桂文福

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結三柏は、桂文枝一門の定紋である。

桂 文福(かつら ぶんぶく)は、落語名跡。なお、当代は特に代数を名乗ってはいないが、恐らく上方での3代目に当たると思われる。

なお、「文福」の正式な読み方は「ぶんぷく」ではなく「ぶんぶく」である。

  1. 初代 桂文福生没年不詳)は、2代目桂文枝(後の桂文左衛門)の門下。その他の詳細不明。
  2. 2代目 桂文福1882年 - 1944年9月24日)は、後の2代目桂圓枝。本名: 永岡辰之助。享年63。

他に「文福」を名乗る落語家には、上方では3代目笑福亭福松(2代目文の家かしく)門下の文の家文福1992年 - 1961年7月13日)、東京では6代目桂文治門下の桂文福(1863年7月4日 - ?、後の桂文左衛門)らがいた。


桂 文福(かつら ぶんぶく、1953年3月31日 - )は、落語家上方噺家)。本名: 田中登。上方落語協会会員(2007年1月現在、理事・会誌『んなあほな』編集長)。出囃子は「鞠と殿様」または「月光仮面」。

来歴・人物

東西落語界唯一の河内音頭取り。和歌山県芸能県人会「ワ!つれもていこらーズ」のメンバー。好角家として知られ、元横綱、元大関小錦や元幕内敷島などと交流があり、断髪式でも鋏を入れたこともある。

相撲甚句を得意とする。特に維新力浩司と親しく、仲人も務めた。アマチュア相撲四股名は「玉双津」(たまふたつ)。

丸々とした体格に愛嬌のある人柄で、若手の頃から人気者として活躍した。吉本興業所属時代には、関西ローカルのテレビ番組にも多数出演。「トホホー」や「ター」の決め台詞は、お茶の間でもおなじみだった。

しかし、吉本に無断で余興の営業に出演したことからトラブルに発展、吉本との契約を解消することになってしまう。吉本からの独立後は、マスコミへの出演度は格段に減少したが、音頭(河内音頭)取りや落語家としての活動は却って盛んである。そして2010年11月、兄弟子の6代桂文枝らの計らいで社長の大崎洋との面談を経て吉本に復帰した。現在は上方落語協会の牽引役として、表舞台と裏方の両方で活躍している。また協会の機関紙「んなあほな」には四コマ漫画を掲載している。

感情の起伏が激しく、本来ならば怒るべきところをにこやかにやり過ごすこともあれば、些細なことで突然キレることも少なくない。弟子の茶がま曰く「どこでキレるか解らない」性格であるという。また、相手が自分よりも明らかに知名度が高い相手に対して極度に緊張してしまう癖があり、パニックで何を言っているかわからなくなり、まともに会話が成立しなくなる状態に陥るという一面も持っている。

髪型は尊敬する初代林家三平に模している。前髪は金髪にしている。

経歴

受賞歴

役職

(上記以外のもの)

弟子

得意ネタ

  • 相撲場風景
  • 花筏
  • 大安売り
  • ラーメンビジネス最前線
  • お笑い民謡教室 など

エピソード

  • 中学時代は相撲部、高校時代は美術部から柔道部に転部した。
  • 内弟子時代、師匠宅の来客にコーラと間違えて、素麺の汁を出した。その時、素麺の汁はコーラの瓶に入っていたとのこと。
  • 内弟子時代、師匠宅で弟弟子の桂小枝(当時、枝織)と留守番をしていたとき、大鍋いっぱいに炊かれていた善哉に気付き、2人でちょっとだけと言いながら味見をした。気付けば善哉はほとんど無くなっており、慌てて水と砂糖を入れ、醤油で色を付けて炊き直して難を逃れた。
  • 師匠宅の天井をぶち抜いたことがある。
  • 髪型はパンチパーマであったが一時、相撲以外にも好きなプロレスラーに憧れて後ろ髪を伸ばしていた。最近は前髪を金髪にしている。
  • 地元・和歌山粉河出身の桂文左衛門の二代目を襲名したいと師匠・桂文枝に申し出たところ「ドアホ!」と一喝された。

関連項目

著書

  • 丸い土俵と四角い座ぶとん(浪速社)
  • 桂文福の笑いと涙の勝ち名のり(六法出版社)
  • 文福の楽屋ほのぼの噺(浪速社)
  • 桂文福のふるさと落語紀行(浪速社)


出典

外部リンク

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