武蔵野

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秋枯れの。荻は“武蔵野の原野”を代表する植物のひとつであった。

武蔵野(むさしの)は関東の一地域を指す地域名。

「どこまでもつづく原野」として、あるいは「月の名所」として、古来さまざまな文芸作品、美術・工芸作品に題材とインスピレーションを与えてきた。

名称に「武蔵野」を持つ地名、作品、その他については以下に記載。

武蔵野の範囲

武蔵野の範囲について明確な定義はないが、広辞苑によれば「埼玉県川越以南、東京都府中までの間に拡がる地域」であり、また広義には「武蔵国全部」を指すこともあるとされる[1]。 またたとえば、江戸後期に出版された『江戸名所図会』(後述)は、「南は多摩川、北は荒川、東は隅田川、西は大岳(だいがく)・秩父根[注釈 1]を限りとして、多摩橘樹都筑荏原豊島足立新座高麗比企入間等すべて十郡に跨る」と解説している[2][注釈 2]

1898(明治31)年国木田独歩は随筆『武蔵野』を著したが(後述)、この作品は後に広く愛読され、その後の“武蔵野観”に大きな影響を与えることとなった[3][注釈 3]。作中、国木田は友人の言葉として以下のとおり引言し、武蔵野の地理的範囲の再定義を試みている。

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この国木田の記述によると、武蔵野の範囲は現在の東京23区西部と立川以東の市部、埼玉県川越市以南の中南部、神奈川県川崎市北部のごく一部ということが推測される。

武蔵野の原イメージ

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旅すがら武蔵野の奥深く分け入った西行が、人里離れた草原の庵(いおり)にて老僧と出会うワンシーン。『西行物語』に登場するこのエピソードも、人口に膾炙し、後々よく引用された。画像は俵屋宗達による『テンプレート:仮リンク』の模写より。

万葉集から中世文学まで

人の手が入る以前の武蔵野は照葉樹林であったが、やがて焼畑農業が始まり、その跡地が草原落葉広葉樹二次林となり、“(まき)”と呼ばれる牧草地に転用されるなどして、平安期頃までには原野の景観が形成されたといわれている[3]

武蔵野の名の成り立ちは言うまでもなく「武蔵の野」ということだが、元来、武蔵国周辺のいわゆる東人たちが、みずからの住む山野を指して呼んだものであった。 「武蔵野」の名が初めて史料に現れるのは万葉集で、第14巻「東歌」に彼らの詠んだ歌が編まれて残っている。 テンプレート:Quotation

中世になると多数の歌が武蔵野を題材として詠まれ[3]、なかには後世までたびたび引用されるものもあった[2]。 以下はほんの一例だが、一覧してみると、総じて武蔵野の大自然をうたったものであり、全体としてほぼ一様のイメージを共有していることがわかる。 マスメディアもなく旅行も容易でなかった当時の都びとにとって、文芸中に表れるこうした表現は未知の土地を思い描くにあたっての重要な情報源であり、また、それ自身が共有され受け継がれていくにつれ、より深いイメージを結んでいったのであろうことは想像に難くない。

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なお、11世紀に書かれた『更級日記』(菅原孝標女)と14世紀初めの『とはずがたり』(後深草院二条)は、いずれも自叙伝というジャンルのノンフィクションだが、各作中では「馬上の人物が見えないほど」に草の生い茂った土地として武蔵野が描かれており、当時の武蔵野の実態の一端をうかがい知ることができる。

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以上のように、中古から中世にかけての日本人がもっていた“武蔵野のイメージ”は、総じて「野草の野原」、のちには「月の美しい、茫漠としてどこまでもつづく原野」といったものであったと言うことができる[3]

江戸時代

江戸開府以降、人口の急増を見込んで、近郊各地の新田開発が旺盛に進められた。 進歩した測量技術と社会資本によって玉川上水野火止用水が開削され、武蔵野台地上でも農業が可能になった[4]。 こうして進められた開拓によって“原野”は徐々に姿を消し、代わって、田畑、社寺林屋敷林街道防風林雑木林など、今日“武蔵野の自然”と呼ばれているものが人の手によってもたらされていくこととなった[3]

しかしながら、文芸上に現れる武蔵野のイメージは中世までのそれと変わらず、むしろ失われゆく武蔵野を惜しむものが多かったという[3]。 たとえば前述の『江戸名所図会』は現在の1都3県にまたがり各地の観光地名所を網羅した大部作で、「武蔵野」および関連項目には多くの紙面を割いて解説している[2]が、そこには次のように書かれている。

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江戸時代には、美術の世界でも「武蔵野図」と呼ばれるジャンルの作品が制作された[5][6][7][8][9][10]。 とりわけ「武蔵野図屏風」の名で呼ばれる屏風絵は一時流行し、後には定型化した様式をもつに至って[5][6]、類似の作品が多数つくられた。 茶器や刀装具、調度品などの工芸作品も含め、これらの作品に共通するのは、薄(すすき)をはじめとして桔梗女郎花野菊などの秋草、月、東国を表す記号でもある富士山などを題材とし、寂寞とした秋の野を描き出している点であり[10]、前述のような武蔵野のイメージ、美意識を的確に視覚化している。

国木田独歩の描いた武蔵野

国木田独歩の『武蔵野』(1898(明治31)年、発刊当時の作品名は『今の武蔵野』)はその名のとおり武蔵野を主題とし、その風景美と詩趣を描きつくした著名な随筆作品で、後世の“武蔵野のイメージ”の形成に多大な影響を与えている[3][注釈 3]。 国木田は渋谷村の一角に居を置き、みずから毎日のように出かけては東京近郊を逍遥し、そうして過ごした実感体験にもとづいて『武蔵野』を書き上げたのだった。

作中、「昔の武蔵野は萱原のはてなき光景をもつて絶類の美を鳴らしてゐたやうにいひ伝えてあるが、今の武蔵野は林である」とあるが、この「林」とはすなわち、薪炭の供給源としても重要だったいわゆる里山雑木林のことであり、国木田は都市からそう遠くない、人間の生活圏と自然とが入り交じる田園地帯として、新時代の“武蔵野”を描き出そうとしたのだった[3]。 彼はまた次のようにも書いて、武蔵野の個性、唯一性を強調している。

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国木田は自らの見聞きした田園地帯の情景を描写するために筆をつくした。次の一節には、彼が体感した“どこまでもひろがる武蔵野”の空間性がよく表現されている。

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友人が示した“武蔵野の範囲の定義”(前述)に対して、国木田は「自分は以上の所説にすこしの異存もない」と書き添えているが、しかしながら彼自身が強調したのはやはり麦や大根の畑、などの雑木林、ときに原が見渡すかぎりモザイクのように混交してひろがり、ところどころに刻まれた谷戸の底には水田があるという、東京西郊の丘陵地帯に当時ひろがっていた田園風景であった。こうした原風景は、その後の都市化の漸進により徐々に失われ、今は面影を残していない。なお、この丘陵地帯とは、現在では武蔵野台地などとも呼ばれているものである。

現代の武蔵野

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“武蔵野の雑木林”の面影を今に伝える三芳町上富(かみとめ)の平地林。営農サイクルの中で絶え間ない手入れによって維持されている。
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野山北・六道山公園・「里山民家ゾーン」の一角。“山に抱かれた谷戸田”は、現在の武蔵野周辺で見ることのできる里山的景観のひとつの典型である。

戦後の復興期、武蔵野では①畑地、②山林・原野、③水田の順に宅地化がいっそう進行した[3]東京緑地計画により戦前に多数買収された農地も、農地改革によりその大半を失った[3]。そのような中でたとえば1960年代に玉川上水五日市街道ぞいの街道屋敷林やいくつかの丘陵地などが郷土風景の保護を目的として風致地区に指定されるような事例もあった[3][11]が、全体として都市化スプロール化の進行は防ぎようもなく、現在では一部の公園や農地、風致地区などの緑地を除けば、市街地が隙間なく武蔵野にひろがっている[注釈 4]

いっぽうで、各種燃料・肥料の発達した現代では、落ち葉堆肥の確保のために雑木林に入るということがなくなり、特段の意図をもって継続的な手入れを行わないかぎり、雑木林を維持することはできなくなってきている。

現在、東京都や埼玉県下で自然に親しむような取り組みを行う場合に、「武蔵野」をキーワードに行われる場合がある[注釈 5]。また「武蔵野の自然」「武蔵野の森」といった言葉が美称として使われることもある[注釈 6]。 “武蔵野の原野”の記憶は遠く忘れられて久しいが、国木田の唱えた“武蔵野の雑木林”のイメージはいまでも生きながらえており、そのような植生を再現しようという動きもあるが、しかしながら、本物の“武蔵野特有の雑木林”を実際に目にする機会が失われるにつれて、再現される植栽の樹種などは武蔵野本来の固有性を失い、ごく平凡な二次林と変わらないものに置き換わりつつあるという[3]

里山景観と武蔵野

現在の“武蔵野”において、昔ながらの農村風景をある程度残している地域の例として、埼玉県入間郡三芳町の上富(かみとめ)地区(三富新田[12]の一部)が挙げられる。 この地域では、柳沢吉保の命による開拓当時から300年以上続く「屋敷林 - 畑地 - 雑木林」がセットになった土地利用がよく保存されており、1960年代に工場建設などによる多少の蚕食を受けはしたものの、近年では地元営農家グループ[13]や地域の教育委員会などによって、受け継がれてきた生活空間の維持が意識的に取り組まれている。

東京都内ではスプロール化はより進行しており、比較的平坦な土地について言えば、まとまった広さの里山景観を見ることはほとんどできない。数ヘクタール以下程度の運よく宅地化を免れた比較的小規模な雑木林竹林などが保全され、行政の委託を受けたNPOなどが維持管理をしている例は各地にいくつか見られる[注釈 7]。 埼玉県内では、ナショナルトラスト方式で土地の買い取りをすすめる「トトロの森[14]やさいたま緑のトラスト協会[15]などの例もある。

宅地化の進まなかった傾斜地周辺ではまとまった量の緑地が残されてきたケースがあり、国分寺崖線ぞいなどもその一例だが、より広い空間をもつ山すそ地などでは谷戸を中心とした里山づくり・保全がすすめられている例がある。たとえばあきる野市の横沢入[16]八王子堀之内地区[17]や、いずれも狭山丘陵に抱かれるさいたま緑の森博物館野山北・六道山公園など。 また多摩川を南へ渡れば、もともと武蔵野台地よりも起伏が激しく谷戸が多かった関係で、町田市川崎市横浜市などでは一定数の谷戸が谷戸田を含む里山景観地として保全されている。

そのほかいくらか珍しい事例として、「昭和30年代の農村風景を再現」しようという昭和記念公園の「こもれびの里」[18]のような取り組みもある。

とはいえ、これらの多くは範囲が狭小だったり、周囲が山地だったりするため、国木田が書き残した武蔵野とはまた別種の景観を呈しているというべきであろう。

「武蔵野」の名をもつもの

地名

地名に「武蔵野」の名が使われる場合がある。 かつての武蔵国にあたる地域の中で自治体名、住居表示名に「武蔵野」が使われている例は以下のとおり。

その他

「武蔵野」はまた以下の名称にも使われている。

その他企業、法人施設などの名称に「武蔵野」の名を冠することがある。たとえば武蔵野銀行武蔵野美術大学武蔵野 (食品製造)むさしの村など。

脚注

注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

  • 『広辞苑 第5版』 岩波書店。
  • 2.0 2.1 2.2 『江戸名所図会 二』 斎藤幸雄他編、有朋堂文庫、1927年 328-333ページ [1]近代デジタルライブラリー
  • 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 『武蔵野のイメージとその変化要因についての考察』 山根ますみ/篠原 修/堀 繁、造園雑誌 53巻5号、1990年 [2]
  • 新田村落の典型、武蔵野水土の礎 - 社団法人 農業農村整備情報総合センター
  • 5.0 5.1 『武蔵野図屏風(田家秋景)』 作者不詳、江戸時代東京富士美術館
  • 6.0 6.1 『武蔵野図屏風』 作者不詳、江戸時代中期島根県立美術館
  • 『武蔵野図』 伊達宗重、17世紀登米市 ふるさとライブラリー)
  • 『色絵武蔵野図茶碗』 野々村仁清、江戸時代文化遺産オンライン
  • 『武蔵野図扇面』 酒井抱一、18-19世紀千尋の美術散歩
  • 10.0 10.1 『不二三十六景』のうち「武蔵野」 歌川広重山梨県立美術館 かいじあむ) - 時代も遅く、いわゆる「武蔵野図」の範疇からは外れるが、同様のモチーフを踏襲している。
  • 風致地区種別一覧(PDF)風致地区制度 - 東京都建設局
  • 埼玉県・三富地域森林景観 - 東京大学大学院 森林風致計画学研究室
  • 三富落ち葉野菜研究グループ
  • トトロの森の紹介公益財団法人 トトロのふるさと基金
  • 公益財団法人さいたま緑のトラスト協会
  • 横沢入 (横沢入里山管理市民協議会)
  • 八王子堀之内里山保全地域東京都環境局
  • こもれびの里国営昭和記念公園
  • 『府中の町紹介』府中市図書館編集発行

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