桑原征平

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テンプレート:基礎情報 アナウンサー テンプレート:保護依頼 桑原 征平(くわばら しょうへい、1944年(昭和19年)5月14日 - )は、日本フリーアナウンサータレント司会者ラジオパーソナリティ。元関西テレビアナウンサー。フリー転身後は、大阪芸術大学の教授にも就任。一時は、「丹後ふるさと観光大使」(京都府)も務めていた。

ニックネームは「征平さん」(もしくは「征平ちゃん」)。桑原菜穂子[1]フジテレビディレクター)、桑原達秋福井テレビ局員、元・同局アナウンサー)の実父でもある。

来歴・人物

京都府京都市右京区西院出身。高校は兄2人と同じ京都市立西京高等学校商業科を受験するも不合格となり、私立京都西高等学校(現在は京都外大西高等学校)を経て、成城大学(これも兄2人と同じ)経済学部に進学した。

京都で「水泳一家」として知られた家庭の生まれ。次兄は、水球の日本代表選手として1964年東京オリンピック・1968年メキシコオリンピック・1972年ミュンヘンオリンピックに出場した桑原重治(元・水球日本代表監督)である[2]

征平自身も、学生時代に競泳水球の選手として活躍。男子200mバタフライでは京都府の中学生記録を5年間保持していたほか、中学校時代には同種目で東京オリンピック(1964年)の日本代表候補選手になったこともある。高校時代にも3年連続で、国民体育大会の競泳・バタフライ種目に京都府代表で出場している[3]


酒問屋の営業マンからアナウンサーへ

成城大学を卒業後は、当時「黄桜クラブ」という水球部を擁していた黄桜酒造からの預かり社員として、高島屋と縁の深い大阪市内の酒問屋・祭原(さいはら、2001年菱食へ吸収合併、現在は三菱食品)に入社。かつて南海の選手だった上司に仕えながら、酒やクーポンサービスの営業マンとして勤務するとともに、社長の仲人でTAIGAの実父(前述)のいとこ(現在の妻)と結婚する。また、「黄桜クラブ」の選手として、水球の全日本選手権で優勝している[4]

しかし、結婚の直後に「サンケイスポーツ」でKTVのアナウンサー募集記事を偶然目にしたことをきっかけに、同局の中途採用試験を受けた[5]1969年(昭和44年)8月に、KTV初の中途採用アナウンサーとして入社。約750人の応募者の中から、2人だけ採用された(もう1人の採用者は杉山一雄)。ちなみに、同年の新卒採用組に、上沼真平(上沼恵美子の夫、元プロデューサー)、千草宗一郎(元社長)がいる。

桑原が中途採用試験を受けた当時のKTVでは、大阪万博の開催を控えて(地元局として)アナウンサーを大量に確保する必要に迫られていた。「テレビ局見学のつもりで受験した」という桑原は、受験資格に「標準語を話せる者」との条件がありながら、最終面談(6次試験)で社長から「自分自身の欠点は?」と聞かれて「欠点は標準語が話せない」と回答。しかし、試験官を務めた当時の制作担当常務から、「(桑原の話す)京都弁こそ100年前までは標準語だった」「おもろいやっちゃ(面白い奴だ)」という言葉を掛けられた。結局、人事部長から「研修の3ヶ月間で標準語のアクセントを身に付けられなければ営業職へ異動」という趣旨の同意書に一筆記すことを条件に、アナウンサーとして採用された。

そのような経緯もあって、桑原は入社直後から、「何とかしてアナウンス室にとどまりたい」との一心で制作部の部長へ直談判。(通常はアシスタントディレクターや若手芸人が担当する)公開放送の前説、KTV本社で撮影していた江原真二郎出演のドラマ(タイトル不詳)のエキストラ、大阪万博の会場内でKTVの重役や取材スタッフを運搬する電気自動車の運転手などを務めながら、次第に番組出演の機会を増やした。

関西テレビアナウンサー時代

桑原の名が全国に知られるようになったのは、KTV制作の全国ネット番組『ハイ!土曜日です』にレギュラーで出演してからである。当初はスタジオアシスタントに過ぎなかったが、1975年(昭和50年)から毎週担当したVTR取材コーナー『征平の挑戦』において、日本各地や世界各国で体当たりレポートを敢行(後述)。危険を顧みないほどのバイタリティー、喜怒哀楽を露わにしたリアクション、濁声の絶叫などで全国に名を知られるようになった。

1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)3月までは、KTVと関連会社・ラジオ大阪(OBC)による相互交流企画の一環として、当時のKTVアナウンサーから唯一OBCの番組にレギュラーで出演。『みんなでみんなでリクエスト バンザイ!歌謡曲』(同局が当時阪神百貨店梅田本店内のサテライトスタジオから放送していた生ワイド番組)の木曜日に、浅川美智子とともにパーソナリティを務めた[6]

『ハイ!土曜日です』の終了後も、後継番組の『DOサタデー』『モーニングスタジオ・土曜!100%』(以下『土曜100%』と略記)や、関西テレビ制作・全国ネットのクイズ番組『クイズDEデート』で司会を担当した。1985年(昭和60年)4月からは、その人気に注目したフジテレビ(関西テレビのキー局)からの強い要請で、アナウンサーのまま東京支社編成部へ異動(後述)。1987年(昭和62年)3月までの2年間、フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』で司会を務めた。この時期には、関西地方で大きな事件やブームが続発。関西から単身で東京へ赴任していた桑原も、実際には取材リポーターとして頻繁に関西へ戻っていた。

1987年(昭和62年)4月に本社へ復帰してからは、『ハイ!土曜日です』の放送枠で、『土曜大好き!830』『土曜ぴーぷる』の司会を担当。『めざましテレビ』の中継コーナーにリポーターとしてレギュラーで出演するなど、全国ネット・関西ローカルを問わず、関西テレビの看板アナウンサーとして情報・バラエティ番組を中心に活躍した。

また、横山ノック参議院議員選挙大阪府知事選挙への出馬で『ノックは無用!』(関西ローカルの生放送)への出演を見合わせた期間には、ノックの代役として高校の先輩・上岡と共演[7]。ただし、以上の番組での強烈なイメージが敬遠されたせいか、競馬実況で知られた先輩アナウンサー・杉本清とともに定時ニュースを担当する機会はほとんどなかった(後述)。1990年(平成2年)3月末にMBSテレビで放送された『あどりぶランド』(同局アナウンサー総出演のテレビ番組)300回記念スペシャルには、杉山や中島優子(いずれも当時の同僚アナウンサー)とともに、局の垣根を越えてゲストで出演している。

2004年(平成16年)4月から大阪芸術大学の客員教授へ就任した後に、同年5月14日でKTVを定年退職。杉本に次ぐ「局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー」(管理職扱いの専門職)として、局アナ人生を全うした。当日は、『ニュースJAPAN』内で放送していた関西ローカルのニュースに出演し、挨拶を述べた。

KTVでは、桑原の退職翌日(5月15日)に、前代未聞の定年退職記念特別番組さらば征平・最後の挑戦!』を生放送。後輩のアナウンサーや、『土曜大好き!830』で共演した板東英二香坂みゆきなどをスタジオに迎えて、『征平の挑戦!』のダイジェストや定年間際での挑戦(東尋坊からのダイビング[8]マチュ・ピチュでのグッバイボーイ経験など)の模様を放送した。同番組は、関西ローカルでの放送ながら、2004年(平成16年)度の日本民間放送連盟賞でテレビ番組部門のエンターテインメント番組最優秀賞を受賞した[9]。また、大きな反響を得たことから、以降も2度にわたって放送している。

フリー転身後

桑原は、KTVからの定年退職の前後に、ライバル局の朝日放送(ABC)テレビ大阪(TVO)からテレビ番組へのレギュラー出演を打診。TVOでは、KTVからの退職を機に、『征平・宮根のヨソ様の事情』(ABCを退社したばかりの宮根誠司との共同司会によるレギュラー番組)を放送することが内定していた。しかし、TVOからの報道発表で事情を知った出馬が、桑原に対して定年退職後から5年間の専属出演契約を提案。その結果として、TVO制作番組への出演を容認することを条件に、「メディアプルポ(同局の関連会社)所属のゼネラル・エキスパート・アナウンサー」扱いでKTVの番組出演を優先する契約を結んだ。

上記の経緯から、KTVでは契約期間満了の2009年(平成21年)まで、アナウンス室に桑原専用のデスクを設置。TVOでは2005年(平成17年)4月から、関西ローカルの冠番組(『征平・宮根のヨソ様の事情』→『征平・宮根のクチコミぃ!?』)で、宮根と共に司会兼リポーターを務めていた。さらに、テレビ・ラジオ兼営局であるABCでは、上記の契約がラジオ番組への出演にまで及ばないことに着目(後述)。退職直後の2004年6月から、桑原をABCラジオのパーソナリティに起用するとともに、ラジオでは自身初めての冠番組として『桑原征平粋も甘いも』(以下『粋甘』と略記)の放送を開始した。

テレビ番組については、『征平・宮根のクチコミぃ!?』へ出演していた2006年(平成18年)に、テレビ東京系列で1月2日に放送された正月特別番組『第2回全日本パフォーマンス人文字大賞』でTVOチームのリポーターとして登場。フジテレビ以外の在京テレビ局が制作する全国ネット番組へ初めて出演した。しかし近年は、出演番組を関西ローカルに限定。2009年(平成21年)4月から半年間『アップ&UP!』(当時KTVで放送されていた情報番組)のリポーターを務めたのを最後に、レギュラー出演の機会が途絶えている。

その一方で、ABCラジオでは2004年10月から、『粋甘』を「ラジオのゴールデンタイム」とされる平日昼間の生ワイド番組へ移行した。現在では、週2回放送の『粋甘』に加えて、『征平・吉弥の土曜も全開!!』(土曜日の生ワイド番組、以下『土曜も全開』と略記)や『征平・あさおのどす恋ラジオ』(事前収録による平日夕方のラジオショッピング番組、以下『どす恋ラジオ』)でもパーソナリティを担当。『どす恋ラジオ』では毎回、「征太郎(しょうたろう)」というキャラクターで、パートナーの高野あさおショートコントを披露している。2011年(平成23年)8月8日 - 8月12日には、同局の看板番組『おはようパーソナリティ道上洋三です』で、夏期休暇中の道上洋三の代役としてメインパーソナリティを担当。2013年(平成25年)・2014年(平成26年)には、同局の制作番組では新年最初の生放送番組になる『新春スーパーワイド』の第1部(5:00 - 11:00)のメインパーソナリティに起用されている。

なお2012年(平成24年)には、フリーアナウンサーに転身してから3019日を経過した9月12日に、転身後初の著書として『3019(さんれいいちきゅう)桑原征平』を発売。また、宮川大輔の一族を取り上げた『ファミリーヒストリー』(10月8日NHK総合テレビで放送)の証言ゲストとして、NHKの番組に初めて登場した。

趣味

  • 京都での学生時代には、名門のスイミングクラブとして知られる「京都踏水会(とうすいかい)」に通いながら、水泳の腕を上げた。現在でも週に3日は、自分でタイムを図りながらプールを全速力で泳ぐことによって、アナウンスに必要な心肺機能や舌の筋力を鍛えているという[10]。また、KTVのアナウンサー時代に番組取材を通じてヨガを体験したことをきっかけに、就寝前のヨガを日課にしている。

エピソード

桑原は、『粋甘』や『土曜も全開』で、自身のエピソードを度々披露している。ただし以下では、自著『生きてるだけで丸もうけ』(2005年、ぴあ)や『3019桑原征平』での記載内容を中心に紹介する。

学生時代

  • 成城大学への進学で故郷・京都を離れるまでは、京都府警察巡査などの職を転々としていた実父から、事ある毎に理不尽な仕打ちを受けたという[11]
  • 小学生時代に、担任の紹介でNHK京都放送局内の劇団(NHK京都放送児童劇団)へ入団。しかし、作品での出番の少なさに嫌気が差したことから、すぐに退団した。成城大学時代にも、難関で知られる文学座養成所の試験に合格したが、水球の試合で眼球を負傷したことなどを理由に入所を辞退している。ただし辞退後には、桑原の入所を想定してドキュメンタリー番組の制作を準備していた当時のNHKプロデューサー・末盛憲彦からの誘いで、末盛の担当番組『夢であいましょう』のリハーサルに3週間通っていた[12]

関西テレビ時代

  • 中途採用で入社した当時のアナウンス部長・松本暢章は、アナウンス技術の習得に苦闘していた桑原を、「あんた(桑原)は自分の個性を生かしたら良い」という言葉でよく激励していた。そのため桑原は、松本が亡くなった現在でも、「まっちゃん先生(松本の愛称)は(アナウンサーとしての)恩人」と慕っている。
  • 『ハイ!土曜日です』などで人気が出るにつれて、KTV系列局の番組・イベントで司会を務めたり、個人の立場でいわゆる「内職」(番組スポンサーが主催するイベントの司会や講演など)を引き受けたりする機会が増加[13]。しかし、事情をよく知らないまま身内の借金の連帯保証人になったため、退職直前の3年間は「内職」を積極的にこなしながら借金の返済に努めていた[14]

『おはよう!ナイスデイ』の司会として

  • 在阪準キー局・KTVのアナウンサーながらキー局・フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』(以下『ナイスデイ』と略記)の司会に抜擢されたのは、それまで出演していた『土曜!100%』がKTVの方針で桂三枝(現在の六代 桂文枝)司会の『モーニングアップル』に変わったことに加えて、『ナイスデイ』司会陣のうちフジテレビのアナウンサーが須田哲夫しかいなかったという事情もある[11]
  • 出向1年目の1985年8月7日水曜日)には、かねてから親交の深い輪島功一からの紹介で、『おはよう!ナイスデイ』の本番終了後に『笑っていいとも!』(フジテレビ制作)の「テレフォンショッキング」へゲストで出演。『FNNスーパータイム』(前年10月から[15]夕方に放送を始めたばかりの全国ニュース番組)平日版の初代メインキャスター・逸見政孝(当時は同局アナウンサー、大阪市出身で桑原と同学年)を、「同じ関西地方出身のアナウンサー」という縁で、翌日のゲストに指名している。逸見はこの指名をきっかけに、同番組への初出演を果たした[16]。。

ニュース番組での逸話

  • 桑原曰く、「KTVで実際にニュースを読んだのは、定年退職当日を含めても20回しかない。それでも、担当した際には波瀾万丈だった」[17]。ただし、『おはよう!ナイスデイ』の司会だった時期には、フジテレビの全国ニュース番組『FNNニュースレポート11:30』で当時のメインキャスター・露木茂(当時の同局アナウンサー)の休暇期間中に露木の代役を務めた。
    • まだ番組出演の少なかった若手時代に、定時ニュースで報道部の記者から殴り書きの速報原稿を渡された際に、隣にいた同期入社の千草宗一郎に思わず判読を頼んだことがある。桑原自身は、現場が騒然とする中で、千草からの口伝えのおかげでどうにかニュースを読み終えた[18]
  • 自宅が被災した阪神・淡路大震災1995年)では、発生直後からアナウンサーの1人として被災地を取材。同年4月から1年間にわたって『桑原征平 復興の街』という番組で取材を続けたほか、震災関連番組・特集の中継リポーターも務めた。フリーアナウンサーに転身した現在でも、この時の体験を講演や出演番組で話すことがある[19]

体当たり取材での逸話

テンプレート:See also

  • 征平の挑戦!』の第1回は、阪急ブレーブス広島東洋カープが対戦した1975年の日本シリーズ第1戦(広島市民球場)の2日前に、(関西テレビと関連の深かった)ブレーブスのユニフォーム姿で広島市内へ「殴り込む」という企画だった。桑原は、(当時の番組ディレクター・古吟勲一の指示で)カープファンの怒りをかき立てるメッセージを記したプラカードを持たされたため、行く先々でカープファンからヤジと暴行を受けた。この企画が大きな反響を呼んだことで、桑原の名が一躍全国に知れ渡るとともに、長年にわたって古吟と共に体当たり取材ロケ企画へ携わるようになった[20]。ちなみに、桑原は取材を通じて、未経験者の立場でスキージャンプ(ジュニア選手向けの20m級ジャンプ)、リュージュロデオなど大きな危険を伴うスポーツにも挑戦している。
    • 放送業界での先輩に当たる永六輔は、1978年に刊行した著書「二人三脚七転八起」(中央公論社)の中で、体当たり取材に奮闘していた当時の桑原を「この人(桑原)には悲壮感がないのです。この(サービス)精神が生きている芸人は、もうサーカスにしか残っていないようです。彼こそ、芸人を超えた『狂気のサラリーマン』です」と評価している。
  • 征平の挑戦!』をはじめ、テレビ番組のリポートで海・プール・温泉に入る時には、体の線がはっきり見える虎パン(虎柄の海水パンツ)を着用。このいで立ちで、高さ16mのアカプルコメキシコ)からのダイビングを成功させたこともある[21]
  • 奥飛騨温泉のお膝元・岐阜県上宝村(現在は高山市に合併)の観光協会による提案・全面協力の下に、同温泉のPRを兼ねて、『征平の挑戦!』で1日100ヶ所の露天風呂入浴に挑戦したことがある。桑原は、ギネスブックによる記録の公認を狙いながら、赤い褌(ふんどし)姿で午前6時から次々と入浴。しかし、午後9時頃に45ヶ所目の温泉で湯あたりを起こして倒れたため、100ヶ所の制覇には至らなかった(記録自体もギネスブック未公認)。
  • 野球好きが高じて、『征平の挑戦!』の一環で、近鉄バファローズカリフォルニア・エンジェルスの入団テストを受験した。いずれも不合格に終わったが、放送後には当時のブレーブス監督・上田利治や、メジャーリーグ通で知られたパンチョ伊東から賛辞を受けている[21]
    • 近鉄の入団テストでは、桑原が当時30歳を越えていたことを理由に、当時の監督・西本幸雄から「よく頑張ったが、年齢制限で無理」と言われた。そこで桑原は、ギャグのつもりで、「日本がダメなら大リーグがある」と発言。この発言をきっかけに、当時の監督のノーム・シェリーへのインタビューを名目に、関西テレビがエンジェルスに企画を持ち掛けた[21]
  • 1981年ティッピ・ヘドレン出演の映画「ロアーズ」の宣伝を兼ねて、『征平の挑戦!』で彼女を取材した際に、彼女が自宅で飼っていた体重約200kgのライオンに臀部を噛まれた[22]1984年には、KTVの正月番組用の企画「人間大砲に挑戦」で、高さ9メートルの砲台から15mの距離を跳んだ。しかし、この企画で一時失神したことから、運動神経の衰えを理由に『征平の挑戦!』シリーズへ終止符を打った[23]
  • めざましテレビ』にリポーターとして出演した時期には、早朝の生中継で全国各地の達人と対決。表向きには「関西地方担当のリポーター」という位置付けながら、桑原が登場する中継には、「征平の朝からナニ言うてまんねん」(1994 - 1997年度金曜)→「征平のビックリ関西」(1998年度木曜)→「征平の朝からかなわんなぁ~」(1999年度木曜)→「征平の出てこ~い!達人」(2000年度木曜)というタイトルが付けられていた。その一方で、1996年・1997年の1月17日には、前述の事情から阪神・淡路大震災関連のリポートも特別に担当していた。

フリー転身後

  • テレビ(ABCテレビ)とラジオ(ABCラジオ)を兼営している朝日放送では、KTVで長らく土曜午前の生放送番組へ出演していた桑原に対して、KTVからの退職直後に『おはよう朝日 土曜日です』(ABCテレビ)の司会への就任を打診していた。しかし、前述の契約によってテレビ番組への出演が事実上KTVに限られていたため、打診の内容を(契約条件になく過去にOBCで経験のある)ラジオ番組に切り替えたところ快諾。「プロ野球シーズンの3ヶ月限定」という条件ながら、(プロ野球の公式戦がほとんど組まれない)月曜18:30からの1時間番組として、試験的に『粋甘』の放送を開始した[23]
  • ラジオパーソナリティとして出演する生放送番組で直近のニュースや自分の思い出話を語る場合には、放送前日までに予習した内容を基に、放送日の早朝に手書きで原稿を作成。さらに、その原稿を2回推敲してから生放送へ臨んでいる。少年時代からの習慣で(KTV時代を含めて)もっぱら「朝日新聞」を読み続けているため、上記の番組で直近の時事問題やスポーツの話題を取り上げる場合には、自宅で購読している同紙兵庫版(大阪本社発行分)朝刊の記事を原稿作成の参考にすることが多い[24]
  • 『粋甘』の2010年最後の放送日に当たる12月30日(木曜日)の朝に、ゴミ箱を運ぼうとして自宅の階段から転落。救急車で病院に搬送された末に、腰椎(右第2横突起)の骨折で入院を余儀なくされた。出演予定だった『粋甘』は、前枠番組『ドッキリ!ハッキリ!三代澤康司です』のパーソナリティ・三代澤康司(ABCアナウンサー)が、同番組に続いて桑原の代役でメインパーソナリティを担当。それでも桑原は、病室のベッドから、オープニング・エンディングと一部のコーナーに電話で出演した。ちなみに桑原は、年末年始の特別編成をはさんで、2011年最初の放送から『粋甘』に復帰している[25]
  • 『粋甘』では2008年から、サークルKサンクスとのコラボレーションによるプロデュース商品(2010年までは「桑原征平人生劇場 思い出の○○弁当」、2011年からは「桑原征平の粋甘食堂」)を地域・期間限定で発売している(桑原征平粋も甘いも#特別企画を参照)。2010年に「桑原征平人生劇場完結編 思い出のすきやき弁当」を発売した際には、「番組発のスキヤキソングを作る」と銘打って、スペシャルバンド「桑原征平と粋甘オールスターズ」を結成。枚数限定のCDながら、"歌手デビュー"を果たした。
  • 2013年(平成25年)9月には、宮根の冠番組である『宮根のどないアングル~どうでもいい!?究極の三択~』最終回スペシャル(KTVで10月1日に放送)の収録で、テレビ番組としては久々に宮根や山本浩之梅田淳(いずれもフリーアナウンサーで同局の後輩)と共演。エンディングで、「これがおそらくテレビ(番組)最後(の出演)やと思います。もうテレビには出ない」と公言した。収録後には、「(前述の)ABCラジオの番組という『死に場所』を見付けた今は、ホンマに満足の毎日(を送れている)」という真意を明かしたうえで、「(テレビ番組出演の)新たな依頼が来ても、今のままで十分。テレビは引退宣言です」と述べている[26]。ただし、上記の発言以降も、主に自身と親交の深い人物に関する番組へ登場することがある。
  • 『土曜も全開!!』でコンビを組む桂吉弥と共に出演した2014年8月15日(金曜日)の『おはようパーソナリティ道上洋三です』では、「徹底検証!桑原征平」という特別企画が放送された。

現在の出演番組

いずれもABCラジオの番組

過去の出演番組

レギュラーを務めた番組、キャスター・パーソナリティ代理やナレーターとして出演した番組、冠番組として放送された特別番組のみ記述。

関西テレビ時代

全国ネット・一部地域ネットのテレビ番組

関西ローカルのテレビ番組

  • 爆笑寄席(新人時代には前説を担当)
  • 土曜イブニング・ショー(栗原玲児の司会で土曜16:00 - 18:00に生放送、中継リポーター、アナウンサーとして初めてのレギュラー番組)
  • 4時だぜ!飛び出せ!!ワイワイワイド[29]
  • 奥さまリビング(月 - 金曜11:00 - 11:40、司会)
  • ノックは無用!横山ノックの代役・後任として司会を担当)
  • ノンストップゲーム(同上)
  • ほんまかいな!(1997年10月 - 1998年3月、『ノンストップゲーム』の後番組)
  • VIVIDたいむ(関西テレビアナウンサー総出演のバラエティ番組)
  • 桑原征平 復興の街(1995年4月 - 1996年3月、毎週土曜日に放送された30分番組)
  • 昼あがり!どまんなか
  • ニュースJAPAN(関西ローカルキャスター、前述)
  • さらば征平・最後の挑戦!(前述)

フジテレビへの出向扱いで出演した全国ネット番組

定年退職後も続けて出演した番組

ラジオ番組

フリーアナウンサー転身後

テレビ番組

ラジオ番組
いずれもABCラジオの番組

CM

テレビ・ラジオ

  • 京都外大西高校(OBとして通信制課程の告知CMに登場、関西ローカル)テレビではKTV・ABC、ラジオではABCで2012年1月から放送。

テレビ

ラジオ
いずれもABCラジオ・関西ローカル限定で放送

2008年以降は、『粋甘』でサークルKサンクスとのコラボレーション商品(前述)を地域・期間限定で発売するたびに、桑原の声・歌によるラジオCMを放送している。

著書

  • ハイ!土曜日です 征平の挑戦(1978年、鶴書房
  • 生きてるだけで丸もうけ(2005年3月、ぴあ)ISBN 978-4835615332
  • 3019桑原征平(2012年9月12日、プラネットバルン)ISBN 978-4990584528

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

テンプレート:おはよう!ナイスデイ司会

テンプレート:めざましテレビ関西担当リポーター
  1. 夫はテレビカメラマンの柿内孝文
  2. テンプレート:Cite web
  3. 『桑原征平3019』に所収の「トークバトル 道上洋三vs桑原征平」より。東京オリンピックの日本代表候補になったのは、バタフライ・中学生の部で全国11位の記録を残したことによる。また、国民体育大会には、熊本・火の国国体1960年)「秋田・まごごろ国体」(1961年、競泳種目は福島県会津若松市で開催)「岡山国体1962年)の夏季大会にそれぞれ出場。岡山国体では、バタフライ・高校生の部で7位入賞を果たしている。
  4. 『桑原征平3019』に所収の「トークバトル 道上洋三vs桑原征平」より。
  5. 『3019桑原征平』には、該当する記事の写真が掲載されている。
  6. 『3019桑原征平』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。ちなみに、この相互交流企画では、OBCアナウンサー(当時)の水本貴士がKTVで『奥さまリビング』の司会を務めていた。
  7. 公職選挙法対策として、番組名も『ロックは無用!』に改めていた。
  8. 息子・達秋との父子ダイビングというプランもあったが、息子が勤務する福井テレビから止められたという(『粋甘』2014年2月6日放送「征平の、私は忘れない」より。この日は福井県にまつわる思い出話を語った)。
  9. 日本民間放送連盟賞/2004年(平成16年)入選・事績
  10. 元関テレアナ・桑原征平さん、毎日400メートル全力水泳で100歳現役目指す(「スポーツ報知2012年10月3日大阪本社発行版に掲載の特集「プレミアムトーク」より)
  11. 11.0 11.1 『生きてるだけで丸もうけ』第4章「少年時代」より
  12. 『生きてるだけで丸もうけ』第1章「アナウンサー志願」より
  13. KTV制作の全国ネット番組(『ハイ!土曜日です』『土曜大好き!830』『クイズDEデート』)へ出演していた時期には、さっぽろ雪まつりの開催期間に札幌で公開収録を実施していた関係で、系列局・北海道文化放送が開幕日・2日目に北海道ローカルで放送する生中継の特別番組で5年続けて司会を務めていた。
  14. 『粋甘』で水曜日に放送中のコーナー「征平の、じゃあこうしましょ!」の紹介(番組公式サイト)や、『桑原征平3019』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。
  15. 週末版は1985年春から。
  16. 『笑っていいとも!』「テレホンショッキング」1985年放送分ゲストリスト
  17. 『生きてるだけで丸もうけ』第7章「定年退職」より。フリーアナウンサー転身後の2013年1月1日には、ABCラジオの新春特別番組『新春スーパーワイド第1部 元旦早々、粋も甘いも 桑原征平です』で、自身21回目にして同局の2013年初ニュース(午前6時の『ABC朝日ニュース』)を特別に担当した。
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  19. 株式会社パワービーンズ 講師のご紹介:桑原征平
  20. 『生きてるだけで丸もうけ』第2章「『征平の挑戦』」より。同書や『桑原征平3019』には、放送時の1シーンの写真も掲載されている。
  21. 21.0 21.1 21.2 『生きてるだけで丸もうけ』第2章「『征平の挑戦』」より。
  22. 『桑原征平3019』に掲載の「実録 『征平の挑戦』より ライオンとの格闘」より。同書に所収の「激白!桑原征平大いに語る」によれば、同様のリポートを志願した宮川大輔が当時のVTRを『世界の果てまでイッテQ!』のスタッフに見せたところ、「今の時代には無理」との反応があったという。
  23. 23.0 23.1 『桑原征平3019』に所収の「激白!桑原征平大いに語る」より。
  24. 『桑原征平3019』pp.53には、「征平さんの原稿用紙」として、『桑原征平粋も甘いも』の過去の放送で使われた推敲済みの手書き原稿の写真を掲載。約20分の話のために、ノート2ページ分のメモを準備していることを紹介している。
  25. 『桑原征平3019』に所収の「リスナーさんが選ぶ征平さんの事件簿」より。
  26. 桑原征平アナ「これが最後」TV引退宣言(『サンケイスポーツ2013年9月10日付記事)
  27. 人志松本のすべらない話スピンオフ企画 最新作発売!
  28. 番組開始から2013年9月27日までは、毎週月 - 金曜の17:00 - 17:10に放送。
  29. 日本初の子供向け公開番組として、毎週金曜日の夕方に放送。西川きよし麻田ルミの司会で人気があったが、観覧客の将棋倒し事故(1971年12月)が発生したため終了。
  30. 「関西テレビ開局50周年スペシャルウィーク」の特別番組として放送。同局の元アナウンサーとして、第3回「70年代」のナレーターを務めた。
  31. リポーターとしては、取材VTRの最後に、旅先にまつわる独自の川柳を必ず披露していた。