死んだふり解散

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死んだふり解散(しんだふりかいさん)とは、1986年(昭和61年)6月2日衆議院解散の通称[1]。別名「寝たふり解散」。

概説

1986年(昭和61年)当時、中曽根康弘内閣総理大臣は在任4年目に突入していた。中曽根内閣は党内基盤が磐石ではないものの、世論調査では高い内閣支持率を保っており、中曽根は前回総選挙で失った党勢の回復のために衆参同日選挙を目論んでいた。

しかし、前年の1985年(昭和60年)7月17日最高裁判所衆議院議員定数の不均衡(一票の格差)に対して違憲判決を出しており、この問題が解散総選挙の障害となっていた。

そこで政府与党は議員定数不均衡を是正するために公職選挙法改正案を提出。1986年5月22日に参議院本会議で可決・成立して議員定数不均衡問題は解決した。しかし、同日選に反対する野党との妥協により、改正法には新定数に関する30日の「周知期間」が設けられたことや、後藤田正晴内閣官房長官らが「この法改正で首相の解散権は制限される」旨の発言をおこなったことなどで、中曽根は同日選実施を断念したと思われていた。

ところが、中曽根内閣は第105回臨時国会を6月2日に開会し、冒頭で衆議院解散することを閣議で決定した。本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長解散詔書を朗読して衆議院解散となった(議長応接室における衆議院解散は、この年を最後に途絶えている)。政府は7月6日参院選と同時に衆院選を行うことを決定し、史上2度目の衆参同日選挙となった。

この総選挙では、高い内閣支持率や十分な選挙対策などにより、与党自由民主党が圧勝した。自民党は任期満了間近だった党総裁の任期を1年延長する党則の改正をおこない、中曽根の功績に報いた。

後に中曽根が「正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるから解散は無理だと思わせた。死んだふりをした。」と述べ、早期解散はできないと思わせたことを「死んだふり」と表現したことから、「死んだふり解散」という解散名が定着した。

脚注

  1. 朝日新聞 1990年02月12日 朝刊 特集 「「図解」 総選挙データ事典-「国民の意思」の流れをたどる-」

関連項目

参考文献