歌川国芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 芸術家

ファイル:Guanyu.jpg
『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』 華佗の医術で肘の切開手術を受ける関羽

歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日1798年1月1日) - 文久元年3月5日1861年4月14日))とは、江戸時代末期の浮世絵師

生涯

画号一勇斎。江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。

寛政9年(1797年)、江戸日本橋本銀町一丁目[1] [2](現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に生まれる。父は京紺屋[1](染物屋)を営む柳屋吉左衛門。幼名は井草芳三郎。後に孫三郎。風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれであり、同時代に活動した。一勇斎、朝桜楼(ちょうおうろう)、採芳舎(さいほうしゃ)と号す。

三囲神社碑文[3]によれば、国芳は幼少期から絵を学び、7、8歳で北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国1769年 - 1825年)が目に留め、1811年文化8年)に15歳で入門した[4]という。豊国は華麗な役者絵で一世を風靡した花形絵師であり、兄弟子に歌川国貞1786年 - 1864年)がいる。国芳は入門の数年後、文化11年(1814年)頃刊の合巻『御無事忠臣蔵』表紙と挿絵が初作とされる。学資が乏しく月謝が払えないので、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く[5]。 また、勝川春亭にも学んでいる。さらに葛飾北斎の影響も受け、後に3代堤等琳に学んで、雪谷とも号した。

師・豊国没後の1827年文政10年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズ[6]が評判となる。“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵風景画)にも優れており、美人画役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。

『源頼光公館土蜘作妖怪図』

ところが国芳45歳の時、運命は一変する。老中水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍・徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中・水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱真田幸貫坂田金時堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光土井利位、土蜘蛛は筒井政憲矢部定謙美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。

やがて目の上のタンコブであった水野忠邦は失脚。国芳は待ってましたとばかりに江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。国芳の描いた『宮本武蔵と巨鯨』(1848年嘉永元年) - 1854年安政元年))は、浮世絵3枚分に描かれたまるで大スペクタル絵画である。武蔵の強さを表現するのに相手が人間では物足りない。桁違いの鯨と戦わせることでヒーロー武蔵の強さを伝え、国芳を称える声が満ち溢れた。

武者絵で大成功を収めた国芳は、一人の絵師として気にかけていたものがあった。国芳は『近江の国の勇婦於兼』(1830年(天保元年))で、画面左側の女性は伝統的な美人画の技法で描かれているが、対する馬はまるで西洋画のようにリアルな立体感が陰影によって描かれている。実は国芳は当時なかなか手に入れることができなかった西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究に励んでいた。国芳は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。そんな国芳が56歳の時、新たなシリーズの製作に取り掛かった。それは47人の志士が揃う忠臣蔵である。国芳はこの作品を新しく学んだ西洋画の技法で描いてみようと思い立った。この時代、公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度であり、あくまで戯曲化され、舞台で演じられる役柄として描くしかなかった。ところが西洋画を学んだ国芳はかつてのような派手な見得を切る大石内蔵助ではなく、実在の人物としてリアルに描こうとした。国芳が生み出した迫真のヒーロー像であったが、派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとって写実的な肖像画は受け容れられず、すぐに打ち切りとなった。

国芳が赤穂浪士を描いた翌年の嘉永6年(1853年)、浦賀ペリー黒船来航した。安政3年(1856年)初め頃に中風を患い、4年前後辺りから人物描写に硬直味が見られ、描線に鈍さが出て、動感に乏しい作品が目立ち始める。華々しい武者絵の世界を築いた国芳はひとつの時代の終焉に合わせるかのように文久元年(1861年)に65歳の生涯を閉じた。墓所は最初浅草八軒町、大正初めに千住に移され、戦後は小平市上水南町の大仙寺。法名は深修院法山信士。墓石に井草と記されている。国芳には多くの門弟がおり、「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も国芳に弟子入りしたことがあった。

作品

ファイル:Kuniyoshi Utagawa, Animals dyeing fabrics.jpg
『そめいろづくし』 染め物を題材にした戯画で、「ねこしぼり」「狐こん」「熊くろ」など遊び心に富む。団扇絵(団扇の地紙用に描かれた絵)。

作品は役者絵武者絵美人画名所絵風景画)から戯画春画までさまざまなジャンルにわたっているが、中でも歴史・伝説・物語などに題材を採り、大判3枚つづりの大画面に巨大な骸骨、化け物などが跳梁するダイナミックな作品に本領を発揮している。反面、肉筆画の作品は種類は多彩だが、現存数が少ない。現在確認されている作品数は、二千数百点に及ぶ[7]

国芳は無類の好きとしても知られ[8]、常に数匹、時に十数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられる。内弟子の芳宗によると、亡くなった猫はすぐに回向院に葬られ、家には猫の仏壇があり、死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られ、猫の過去帳まであったという。門弟たちは相当迷惑したらしいが、それだけに猫の仕草に対する観察眼は鋭く、猫を擬人化した作品も多い。特に斑猫を好んだらしく、絵に登場する頻度も高い。猫に限らず、などの身近な動物を擬人化して世相を風刺したり、動物に託して江戸の庶民の生活を描写した作品も豊富で、これらからは現代日本にてますます盛んな漫画劇画の源流の一つを見る事ができよう。

「寄せ絵」[9]、自宅で絵を描く自身の顔の前を、絵の中の動物や人物が横切り、自身の顔を隠している「自画像」のような遊び心のある作品も国芳の得意としたものである。これには、西洋のジュゼッペ・アルチンボルドなど舶来画からの影響がしばしば指摘される。しかし、国芳以前から寄せ絵の伝統はあり[10]、文化・文政期には身の回り様々なものを組み合わせた作りものを公開する細工見世物や、竹の篭目を編んで人物や動物を作り上げ、その大きさは時には高さ20メートルにも及んだという駕籠細工などの見世物が催されており、国芳はこうした見世物からアイデアを思いついたとしても不思議ではない[11]

華美を戒める天保の改革(1841年 - 1843年)以後、幕府の禁令によって役者や遊女の1枚刷り錦絵は出版できなくなってしまうが、国芳はそんな中であるからこそ、持ち前の江戸っ子気質を大いに発揮している。『荷宝蔵壁のむだ書』のように壁の落書きを写し取ったという方便を使ったり、魚の顔を役者の似顔にしたりするなど、さまざまな便法で禁令を潜り抜け、絵師は役者の似顔を世に送り出し続けた。

ファイル:Kuniyoshi Utagawa, The Chushingura.jpg
『忠臣蔵十一段目夜討之図』

2008年富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより、国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の色の復元が始まっている。この版木については同年4月12日放送のBShiハイビジョン特集 幻の色 よみがえる浮世絵」、5月16日放送のNHK総合ワンダー×ワンダー 浮世絵 よみがえる幻の色」で取り上げられた。

影響

国芳はまた、柴田是真蒔絵師、画家)、渡辺崋山田原藩家老、学者、画家)ら当時の文化人とも交流があり、画風にも当時の新知識を彼なりに研究・吸収した跡が見られる。国芳は年下の是真に教えを乞い、国芳の画力を知る是真はそんな資格はないと一度は断った。しかし、国芳の熱意に負け是真は願いを容れて、国芳に「井草真仙」の号を贈ったという[12]。この名が記された国芳の作品はなく信憑性に疑問が残るが、国芳の肉筆画「舌切り雀図」(天保初期、紙本淡彩、個人蔵)には是真の影響が認められる。

『相馬の古内裏』という作品に登場する巨大な骸骨(「国芳画廊」の項を参照)は、西洋の解剖学の書物を研究した成果である。特に1682年オランダで出版された旅行家ニューホフ著『東西海陸紀行』の挿絵に、国芳作品の典拠が多数発見され[13]、同書を国芳が所持していたことを思わせる。例えば『忠臣蔵十一段目夜討之図』では、西洋画の透視画法(遠近法の一種)を学び、画面に奥行きと緊張感を与えている。

国芳画廊

  • 代表作
    • 『相馬の古内裏』山口県立萩美術館・浦上記念館等所蔵
    • 『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』山口県立萩美術館・浦上記念館等所蔵
    • 『忠臣蔵十一段目夜討之図』
    • 『太平記兵庫合戦』 福海寺足利尊氏を探す、白藤彦七郎。
    • 『坂東しうかの娘道成寺図』 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
    • 『役者似顔絵六歌仙図』 絹本着色 日本浮世絵博物館所蔵
画像-1:『相馬の古内裏』 弘化2-3年(1845-46年)頃。文化3年(1806年山東京伝読本『善知安方忠義伝』に取材。平将門の遺児滝夜刃(滝夜叉)姫は、弟の平良門と共に、筑波山に住む蝦蟇の精霊肉芝仙から妖術を授かり、猿島に築いた王城の廃墟・相馬の古内裏を巣窟に徒党を組み、亡父将門の遺志を継ぎ謀反を企てる。それを討とうとする源頼信の臣大宅太郎光圀が、滝夜刃姫操る巨大な骸骨と戦う。これらは縦3枚を合わせて一組とした国芳得意の大判作品。
画像-2:『宇治川合戦之図』 先陣を競う梶原景季(左)と佐々木高綱(中央)。武者絵。
画像-3:『赤澤山大相撲』 近隣の武将が集まった狩猟後の余興で、赤沢山で宴を催し、その余興で相撲を始めた。そこで股野五郎景久が21人連続で勝ち抜き得意になっていたところ、河津三郎祐親が二番続けて股野を投げ飛ばす。その技は河津掛けと呼ばれ後世に伝わった。その後河津は工藤祐経に矢を射られ落命、その遺児は曾我に引き取られ曾我兄弟の仇討ちへと続く。改印は安政5年(1858年)出版だが、作画時期は少し早く安政初期と見られる。
画像-4:『大山石尊良辧瀧之図』 文政2年(1819年)頃。大山石尊(石尊大権現、現・大山阿夫利神社)の滝に参拝する人々。名所絵。
画像-5:『牛若丸僧正坊隋武術覚図』 嘉永4年(1851年)。鞍馬山にて大天狗鞍馬山僧正坊(中央)から武術の手解きを受ける源義経(牛若丸。右上)。
画像-6:『義経一代記 五条ノ橋之図』 牛若丸と武蔵坊弁慶五条ノ橋の闘い。
画像-7:大物浦にて義経主従と戦う平知盛の霊の海中の陣。
画像-8:『大物浦平家の亡霊』 嘉永2-4年(1849-51年)。同じく、義経主従を襲う平家の亡霊。
画像-9:『戯遊七福神』 安政6年(1859年
画像-10:『其のまま地口 猫飼好五十三疋』(そのまま-ぢぐち・みやうかいこう-ごじうさんひき)嘉永元年(1848年)。 東海道五十三次の宿場町名を、地口語呂合わせ)で猫の仕草として描いたもの。順に日本橋は「二本だし(2本の鰹節出汁)」、品川は「白顔」、川崎は「蒲焼」、神奈川は「嗅ぐ皮」、程ヶ谷は「喉かい」、戸塚は「はつか(二十日鼠)」、藤沢は「ぶちさば(鯖を咥えたぶち猫)」、平塚は子猫が「育つか」、大磯は「(獲物が)重いぞ」、小田原は「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りのどら猫)」、箱根は「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」、三島は「三毛ま(三毛猫は魔物、化け猫)」、沼津は「鯰」、は「どら(猫)」、吉原は「ぶち腹(腹もぶちだ)」、蒲原は「てんぷら」、由比は「鯛」、興津は「起きず」、江尻は「かぢり」、府中は「夢中」、鞠子は「張り子」、岡部は「赤毛」、藤枝は「ぶち下手(ぶち猫は鼠取が下手だ)」、島田は「(魚が)生だ」、金谷は「(猫の名前が)タマや」、日坂は「食ったか」、掛川は「化け顔」、袋井は「袋い(り)」、見付は「ねつき(寝つき)」、浜松は「鼻熱」、舞坂は「抱いたか」、新居は「洗い」、白須賀は「じゃらすか」、二川は「当てがう」、吉田は「起きた」、御油は「恋」か「来い」、赤坂は「(目指しの)頭か」、藤川は「ぶち籠」、岡崎は「尾が裂け」、池鯉鮒は「器量」、鳴海は「軽身」、は「親」、桑名は「食うな」、四日市は「寄ったぶち」、石薬師は「いちゃつき」、庄野は「飼うの」、亀山は「化け尼」、は「牡蠣」、坂下は「アカの舌」、土山は「ぶち邪魔」、水口は「皆ぶち」、石部は「みじめ」、草津は「炬燵」、大津は「上手」、は「ぎやう(捕まった鼠の悲鳴)」。[14]
画像-11:『山城国 井手の玉川』 美人画。
画像-12:化け猫
画像-13:『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』 弘化4年(1847年)。「大ぜいの人が よつて たかつて とふと いゝ人をこしらへた とかく人のことハ 人にしてもらハねバ いゝ人にはならぬ(大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人をこしらえた。兎角、人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ)」 寄せ絵。
画像-14:『甲越勇将伝 本庄越前守繁長』 上杉謙信の重臣・本庄繁長を描いた武者絵。
画像-15:『山海め伝度図会 津ゞきが見たい 志州西宮白魚』(さんかいめでたいずえ・つづきがみたい・ししゅうにしのみやしらうお) 美人画の一つ。
画像-16:『禽獣図会 大鵬 海老』
画像-17:『誠忠 義士肖像』より「堀部矢兵衛金丸」 赤穂浪士の一人、堀部矢兵衛。武者絵。
画像-18:『猫のけいこ』 天保12年(1841年)。戯画。団扇絵。着物の柄は、師匠は鈴・小判・猫の足跡・目刺が放射線状に並び、裾から覗く裏地はスルメ。手前の弟子はふかひれ、奥はの絞りと猫の好物尽くしである。
画像-19:『荷宝蔵壁のむだ書』 嘉永元年(1848年)頃
画像-20:『人かたまつて人になる』 弘化4年(1847年)頃。「人おほき人の中にも人ぞなき 人になれ人 人になせ人 (人多き人の中にも人ぞ無き 人に成れ人 人に為せ人)」
画像-21:『百人一首之内 山邊赤人
画像-22:無題(蛸と、岩と魚)。
画像-23:『猫の当字 なまず』 当て字絵。
画像-24:『七津意呂婆東都布地尽 浦橋八十之助』(ななついろはとうとふじづくし・うらはしやそのすけ) 役者絵。
画像-25:『開運出世合体七福神』

歌川国芳展

平成23年(2011年)には、没後150年を記念して「没後150年 歌川国芳展」が4月12日から6月5日まで大阪市立美術館 [15]7月9日から8月21日まで静岡市美術館 [16]12月17日から翌2012年2月12日まで森アーツセンターギャラリー六本木ヒルズ)で開催された[17]

その他

平成26年(2014年3月14日国際天文学連合は歌川国芳を記念して、水星クレーターの一つを Kuniyoshi と命名したと発表した[18]

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

国芳作品画像掲載の項目(抜粋)

国芳作品の画像が掲載されている全項目のうち、人物と作品およびその背景、もしくは項目記事との関連性の理解につながると思われるものに限り、ここに示す。

テンプレート:Sister

その他

外部リンク

  • 1.0 1.1 新増補浮世絵類考
  • しかし、国芳の次女とりの子孫の言い伝えでは、「四谷左門町の生まれ」という。この差異は、『新増補浮世絵類考』では「本銀二丁目に住し」とあるのを、三囲神社碑文で「銀街第一坊に於いて生まれた」と改変され、これが飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』など諸書に引用されて広まったためだと考えられる(『破天荒の浮世絵師 歌川国芳』展図録、浮世絵 太田記念美術館、2011年、14-16頁)。
  • 所在地は墨田区向島2-5-17。石碑は境内に現存し、明治6年(1873年)国芳13回忌に遺族と門人たちが設立した。撰文は、幕末明治の儒学者・考証学者の東条琴台(狂言作者・戯作者だった花笠文京の兄)。裏面には70名余りの弟子や孫弟子の名が並び、その中には初代五姓田芳柳山本芳翠らの名もある。
  • 井上和彦『浮世絵師伝』昭和6年。ただし、鈴木重三はもう少し遅いと見る(『生誕二百年記念 歌川国芳展』図録、8頁)
  • ただし、先述した次女とりの子孫の言い伝えによると、「国芳は豊国の弟子ではなかった」と言う。これは実質的に国直が師匠であったが、当時最高の人気絵師だった豊国の門人と名乗った方が、社会的に有利だった事情によると考えられる。事実、国芳は豊国との関係が希薄で、その引き立てを受けた形跡が殆ど無い(『破天荒の浮世絵師 歌川国芳』展図録、14-16頁)。
  • 現在確認されているのは、重複する人物図を含めて74図。中には二枚続、竪二枚続、三枚続になる図もある。『水滸伝』のシリーズについては「関連項目」(一つ上の項)に画像のある記事を集めてあるので参照のこと。
  • 展覧会図録 『歌川国芳 奇と笑いの木版画』 府中市美術館、2010年
  • 仮名垣魯文滑稽本『滑稽富士詣』四編に「そんなに猫が欲しきゃあ、国芳のとこのを一匹貰ってやろう」と書かれている。
  • 一見1人の人物の顔に見えたものが、見方を変えると複数の人物像に見えるといったもの。参考:トロンプ・ルイユ
  • 日常の道具を鳥と木に見立てた絵本『見立百花鳥』(宝暦5年(1755年)刊)、生活道具を寄せ集めて作り物に仕立てた絵本『造物趣向種』(天明7年(1787年)初版)、影絵を題材としながらも実際の指南書と言うより、絵としての滑稽さや意外性を追求した十返舎一九作・喜多川月麿画『紅毛影絵 於都里伎(おらんだかげえ おりつき)』(文化7年(1810年)刊)など。
  • 日野原健司 「国芳の戯画 そのアイディアの源流」『破天荒の浮世絵師 歌川国芳』所収。
  • 村松梢風 『本朝画人伝』「柴田是真」
  • 勝原良太 「国芳の洋風版画と蘭書『東西海陸紀行』の図像」人間文化研究機構国際日本文化研究センター『日本研究』34号所収。日文研リポジトリに掲載(外部リンクPDF
  • 画題解説は、稲垣進一、悳俊彦編著『国芳の狂画』(東京書籍、1991年、14-15頁)や『破天荒の浮世絵師 歌川国芳』展図録(浮世絵太田記念美術館、2011年、118-119頁)を参照。
  • 特別展 没後150周年 歌川国芳展大阪市立美術館サイト内の説明ページ
  • 没後150年 歌川国芳展静岡市美術館サイト内の説明ページ
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web