横河民輔

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テンプレート:出典の明記 横河 民輔(よこがわ たみすけ、元治元年9月28日1864年10月28日) - 昭和20年(1945年6月25日)は、明治大正・昭和期の建築家実業家横河グループ創業者。日本の鉄骨建築の先駆者。アメリカの雑誌で鉄骨構造を知ったという。

経歴

播磨国明石(現・兵庫県明石市)出身。医師の三男として生まれる。

帝国大学工科大学造家学科(現東京大学工学部建築学科)で建築学を学ぶ。1890年(明治23年)に卒業。卒業同期には葛西万司宗兵蔵らがいる。卒業設計では東京の町屋を取り上げ、論文で町屋の生活改善と建物の耐震耐火性の向上をテーマとした。(その後、下町の二階建ての土蔵造や煉瓦造をどうしたら簡便に耐震化できるかを考え、1891年に著書『地震』を刊行した)

卒業後すぐに日本橋に建築設計事務所を開設するが、1892年(明治25年)、三井組嘱託及び東京工業学校講師となり、のち1895年(明治28年)、月給200円の技師長格で三井財閥の三井元方に入社し、三井系企業の建築物の設計を行なう。翌年部下に鈴木禎次がつく。1892年(明治25年)、東京法学院改築、1893年(明治26年)、帝大同期である宗兵蔵設計の久松座(旧明治座)を監督。

1893年(明治26年)、女子教育家として著名な棚橋絢子の次女・下枝と結婚。1896年(明治29年)、三井総営業本店の設計を開始し、1902年(明治35年)に竣工。施工の実際の指導から材料の発注まで一人でこなした。

1903年(明治36年)に独立して、横河工務所(現在の横河建築設計事務所)を開設。1906年(明治39年)大阪支店開設。同年からは東京帝国大学工科大学建築学科鉄骨構造の講義も担当。1915年(大正4年)、工学博士。

さらに、鉄骨橋梁部門を橋梁メーカーの横河橋梁製作所、現・横河ブリッジとして分離独立。その後、横河化学研究所・東亜鉄工所・満州横河橋梁会社、計測・制御機器メーカーの電気計器研究所、現・横河電機等を創業(最後には倭楽研究所という、琴の演奏を趣味としていた民輔が、長すぎて運ぶのに不便な琴を折りたたみ式にするための会社も設立)。実業家としての手腕を発揮した。

国会議事堂建設の際には、委員を務めた。また、1925年(大正14年)から1927年(昭和2年)まで、社団法人日本建築学会会長を務めた。

1943年(昭和18年)工務所を譲り引退。1964年(昭和39年)に行われた第1回日本建築祭で、日本建築界先覚者遺徳顕彰5氏のうちの1人に選ばれた。

横河工務所の設計作品

人柄

もともとは建築家であるが、事業に忙しく実際の設計は中村伝治松井貴太郎、長男の横河時介ら事務所のスタッフにまかせていた。

「設計図を描かない建築家」ともいわれたが目は確かで、設計室に入りスタッフが設計している背後からのぞいて、「うん、なかなか」といったら上出来、何もいわずに立ち去ると及第、しばらく見ていて小首をかしげて立ち去ると、どこかしらおかしく、計算しなおしてみると確かにおかしかった、といった風であったという。また旧東京証券取引所設計の際には、変形の敷地にどうやってデザインを納めるかスタッフが苦慮していると、スラスラとスケッチを描き、またみかんの皮を剥いて造形案の示唆を与えたという。また工事を中断していた東京株式取引所立会所の計画変更で、荷重のかかる場所に柱が建てられなくなった際、構造担当の所員で、山口文象の日本歯科医専付属病院なども担当する田中正蔵と船舶の構造をヒントに構造法を考案。叱りもしないが誉めてもくれない、喜怒哀楽を決して表に表さない寡黙の人と称された。

(旧)三井本館建設の際には当時最新鋭の鉄骨構造を導入。また、三井呉服店の高橋義雄の依頼でアメリカのデパートメントを視察し、経営改善を進言したといわれる。フレデリック・テイラーのテーラーシステムを日本にいち早くに紹介した人物でもあり、こうしたエピソードは大局観の鋭さを示すものであろう。三井の益田孝、鐘紡の武藤山治が「一介の建築技師にしておくのは惜しい、実業の経営に当たらしめたら当代一流の人物となろう」と語ったといわれる。

1911年(明治44年)に、民輔は請われて、建設業協会理事長に就任。のちに会長となるが、民輔自身は今日のゼネコンの体制である設計と施工の1式請負というスタイルを否定し、この社会から消滅することを望んでいるとまで述べている。1892年(明治25年)造家学会通常講演会で、清水満之助店支配人・原林之助が行った「1式請負こそわが国の建設業の進むべき道」との主張に対して、民輔は原が1式請負の利益ばかり挙げて弊害には触れていないことを挙げ、原が掲げた項目からもたらされる利益(経費の節約、煩雑でなく便利、竣工後も安全補償、工期の短縮)に一つ一つ反論を加えている程であった。しかし後の建設業協会発足にあたり、理事に誘ったのは、他でもない清水組大番頭である原林之助らであった。

1907年(明治40年)に入所してきた笠原敏郎には「この仕事は向こうから注文をうけたからでなく、こちらから、こういうものを建てなさい、これだけの収益がありますとすすめるのだから、もっときりつめて経営上採算の取れる有利なプランでなければいけない。建築家は積極的に働きかけて自ら進路を開拓せねばならない。」という意味のことをさとした。

関係した多くの学会や協会に気前良く私財を投じた。また面倒見がよく、発明家で独学の建築家伊藤為吉に発明の資金援助を行い、身体が不自由になっていた石井敬吉(元東大助教授)を鉄骨構造に造詣が深い構造エンジニアとして1907年(明治40年)入所させたほか、瀬戸文吾宍戸清輝、また所員であった竹田米吉や甥の一郎(後横河電気社長)らの学費を援助した。

美術論

中国古陶磁器の収集でも知られ、後にそれらを国立博物館に寄贈した。「横河コレクション」として著名である。

民輔の美的感は、伊東忠太が民輔の講演(1892年(明治25年)7月20日、造家学会通常会)に対し、「横河君の『東西美術執れか勝る』論を評し併せて意見を述ふ」という題目の反論からわかる。このとき伊東は横河の美術についての理解を逐一反論するが、その基本的な対立点は両者の美術理解の差以上に美術観がつぎのようにことなっている。

  • (横河)夫よりは申度事は、総て技芸なるものは世界共有同案の物で御坐り升、之は彼の国、どに申すぺき狭少なるものではありません、政治家や、軍人などが全世界の一小部分の為に一瞬時の名誉のためにする様な稀な希望を保つべきものではありません、世界上に人間の有らん限り塵却未来まで、此美術に依って楽ましめ、喜ばせん、此技芸の恩沢に依らしめんと期せぎる可からず、(中略)。
  • (伊東)以上諭するか如く、東西人種は索と其の風土気候を殊にするを以て、亦甚たしく其嗜好を異にせり、是故に我を以て彼を論するに由なく、又彼を以て余を論ナるを持す…彼の美術は彼の風土之を代表せり、我の美術は我の風土之を代表せり、彼は彼の風土に従て生活し、我は我の風土に従て生活せり、然らは則ほち吾人亦何を以てか其優劣を争はんや、(中略)。

伊東のどこか鬱屈とした意識とは対照的に、民輔の美術論は、美術の原理を文と武とで説明するような甚だ旧式のものであったかもしれないが、美術を国家とか名誉とかと切り離して考えようとする志向が伺え、伊東の言うように東西美術の優劣について答えていないのではなく、上述の文で「世界上に人間の有らん限り塵却未来まで、此美術によって楽ましめ、喜ばせん」とする意欲が同じであれば、古今東西美術の比較は云うに抗しない、と答えている。帝国劇場の際に争われた、その建築を「西洋様式とするか、日本の伝統様式とするか」に対し「民衆のための劇場」として、躊躇なく洋式劇場を設計した。

関連項目

テンプレート:日本建築学会会長