横浜ドリームランド

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横浜ドリームランド(よこはまドリームランド)は、神奈川県横浜市戸塚区俣野町字沖原700番地で営業していた遊園地日本ドリーム観光株式会社の手によって、1964年に開園し、2002年に経営悪化のため閉園した。

姉妹園的存在に、先行して開園した奈良ドリームランドがあった。日本ドリーム観光がダイエーに吸収合併された後は、ダイエーの子会社であるドリームパークによって運営されていた。

主なデータ

  • 営業時間: 10:00-17:00(3-11月)、10:00-16:30(1・2・12月)
  • 入園料: 大人800円、小人400円
  • マスコット: ドリちゃん、ランちゃん

歴史

開園

「昭和の興行師」と呼ばれた松尾國三率いる日本ドリーム観光が、毎日新聞社の後援のもとに総工費約200億円を投じて建設。松尾は「観光立国」を標榜し、かねてから東京近郊での一大娯楽施設を開設することを目論んでいた。開園当初の横浜ドリームランドは、「日本のディズニーランドを目指す」という松尾の構想に基づき、横浜郊外の小高い丘陵丸々一つを開発した約132万平方メートルの広大な敷地に、遊園地やボウリング場、スケート場、ショッピングモール、映画館を備えた、当時の日本国内でも屈指のレジャー施設であった。開業翌年の1965年には、敷地内に当時の国内で随一の高層建築物であった「ホテルエンパイア」も完成した。

アクセス問題と経営悪化

開業の2年後の1966年5月2日には、それまでバスまたはマイカーに限られていた横浜ドリームランドへのアクセスの目玉として、ドリームランドと当時の国鉄大船駅を結ぶモノレール大船線が開通。バスでは15分であった大船-ドリームランド間の所要時間を、約半分の8分に短縮するという触れ込みであった。

しかし、モノレール大船線は技術上の欠陥により、わずか1年5か月後の1967年9月24日に運行休止に追い込まれる。その代替として神奈川中央交通のバス便を平日70往復、休日300往復させる措置が取られたが、ドリームランドへのアクセスは再びバスかマイカーに限定されることになった。しかし、開園当初はのどかな田園地帯であった戸塚周辺は、高度経済成長によって急激にベッドタウン化が進むとともに道路交通量も著しい増加をみせており、特にバス・マイカーともにドリームランドへたどり着くために通過しなければならない国道1号原宿交差点は、神奈川県内でもトップクラスの渋滞箇所に発展していた。このため、バスの場合では空いていれば大船駅から15分ないし20分程度で済む乗車時間も、場合によっては1時間以上要することがあった。また、東京都内や横浜市街からマイカーで来場するケースでも、週末などは原宿交差点を先頭に5km以上、横浜新道内まで続く渋滞がしばしば発生した。いずれの場合においても、来場者はレジャーを楽しむ前に少なからぬ時間ロスと疲労を強いられることになった。

このような交通アクセスの悪さは、開園当初から閉園に至るまで横浜ドリームランドの経営を圧迫する致命的な欠点となり、1970年(昭和45年)には早くも収支悪化によって敷地東側の部分売却(全敷地の約4分の1)に至る。その後も段階的に敷地売却が行われ、売却された土地には、神奈川県住宅供給公社横浜市住宅供給公社によって「ドリームハイツ」という名の高層団地が建設されている。

ダイエー傘下入りと衰退

1970年代から1980年代初頭にかけては、京浜地区で競合する施設が少なかったことなどから苦戦のうちにも年間160万人の入場者を数えたが、1983年東京ディズニーランド開園などを契機として入場者数は下降の道をたどる。時をほぼ同じくして、日本ドリーム観光本体では創業者である松尾國三の死去(1984年)をきっかけに、松尾の遺族と経営陣との間で泥沼の経営権争いが発生した。最終的に経営権は遺族の手に移るが、後に日本ドリーム観光は遺族を支援した中内功によって1988年ダイエーに吸収され、横浜ドリームランドはダイエーの子会社であるドリームパークによって運営されることとなった。

ダイエーは当時、プロ野球球団・南海ホークスの買収など積極的な事業拡大を進めており、横浜ドリームランドにも再興の期待が膨らんだが、間もなく訪れたバブル崩壊とともに水泡に帰した。その後も横浜・八景島シーパラダイスよこはまコスモワールドなどの競合施設の出現に加え、少子化やレジャーの多様化も要因となって客数は減少を続け、年間入場者数は最盛期の約半分程度まで落ち込んだ。結果、陳腐化が進んだ園内アトラクションの大規模な入れ替えや施設改修に資金が回らず、それがさらなる入場者数減少に結びつくという悪循環に陥った。また、長年にわたり開店休業状態であったホテルエンパイアも1995年に閉鎖され、廃墟同然と化した。

閉園とその後

1990年代末期、ダイエーは本業不振や過度の事業拡大が負担となって赤字に転落し、深刻な経営危機が表面化した。2001年には日本ドリーム観光の買収にも大きく関わった中内功が辞任へと追い込まれ、債権を持つ銀行側から「2002年の内に約100億の負債を処理しない限り今後の融資は不可能」と通告されたことから、ダイエーは大規模な系列事業の見直しを行うこととなった。これによって細々と営業を続けてきた横浜ドリームランドも事業リストラの対象となり、遊園地として存続したまま経営権の譲渡をするよりも、整地した上で不動産として売却するほうが有利との判断から閉園が決定した。翌2002年2月17日、横浜ドリームランドは37年6か月の歴史に幕を閉じ、営業を終了した。閉園時の敷地面積は、度重なる縮小によって開園当初のおよそ10分の1となっていた。

ファイル:Hotel Empire cropped.jpg
横浜薬科大学図書館棟となった旧ホテルエンパイア

横浜ドリームランドの土地は最終的にダイエー系列の十字屋が所有していたが、ダイエーの債権者である銀行の仲介により、閉園に先立つ2001年10月に、中古車流通会社・ユー・エス・エスへ約88億円で売却され、同社がオートオークション会場として使用する計画を発表した。しかし、原宿交差点の渋滞悪化などを懸念した近隣住民によって強い反対運動が起こり、ユー・エス・エスはドリームランド跡地への進出を断念。同地を横浜市に約104億円で買い取らせ、市内に代替地を確保した。

横浜市は取得した土地を南北に分割し、旧ホテルエンパイアの建物やボウリング場を含む敷地の南側を都築第一学園に売却した。2006年、同学園は取得した土地に横浜薬科大学を開校させ、旧ホテルエンパイアおよびボウリング場の建物も改装を経て校舎の一部として転用されている。残る跡地北側は横浜市によって再開発され、2008年に「俣野公園」並びに市営墓地「メモリアルグリーン」として整備された。俣野公園内には約3,000人収容の観客席を備えた「俣野公園野球場」も落成している。これらの再開発事業に先立って、周辺にあったダイエー系の商業店舗はすべて閉鎖・解体されたことから、横浜ドリームランドの痕跡は相州春日神社(後述)や横浜薬科大学の校舎となった一部の建物を残して消滅している。

施設

宮廷庭園

ヨーロッパの宮廷の庭園をイメージした4200平方メートルの大花壇。正門を入ってすぐのグランドアベニューにあった。庭園の両脇にはヨーロッパの町並みを摸したショッピングモールが造られていた。1980年に撤去された。

冒険の国

Adventureland。開園当初の目玉の一つで、アメリカのディズニーランドのジャングルクルーズを摸した「冒険の国巡航船」などがあった。建設費約30億円をかけて造られたが、経営悪化の影響で1970年に土地を売却し、高層団地のドリームハイツの一部となった。 巡航船はその後、スポーツランドのフリーウェイを壊し、移設された。

子供の国

Kiddyland。お伽の城、おとぎ列車、レインボーブリッジ、ピーターパン、空飛ぶじゅうたん、デイジーチェアー、ティーカップ、スワンボート(水上スクーター)、飛行塔があった。

スポーツランド

潜水艦、ボブスレー、ショッキングカー、フリーウェイ、オクトパス、スイジングスウィング(空中ブランコ)、ロープウェイ、後述のワンダーホイールがあった。 その他にも子供遊戯場(普通の公園のように滑り台、ブランコ、ジャングルジム等がある)、シェトラントポニー(ロバに乗り、砂漠やピラミッドがありラクダのいる世界を散歩する)があった。

ワンダーホイール

ドリームランドの目玉ともいうべき大観覧車。高さ75メートルで、開園当時は世界一の大きさと言われていた。ゴンドラの二台に一台は滑車が付いていて、観覧車が動くたびに揺れる構造となっていた。このため、スリルを味わう人が多く、動くゴンドラに人気が集中した。

シャトルループ

1979年3月1日に登場したジェットコースター。日本におけるループコースターの嚆矢。突然急発進した後、360度宙返りを猛スピードで前向き、後ろ向きで繰り返す往復型コースター。

メリーゴーランド

1976年に設置されたフランス製の2層式メリーゴーランド。閉園後は、同じくダイエーが経営に関わっていた小山ゆうえんち(現 おやまゆうえんハーヴェストウォーク)に、園内の備品などとともに引き取られた。

レインボープール

開園当初はこの場所に大噴水があったが取り壊され、1967年にプールが建設された。冬期はスケートリンクとして活用され、近隣の小学校などのスケート教室で利用されていた。閉園後は、スケート教室の廃止及び場所の移動といった措置がとられた。

ヘイヘイおじさん

アトラクション「ミュージックエキスプレス」の運行を担当していた従業員 新井俊次の愛称。地味なアトラクションを盛り上げるために派手な衣装を纏い、即興でフィンガー5の「学園天国」の節で、「ヘーイヘイヘイ…」と声を掛けることで有名になった。奈良ドリームランドで働いていた妹の勧めで開園とともに就職し、定年をむかえた後も嘱託として閉園まで勤務。閉園まで「ミュージックエキスプレス」の操作を7年間担当。その後はドリームボウルにボウリング指導員として再就職し、2004年12月12日の閉鎖とともに退職。[1]

ゲームコーナー

エレメカピンボールなど、非常に古いアーケードゲームが残っている事で、一部のゲームマニアに知られていた。これはゲームコーナーの運営にドリームランド自体と、ドリームランドに入っている業者の二者が存在した為で、レトロゲームは後者により運営されていた。閉園後殆どのゲームは売却され、台場一丁目商店街では2010年現在も、ドリームランドで稼動していたゲームの一部を遊ぶ事ができる。

ドライブインシアター

夢のホテル(ホテルドリームランド)跡の駐車場には1994年から2001年までの間、ドライブインシアター「MOVIX横浜ドリームランド」が設けられた。株式会社松竹シネ・ファイジャパンが設置。

相州春日神社

横浜ドリームランドの建設に際し、その発展と繁盛を願って敷地内に奈良の春日大社の分霊を勧請し「ドリームランド春日神社」が建立された。その後、神社とドリームランドとは敷地・組織とも切り離され、「相州春日神社」と改名した。境内には本場春日大社よろしく「神鹿」としてシカが飼育され、参拝客が鹿せんべいを与えられるようになっている。横浜ドリームランドの廃園時には相州春日神社は既に別組織であったため、跡地の整地・売却後も現存し、シカたちも健在である。

キャンペーンガール

1980年代には、毎年、若手アイドル歌手をキャンペーンガールとして起用したが、アイドル歌手の登竜門といわれた大磯ロングビーチのキャンペーンガールに対し、同じ神奈川県下でも横浜ドリームランドのキャンペーンガールは翌年には名を消すような地味なタレントばかりであった。

ロケ地

1970-1990年代にはテレビドラマの撮影が数多く行われ、中でもTBSの『キイハンター』『東京警備指令 ザ・ガードマン』には複数回登場した。その他にも映画やテレビコマーシャルのロケ地として使われた。

テレビドラマ

映画

テレビコマーシャル

  • au(2001年)

その他

  • おらぁグズラだど(テレビアニメ、1967年、フジテレビ、グズラが遊園地に行った回[不明]に、アニメと合成)

参考文献

関連項目

脚注

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外部リンク

  • 横浜南支局(2013年10月10日). “人物風土記 新井俊次さん”. タウンニュース 戸塚区版 2013年10月10日号(株式会社タウンニュース社)。