桂小金治

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桂 小金治(かつら こきんじ)は落語家の名前。当代は2代目。

2代目桂小文治の門弟に与えられる名前である。


テンプレート:ActorActress 2代目桂 小金治かつら こきんじ1926年大正15年〉10月6日 - )は、東京府豊多摩郡杉並町(現:東京都杉並区)出身の落語家俳優タレント。本名、田辺 幹男(たなべ みきお)。

桂小金治事務所所属。帝京商業学校(現:帝京大学高等学校)卒業。現在は目黒区下目黒在住。俳優の山岸快は孫である。

概要

1947年2代目桂小文治に入門して落語家となる。

次代の名人候補として将来を嘱望されたが、川島雄三の要請で映画俳優に転身。昭和中期から映画テレビドラマバラエティ番組に数多く出演し、ことにワイドショーの名司会者として名を馳せた。

平成以降は放送メディアに登場する機会は少ないが、全国各地で講演活動を展開しており、落語を口演する機会もあった。江戸前の歯切れの良い滑舌で、高座では古き良き時代の江戸落語を聴かせていた。

年譜

人物

  • 保守的な政治思想の持ち主として有名であり、「天皇陛下は日本のお父さんだ。天皇陛下が嫌いな奴は日本から出て行け!」と日本テレビのワイドショーで発言したことがある。
  • 趣味は草笛ハーモニカ
  • 一念発起は誰でもする。努力までならみんなする。そこから一歩抜き出るためには、努力の上に辛抱という棒を立てろ。この棒に花が咲く」という名言がある。もともとこれは、草笛の練習をしていた当時10歳の小金治が、いくらやっても鳴らないので練習3日目にして草笛をあきらめようとした時、父親からかけられた言葉である。
  • 自由民主党衆議院議員だった渡辺美智雄と親しかった。

落語家

芸名の通りもともと落語家であったが、その後長らく俳優司会者タレントとしての活動が続き、落語家としては開店休業状態だったが、1980年代初頭、2000年代から2011年までは落語家としても活動していた(後述する理由からフリーの落語家として活動)。

入門時

陸軍特別幹部候補生だったが、終戦。金もなく、着物を着てできる職業ということで落語家を選んだ。

落語家になるために新宿末廣亭の楽屋に通い、誰にも入門できないまま、前座(のちの5代目春風亭柳昇)の下でさらに下働きをしていた。落語家は前座の弟子を食べさせる義務があるが、食糧事情が悪すぎるため、前座一人分の食糧を捻出できる落語家がほとんどいなかったのである。しかしよく働く小金治の姿に、当時の日本芸術協会副会長・2代目桂小文治が目をつけ、小文治のほうから入門をもちかけた。小文治はもともと上方噺家であり、常に関西弁のみをしゃべるため(そのため、普通の入門志願者から敬遠され、どこかで挫折した、訳ありの落語家を後から自分の門下にすることが多かった)、入門を躊躇したが、副会長の権勢は傍目にもすごいように見え、入門を決意した。小文治よりもらった初名(前座名)は桂 小竹

小文治は「噺はよそ行って習うて来い。わしからは芸人としての生き方だけ覚えていったらええのや」と言い、小金治にいっさい稽古をつけなかった。小金治は生粋の江戸っ子、それも魚屋の倅である。もし稽古をつけていたらせっかくの江戸らしさが失われていただろう。

松竹入社

二つ目になった後、松竹大船撮影所川島雄三監督に抜擢され、一本目の映画『こんな私じゃなかったに』に出演。拘束時間1日、ギャラ5千円だった。映画は好評で、川島により起用され続け、単発契約で何本か出演した。

それらも好評で、川島の所属する松竹は小金治と専属契約を結びたいと考え、小金治に対して映画出演一本あたりのギャラを提示した。そのとき松竹は片手の指5本を開いて示した。もともと映画一本のギャラが5千円という約束だったので、小金治は当初これを「5円」と解釈し自分の一月の稼ぎより多いと考えていたら、実は「5円」という意味だったので驚喜した。ちなみにこのときの条件は「年間6本の出演義務」であった(よって年収30万円)。念のため、師匠の小文治に「契約したほうがいいか断るべきか」を聞きにいったら、即座に「アホ! 落語やってたら、そんな金、一生かかってもようもらえんで…」と返されたという。結果、松竹との専属契約は無事締結された。

今度はいずれも軽い役でなく、長い日数拘束される。スケジュール上なかなか寄席に出られないことから、日本芸術協会から事実上脱会状態となった。以降、フリーの落語家となり、落語家としてはどこの協会にも属していない。しかし師弟関係を大事にし、小金治は終生にわたり小文治を師匠と仰いだ。小金治が名を返そうと小文治のもとを訪問すると「アホ! 師匠に『名を返す』なんてお前いつから偉くなったんじゃ? 師匠が名を取り上げるのでもあるまいに…。小金治、これからもしっかりやりや」と、師は小金治に名を返上しなくていいと告げた。そのため、落語家としての名も返上していない。

松竹時代の川島雄三監督は長く小金治を起用し続けた。しかし、1954年に川島が日活に単身移籍し、コンビを解消。だが、その川島が今度は東京映画東宝系)に移ると、小金治も1959年、東宝に移籍し、再びコンビを組み活躍。

1961年、今度は小金治が日活に単身移籍し、コンビを解消。その日活ではスターとして迎えられ、1962年から1963年にかけて4本の主演作を残している。他は脇役が多く、その日活には1965年まで在籍。そこの大部屋俳優・桂小かんは(俳優としての)弟子である。

「師匠」

上述したように、小金治は落語界では真打になっていないので、本来のしきたりから言えば小金治を「師匠」と呼ぶことはできない。しかし、テレビですっかり大看板となった小金治は、芸能人仲間からよく「師匠」と呼ばれるようになる。どうしたらいいのか師匠・小文治に聞きに行った小金治に対し、小文治は「小金治が師匠と呼ばれて何がおかしいのか…」と諭した。よって、晴れて「師匠」と呼ばれて良い許可をもらったのである。

高座

2000年代は『大工調べ』『禁酒番屋』『三方一両損』『芝浜』などの演目を演じた。

小金治が映画界入りしてから上がった高座は次の通り。

以降、17年間完全に沈黙。

以降、国立演芸場横浜にぎわい座などを借り切って独演会形式で活動を再開。また、既設の名人会に呼ばれることもあった。

CD・LP・カセット

1983年の「本多寄席」の高座は、ソニー・ミュージック京須偕充によりLP化(CD化)されている。

2004年7月19日「神田伯龍・桂小金治二人会」と2006年5月30日の独演会は、以下の通りCD化されている。

末広演芸会

テレビ朝日テレビ番組『末広演芸会』の司会を務めた。落語はしなかったものの、収録会場の新宿末廣亭には定期的に足を運び続けていたのである。

エピソード

  • 小金治は「5代目柳家小さんの弟子」と自ら名乗っている。これは以下の経緯によるものである。前座だった小金治は、ひょんなことから真打になったばかりの小さんの高座を観た。小金治は「なんとこの人はうまいのだろう」と驚き、小さんから稽古をつけてもらうべく、すぐさま師匠・小文治に頼んだ。失礼な頼みであるが、上方落語の小文治は「東京出身の落語家は東京の落語をやるべき」との思いから、弟子には自ら稽古を付けなかったため、弟子が他の落語家から正統江戸落語を教わるのは良いことと考え、すぐさま自ら小さん宅に電話をかけ、小金治への稽古を依頼した。若き小さんにとって小金治は「最初に落語を教えた人」である。正式な師弟関係がなくても、小金治が「小さんの弟子」と名乗るのはこのような事情である。
  • 前座の小金治が、いつものように5代目柳家小さんの自宅に赴き、落語を習っていた。稽古が終わると、戦後まもない食糧事情の悪いころなのに、小さんはいつも白いご飯を食べさせてくれた。「さすが売れっ子(=小さん)は違うな」などと小金治は思いこんでいた。ある日の稽古後、小さん家を辞した小金治が、忘れ物をしたことに気づいて再度小さんの家に戻ると、家族4人で食卓を囲んでいたのが見えた。「さぞかしうまいものを食べているに違いない」と覗き込んで小金治は驚いた。小さん一家は、一個の芋を4人で分け合って食べていたのだ。若き小金治が師匠・小文治に泣きながらこのことを話すと、小文治は「柳家小三治(小さん)はお前に落語を教えようとしているんじゃない。落語を後世に残そうとしているんだ」と言った(テレビ朝日『徹子の部屋2003年10月6日放送「小金治 涙・小さん夫妻の銀シャリ」)。
  • 映画のギャラについて諭し、小金治を映画界に転身させた師匠・小文治だが、もともとは「銭残す暇があったら噺残せ」と小金治に教えていた。その反面、「金を残しいや。金がないと馬鹿にされるさかいな」という言葉も残している。
  • 落語家としての腕はたしかなもので、後輩である7代目立川談志からの評価も極めて高い。談志は、自著『人生、成り行き』(2008年、新潮社、聞き手:吉川潮)の中で「小金治は上手いと思いました。(中略)やはり小金治さんだな。軽くて、うまくて、人気もあったから、扱いもよくて若手なのに寄席でもいいところに上がってましたよ」「軽くていい口調で、親しみやすい顔で、声もおれみたいに悪くなくて中音でよくて」「だから、最近の話ですが、俺は小金治さん本人に言ったんです。(中略)小金治さんにしても、映画界に行かないで、残っていてくれたら少なくも落語芸術協会はいまの惨状にはなってませんよ。金のために映画に走ったっていいし、引き止められなかった落語界も勿論悪いんだけれど、芸風やあの強情な性格から言って、啖呵なら啖呵はこうだと、崩すことを許さず、きちんとした古典落語を伝えていけたのに、兄さん責任あるよって、直に言いましたよ」と、談志流に小金治を称賛している。
  • 次男がニューヨークに住んでいたこともあり、1980年代後半からニューヨークを頻繁に訪問し、現地の日系人会のお年寄りを対象に「人の心に花一輪」という題名の講演会を行っている。また、ボランティア活動も積極的に行っている。

映画

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ほか多数

放送番組

テレビ番組

テレビドラマ

ラジオ番組

著書