根岸鎮衛

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根岸 鎮衛(ねぎし しずもり、やすもり)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本勘定奉行南町奉行を歴任した。

生涯

150俵取りの下級旗本の安生太左衛門定洪の3男として生まれた。江戸時代も中期を過ぎると御家人の資格は金銭で売買されるようになり、売買される御家人の資格を御家人株というが、宝暦8年(1758年)、同じく150俵取りの下級旗本根岸家の当主根岸衛規が30歳で実子も養子もないまま危篤に陥り、定洪は根岸家の御家人株を買収し、子の鎮衛を衛規の末期養子という体裁として、22歳の鎮衛に根岸家の家督を継がせた(御家人株の相場はその家の格式や借金の残高にも左右されるが、一般にかなり高額であるため鎮衛は定洪の実子ではなく、富裕な町家か豪農出身だという説もある)。

鎮衛は、根岸家の家督相続と同時に勘定所御勘定という中級幕吏となり、頭角をあらわし、5年後の宝暦13年(1763年)には評定所留役(評定所は現在の最高裁判所に相当し、留役はその予審の判事)となり、更に5年後の明和5年(1768年)には勘定組頭、10年後の安永5年(1776年)には42歳にして勘定吟味役につき、布衣を着ることを許される(六位相当)。

勘定吟味役在任時に河川改修、普請工事に才腕を振るい、日光東照宮の修復、浅間山噴火後の天明3年(1783年)に浅間山復興工事の巡検役に任命され、功績により翌4年(1784年)に佐渡奉行に昇格し、50俵加増となる。

天明6年(1786年)、田沼意次が失脚し松平定信老中首座となるが、この政変に巻き込まれることなく、定信により天明7年(1787年)7月に勘定奉行に抜擢され、家禄も200俵の蔵米取りから500石取りとなった。更に寛政10年(1798年)には累進し南町奉行となり、文化12年(1815年)まで18年の長年にわたって在職し、死去直前にも加増され、最終的に1000石の旗本となった。在職中の11月4日に死去したが、5日後の11月9日と公表された。

墓所は麻布市兵衛町(現在の東京都港区六本木)の善学寺。また、神奈川県相模原市(旧相模湖町)にも鎮衛の父定洪の生家一族が守る鎮衛の墓石が存在する。

人物・著作

鎮衛の著作として有名な『耳袋耳嚢)』は、鎮衛が佐渡奉行在任中の天明5年(1785年)頃から亡くなる直前まで30年以上に亘って書き溜めた世間話の随筆集である。同僚や古老から聞き取った珍談・奇談が記録され、全10巻1000編もの膨大な量に及ぶ。内容は、公方から町人層まで身分を問わず様々な人々についての事柄などについてである。岩波文庫全3巻、平凡社東洋文庫および平凡社ライブラリー全2巻で出されている。

下級幕吏出身のくだけた人物で、大岡忠相遠山景元とはまた違った意味で講談で注目を集め、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」シリーズをはじめ、小説・テレビ時代劇で題材とされている。登場する際、「遠山の金さん」よろしく刺青をしていたとするものがある。

南町奉行在任中に窃盗事件を担当した時、犯人は自白しなかったが証言者や証拠が揃っていたため、自白を決定的な証拠とする公事方御定書に拠らず犯人を死刑とした。文化2年(1805年)に町火消し鳶職と相撲力士達の乱闘事件(め組の喧嘩)も裁き、張本人だけ厳罰に処して残りを軽罪・無罪とするなど前例に拠らず現実的な対処を重視する姿勢が伺える。但し、窃盗事件の対処については、老中から今後は繰り返さないようにとの注意を受けている。

年譜

子孫

鎮衛の加増後は旗本として幕末に至った。また衛恭の弟(鎮衛の孫)に後述のテレビ時代劇主人公と同名の求馬という人物がいる。曾孫の衛奮は『柳営補任』の編者でもある。

参考文献

関連項目

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