ファイナルにて1919年度の優勝者ジェラルド・パターソンオーストラリア)に勝ち、大会初優勝を飾った。翌1921年のウィンブルドンではチャレンジ・ラウンド準決勝でマニュエル・アロンソスペイン)に敗れ、2年連続のチャレンジ・ラウンド決勝進出を逃した。

1921年に、日本チームは男子国別対抗戦「デビスカップ」にも初出場を果たす。「アメリカン・ゾーン」よりオールカマーズ・ファイナルに進み、日本はアメリカに0勝5敗で敗れたが、清水はここでもチルデンに健闘している。(2セット・アップ=先に2セットを先取した状態から、チルデンに3セットを連取されて逆転負けした。)これらの成績により、清水は当時の世界ランキングで、1920年は9位、1921年は4位にランクされた。

こうして清水の活躍は、同郷(群馬県)の後輩に当たる佐藤次郎を始めとする後続の日本男子テニス選手たちに大きな刺激を与えた。海外でも清水は、その礼儀正しさから「ミスター・シミー」、にこやかな笑顔から「スマイリー・シミー」という愛称で呼ばれたという。1927年に選手生活を引退した。

選手引退後は後進の育成に尽力し、1954年にデビスカップの日本代表監督に就任する。初遠征ではメキシコに赴き、そこで日本代表チームは「2勝3敗」でメキシコ・チームに敗れたが、その帰途で清水はアメリカに立ち寄り、前年(1953年6月5日)に死去した旧友チルデンの墓参に行った。

1965年2月に脳内出血で倒れ、1977年4月12日大阪にて長逝。テンプレート:没年齢

エピソード

  • 清水のショット、特にフォアハンドは、当時のテニスの評論家から観れば醜いものであった。通常、右利きであれば、左足が前に出るのであるが、テニスをしたての頃の清水は右足が前に出たという。このスタイルは、後期こそ無くなりつつあったものの、基本的な体の動きは終生変わらず、チルデンと対戦した時にも時折、右足が前に出たらしい。当然、この打法は今でも「基本でない」と言われているが、右足が前に出る事で、自然に上半身、上腕が足より遅れるように現れ、結果として現在の基本であるインサイドアウトの状態になったようである。事実、身長や手足の長さ等で、他の外国人選手に劣る清水が、強豪を上回る鋭い回転がかかったショットの持ち主であった。現在に通じる打法をこの黎明の時代にいち早くに身につけていたという驚愕の事実も忘れてはならないであろう。
  • 幼少期、清水は母におぶられて近所の寺にお参りするのが常であった。ある日、いつもの様に母とお参りし、母がお堂の鈴を鳴らしたところ、鈴が落下し、おぶられた清水の頭に直撃した。驚いた住職が庫裏からお堂に来たところ、割れたのは清水の頭でなく、鈴の方だったのを発見した。当の清水は、母や住職の心配をよそに笑顔でニコニコしていた。それを見た住職は「驚いた!この子は近い将来、世間を驚かす存在になるであろう」と話したそうである。
  • 「やわらかなボール」が放たれたのは、1919年ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝(現在の準決勝)である。対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返したという。チルデンが態勢を立て直し、返球がエースに。「ヘイユー!ルック!!」とチルデンがラケットで指した所、観客がスタンディング・オベーションで清水に向かって拍手をしていた。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという。
  • 高崎中学時代、父親との約束で学費の足しにと、乳牛の世話を一手に任された。下校時に鎌を右手に、乳牛用の飼料採取作業である草刈りをしながら、15kmの道を帰ってきたという。この作業により、強靱な手首の筋力が培われ、ひいては脚力の持久性も養われた事も特筆すべきである。尚、 現在は高崎高校(旧高崎中学)の校庭片隅に、清水を称えた石碑も残されている。
  • 海外時代の清水は、前述のとおりその温厚な性格と常に笑みを絶やさない風貌から、「Smily Shimmy(ニコニコ顔の清水)」という愛称で知られた(しかし、インパクトの瞬間は鬼のような形相をしていたという)。

 また、若くして病死した次男の病室で、聖水を浸したデビスカップ準優勝杯によりキリスト教の洗礼を受け、その半生を敬虔なクリスチャンとして捧げた。

  • 清水に関する基本文献として広く知られる『やわらかなボール』の著者、上前淳一郎は雑誌で読んだ以下の話に興味を引かれて取材を開始した。(話の趣旨:1921年のデビスカップで、チルデンに惜敗したことは既に述べたが、これは意図的な誤審によるものであるとする説がある。清水は2セットを先取し、3セット目も 5-4 としマッチポイントを迎えていた。ここで清水が放ったサーブをチルデンがミス。清水の勝利かと思われたが、線審がレットを宣告。これで清水はペースを乱され、チルデンに3セット連取を許した。清水のレットを宣告したアメリカ人線審は、死ぬ間際に「あれは意図的な誤審だった」と、母国の英雄であるチルデンを勝たせるために意図的に誤審を犯したことを日本人牧師に告白したと言われている。)しかし、この話はテニス・ジャーナリストのバド・コリンズによる創作であった。(本書のエピローグ、297-308ページによる。)

参考文献

  • 上前淳一郎著『やわらかなボール』(文藝春秋、1982年) 清水善造の生涯に関する基本文献。
  • 小林公子著『フォレストヒルズを翔けた男-テニスの風雲児・原田武一物語-』(朝日新聞社、ISBN 4022574992、2000年)
  • 岡田邦子著『日本テニスの源流 福田雅之助物語』(毎日新聞社、ISBN 4620316040、2002年)
  • Bud Collins, “Total Tennis: The Ultimate Tennis Encyclopedia” Sport Classic Books, Toronto (2003 Ed.) ISBN 0-9731443-4-3

外部リンク