浦辺粂子

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テンプレート:ActorActress 浦辺 粂子(うらべ くめこ、1902年10月5日 - 1989年10月26日)は日本女優静岡県賀茂郡下田町(現下田市)出身。本名は木村 くめ

来歴・人物

生い立ち

建長寺派・長松山泰平寺の住職臨済宗)。「一生食べる米に困らないように」との願いを込めて、「くめ」と付けられる。

1909年に、父が河津町見高の洞雲山隠了寺へ移ったため、見高入谷尋常小学校に入学。母の姉が、東京の明治座で吉野屋という売店を経営しており、いつも演芸雑誌や芝居の絵番付に触れていたことから、芝居好きとなる。5年生の時に、隣の稲取町にかかった連鎖劇(トーキー映画と舞台劇を組み合わせた劇)に心を奪われ、今井浜で近所の子と一緒に芝居ごっこに熱中していた。

1914年に、父が駿東郡金岡村字岡宮(現沼津市岡宮)の妙心寺派・仏日山常照寺に移るにともなって、金岡尋常高等小学校に転校。1917年に高等科を卒業して、私立の沼津女学校に進学した。

家出

この頃から、休日にはよく母と一緒に芝居見物に上京するようになる。市川左団次松井須磨子の舞台を見ているうちに、本格的に役者への願望が増していき、1919年に中退する。

しかし、家族に猛反対された。そこで、父には内緒で、母を口説き、20円の金を借りて家出する。そして、女優への足がかりとして沼津に来ていた奇術団の一座に飛び込み、旅費が工面できない間、遠山みどりの芸名で一座とともに全国を巡業する。1921年山梨県大月に来たとき、やっと一座を抜けて上京する。

デビュー

最初は日活向島撮影所を訪れるが、守衛から門前払いをくらう。しかたなく、浅草根岸歌劇団のオペラ小屋である、金竜館の踊子としてデビューする。しかしながら芽が出ず、当時、浅草で絶大な人気があった浅草オペラ田谷力三からは「君は素質もないし、器量も良くないから、家に帰った方がいいよ」と言われてしまう。

この頃、芸名を静浦ちどりと変え、音楽部員でチェロを弾いていた外山千里(のちにムーランルージュ新宿座を旗揚げした佐々木千里)から紹介された曾我廼家五九郎一座や、大阪浪花少女歌劇団に所属する。少女歌劇団では芸名を遠山ちどりとし、ここで、のちに溝口健二夫人となる嵯峨千枝子と出会い、「サガチー」、「トーチー」とあだ名で呼び合う仲となる。

1922年に退団して上京、上野公園で催された平和記念東京博覧会の余興で、再び、静浦ちどりの芸名で混声歌劇団に参加する。そこで出会った杉寛と横須賀へ巡業し、さらに、その横須賀で出会った新派女優とともに、高田馬場にあった活動写真の小松商会に入社した。監督の波多野安正や、夫人の松本静子から、演技の勉強のために薦められた、早稲田にある玉椿劇場という新派一座の舞台に立っていた。

しかし、1923年に撮影所は解散してしまう。思いあぐねていたところ、易者から「このまま東京にいると死ぬか大怪我する」と言われ(実際、この年の9月に関東大震災が起こった)、また昔の仲間がいることから、大阪へと向かい、オペラの沢モリノ一座、新京極の中座と一座を転々とする。しかし、新派の筒井徳二郎一座と合同公演した際、筒井一座の娘役が急病で倒れたため、その代役に立ったところ、座長に認められて筒井一座に移る。この一座の名古屋公演に同行して、スター扱いで『月形半平太』などに出演、新聞の演芸欄に名前が載るようになる。

日活へ

またこの頃、日活京都の装置部にいた波多野から、日活の女優採用試験を受けるよう薦められる。そして、六十数人の中から選ばれた5人のうちに入り、ついに夢にまで見た活動写真の女優となる。撮影所長から「ちどり(千鳥)なんて、波間に漂っている宿無し鳥で縁起が悪い。静浦の浦を残して浦辺、それに本名のくめは縁起がいいから、子をつけて粂子」と改名を言渡され、芸名を浦辺粂子とした。

日活京都で、尾上松之助の相手役として『馬子唄』でデビュー。日活旧劇(時代劇)女優としては、岩井咲子に続く第2号ということになったが、ついた役は、女中や腰元ばかりであった。第二部の『清作の妻』で、映画に出演し、性格女優として人気を博す。

引退と復帰

その後、結婚により日活を退社・引退するが、離婚して復帰する。しかしながら、1932年に起きた日活大争議により再度退社し、入江プロを経て、新興キネマ太秦撮影所に入る。 のち、新興の大映吸収にともなって大映所属となる。また、20歳代から老け役女優として活躍しており、太平洋戦争最末期の1945年6月に製作された、飛燕特別攻撃隊が題材の『最後の帰郷』(原作・菊池寛)では、若い特攻隊員(演・片山明彦) の母親役として出演していた。

第二次世界大戦後の日本映画全盛時代の1950年代からは、「名脇役」として目覚しい活躍を見せた。成瀬巳喜男小津安二郎黒澤明といった名匠の作品にも、多数出演している。

大映倒産後はフリーとなった。1966年に紫綬褒章を受章、1977年に第1回山路ふみ子映画功労賞を受賞。

「おばあちゃんアイドル」

その後も活躍を続けたが、1980年代には、テレビのバラエティ番組でも「おばあちゃんアイドル」として人気を呼ぶ。タレント片岡鶴太郎によくモノマネされ、ネタがすぐばれる手品などは大変有名であった。フジテレビ系のバラエティ番組ライオンのいただきます』では、塩沢とき等とともに常連ゲストの一員だった。

1984年11月21日に「るんるんるん♪」と歌っている『わたし歌手になりましたよ』(テイチク・RE-651)で歌手デビューを果たした。これは、1992年きんさんぎんさんに抜かれるまで、日本での最高齢レコードデビュー記録であった。

不慮の事故・死去

1989年10月25日午前7時55分頃、東京都渋谷区の自宅で湯を沸かそうとした際に、和服の袂にコンロの火が引火、全身に大火傷を負い、火だるまとなって自宅前の道路で倒れている姿を発見され病院へと緊急搬送。治療もむなしく、翌日午前0時30分、搬送先の東京医科大学病院で大火傷による多臓器不全のため死去。テンプレート:没年齢。全身の約70%にやけどを負っていたという。

実は1986年10月にも自宅の階段で脚を踏み外して転落し、1階の床に前頭部を強打し出血をする事故を起こしたことがある。だが、一人暮らしをしていたため、3日後に近隣の住民に発見されている。発見者の話によると「毎朝、元気に“おはよう”って言ってくる浦辺さんが2日前から外に出てこない。変だと思って玄関を開けたら、血まみれで倒れていた」と言っている。

この一件を機に浦辺は足腰が極端に弱ったため、事務所関係者の中には老人ホームへの入院を勧める人もいたが、浦辺はこれを拒み続けたと関係者は語っている。それでも事務所は何とか説得して、週何度かは家政婦が自宅を訪れ、様子を見たり、身の回りの世話をしたりする程度のことは行っていた。大火傷を負う事故に遭ったその日も午後から家政婦が訪れる予定だったという。

病院で浦辺と対面した浅香光代は「顔はやけどの損傷がひどくかわいそうでした」と沈痛な面持ちを語り、「階段から落ちて大けがをした時に“私の家に来ませんか?”と勧めてみましたが、かたくなに拒否されました。一度結婚なさって別れてからは“人間生まれるときもひとり、死ぬ時もひとり”が口癖でした」と肩を落として語っている。

その他

  • ハレー彗星を幼少時に見ていたといい、1986年の接近時には「子供の頃に見たから、今年で2度目だ」と語っている(ハレー彗星は約76年周期で地球に再接近する)。
  • 趣味は競輪と麻雀と手品。競輪は小津安二郎から手ほどきを受けてのめりこみ、競輪場へは「顔パス」で来賓席に来場するのが常だったという(某テレビ番組で証言)。手品は出演するバラエティ番組で披露することが度々あった。
  • 女優であること、そして芸名である「浦辺粂子」に強い愛着と誇りを持っていた。紫綬褒章の授賞式において本名で呼ばれた際にひどく立腹し、「この賞は浦辺粂子がもらったものです。」と怒りを露わにあいさつしたという。
  • 結婚していた時期があったにも関わらず、家事はほとんどできず、できたのは「コンロでの湯沸かし」だけであった。死因となった火傷はこの湯沸かしの際にコンロの火が寝巻に燃え移ったためにおこったものであった。

出演作品

映画

太字はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品(戦後のみ)

 etc.

テレビドラマ

外部リンク