津軽信順

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津軽 信順(つがる のぶゆき)は、陸奥弘前藩の第10代藩主。

生涯

寛政12年(1800年)3月25日、第9代藩主・津軽寧親の次男として生まれる。

弘前藩では第7代藩主・信寧や第8代藩主・信明の下で藩政改革が行なわれ、大いなる成功を収めた。しかし、名君と謳われた信明は早世した。信明には継嗣がなく、そのために養嗣子の寧親が藩主となった。これが信順の父である。しかし、寧親は信明と違って有能ではなかった。そしてそのような藩主の息子として生まれた信順も暗愚の器で、後世に「夜鷹殿様」と渾名された。

しかし、この暗君親子には一つの野望があった。それは、中央政界への進出、つまりは幕政への参与である。そのために寧親は世子である信順の正室に、特に身分の高い娘を選ぶことで、強力な門閥関係を作ろうとした。文化8年(1811年)、信順は内大臣・近衛基前の娘と婚約した。しかし、2年後にこの娘は夭折する。次に信順は徳川斉匡の六女・鋭姫と婚約する。斉匡は第11代将軍・徳川家斉の弟である。このため、将軍の一門衆となった信順は文政3年(1820年)12月、それまでの歴代藩主の官位よりさらに高い、侍従に叙任された。しかし鋭姫は信順が叙任された日に夭折する。

翌文政4年(1821年)年4月に、今度は斉匡の九女・欽姫と婚約し、文政5年(1822年)12月には結婚するに至った。しかし、この3度に及ぶ結婚騒動のために公家や幕閣にばら撒いた金銀は数十万両に及び、この膨大な資金のため信明時代に再建されていた財政は破綻した。

弘前藩は盛岡藩戦国時代の因縁から宿敵の関係にあったが、文政4年(1821年)4月23日、盛岡藩の浪士によって寧親は襲撃を受けそうになったものの、幸いにして命は助かった。これは「相馬大作事件」と呼ばれるが、この事件で寧親は、襲撃を避けようと幕府に無断で参勤交代の道筋を変えたことをとがめられた。失意に陥った寧親は、文政8年(1825年)4月に嫡男の信順に家督を譲って隠居した。

信順は父親以上に暗愚であった。参勤交代で宿泊した所で、夜中は女と酒に入りびたりであった。しかも信順は昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返した。そのため、参勤交代の行列の進み具合は遅れる一方であった。当時、参勤交代には決められた期日までに江戸に到着しないといけない決まりがあった。このため家老の高倉盛隆は、参勤が遅れて主家が改易されることを恐れて、信順に対して諫死した。しかしこの忠臣の死を知っても、信順は「遊興は余の病である」と言い放って遊び呆けたという。

天保5年(1834年)には、本来なら必要の無い大名行列で領内を巡察し、さらに花火見物、ねぶた見物、月見見物と、藩財政を自分の快楽で乱費した。このため、名君・信明が築き上げた財政再建は水泡に帰した。

さらに、正室に将軍家と繋がりのある欽姫を迎えておきながら、江戸日本橋の油屋から娘を入れ込んで側室にするなど、乱行を繰り返した。このため、弘前藩の借金は70万両近くにまで膨れ上がったと言われている。このような失政と乱行に家臣団も絶望した。さらに幕閣もこれを捨ておけず、天保10年(1839年)に強制隠居を信順に命じた。家督は養嗣子の順承松平信明の七男)が継いだ。

その後、信順は政治の表舞台に立つことなく、1862年に63歳で死去した。

偏諱を与えられた人物

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