海陵王

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テンプレート:基礎情報 中国君主 海陵王(かいりょうおう)は、の第4代皇帝。諱は迪古乃(テクナイ/ディグナ)。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王・斡本(宗幹)の次男。殺害の後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される。正妻は女真貴族の徒単斜也の娘の従単皇后。

生涯

宗室の子である故をもって天眷3年(1140年)には奉国上将軍となり、最前線で南宋と当たっている叔父の梁王・斡啜の軍に派遣されて軍職を務めた。皇統4年(1144年)には中京留守となって前線を離れ、その後尚書左丞、平章政事、右丞相など宰相格の重職を歴任した。

皇統9年(1149年)、皇帝であった熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣らと謀って熙宗を廃して殺害し、自ら皇帝に即位した。即位後腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を打ち明けている。

金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った。その一方で猜疑心が強く残忍な性格で、天徳4年(1152年)には皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗盤・宗本)と烏帯(宗言)父子ら大叔父・太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清した。さらに中書省門下省を廃し、尚書省のみを皇帝に直属させ、国都を会寧(現在の黒龍江省ハルビン市阿城区付近)から燕京(現在の北京)に遷した。その上に奢侈に走って国民に重税を強いるなど暴政の度合いを深め、多くの者が海陵王を憎悪し始めた。

正隆6年(1161年)5月に、海陵王は将来の禍を避けるために天祚帝(紹宗)の末裔の耶律氏と、金の故地(中国東北部)の五国城で逝去した北宋の趙桓(欽宗)の末裔の趙氏ら130余人の若者たちを殺害し、耶律氏と趙氏の若い女性を後宮に入れたという。この行為を聞いた嫡母(父の正室で徒単皇后の姑母=おば)の徒単氏は8月に海陵王に諫言したが、海陵王は「私に楯突くこの目障りな老婆を焼き殺してしまえ!」と罵って、この年老いた嫡母を焼き殺した挙句、その遺体を近くの河に放り投げて捨て、同時にその侍女も皆殺しにした。さらに徒単皇后の甥である徒単檀奴、徒単阿里白までも誅殺している。

同月に海陵王はより豊かな文化と物資を手に入れるために南宋討伐を企て、「天の使いが夢枕に立ち、宋を征討する命を下した」と宣伝して、開封を修復した。そして、船に不慣れな北方民族としては前代未聞の企てとして、海から南宋を攻撃するために軍船の建造を行い、猛安謀克に属する20歳から50歳までの男子に動員令を出す等の準備を行った。そして9月、海陵王は周囲の反対を押し切り、60万と号する大軍を自ら率いて南宋に遠征した[1]。これに対し南宋は、四川の呉璘、揚州の劉錡らを中心に迎撃態勢を整えていた。国境の各地を越えた金軍は10月に楊州を陥落させるが、西隣にある和州のテンプレート:仮リンクで南宋の名将虞允文の頑強な抵抗に遭い(テンプレート:仮リンク)、長江を渡れずに苦戦した。また、金軍の大半が契丹人で編成されていたために軍の統率がうまくいかなかった上、留守中の本国においては海陵王の反対派が従弟に当たる葛王烏禄を擁立したため[2]、海陵王は進退窮まることとなり、南征中の陣中である楊州の亀山寺において、部下での宗族系の契丹貴族である浙西道兵馬都統制・完顔元宜耶律阿列、または移刺特輦。耶律慎思の子)の軍隊によって殺害された。享年40。

死後、皇帝の資格なしとして世宗により海陵郡王に落とされ、さらには王の資格もないということになり、王族の籍を外されてしまい、庶人に落とされた。廃帝海陵庶人と当時の文書には記されている。

宗室

妻妾

  • 徒単皇后
  • 大元妃(母方従妹)
  • 唐括貴妃
  • 蕭宸妃
  • 耶律麗妃
  • 唐括麗妃
  • 蒲察昭妃
  • 昭妃阿懶
  • 耶律柔妃
  • 唐括柔妃(唐括麗妃妹)
  • 耶律昭媛
  • 高修伏儀
  • 南才貴人
  • 唐括蒲魯胡只(唐括麗妃従妹)

子女

海陵王を主題にした作品

  • 「私本・荒淫王伝」駒田信二
  • 「金虜海陵王荒淫」(作者不明)

脚注

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参考・引用文献

  • 梅原郁他『世界歴史大系 中国史3 五代~元』(山川出版社 1997年 ISBN 4634461706)
テンプレート:金の皇帝
  1. この遠征に対する海陵王の自信を示すものとして、宋の使者に徽宗の玉帯を渡し、側近に「それは貴重なものだから」と押しとどめられると、「いずれ取り戻されるものだ」と嘯いた、という話が伝わっている。
  2. この時世宗烏禄の立てた大定という年号を聞いて、「宋を滅した後、自分が大定と改元しようと考えていたのに、これが天命というものか」と慨嘆したと伝えられている。