柴栄

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テンプレート:基礎情報 中国君主 柴 栄(さい えい)は、五代後周の第2代皇帝。五代で随一の名君とされる。

即位まで

祖父は柴翁(は不詳)で、実父の柴守札(字は克譲)は郭威(太祖)の皇后・柴氏の弟である。柴氏は郭威と同郷の(けいしゅう)出身で、郭威の即位前より内助の功を発揮し、その覇業を助けたと言う。柴氏は郭威の即位前に死去し、即位後に郭威がその死を惜しんで皇后を追贈した。

柴栄は幼い頃より伯母の嫁ぎ先である郭威の家で養われ、後晋末に郭威の養子となっていた。郭威が権力を獲得していく戦いの中で柴栄も助力し、郭威が後漢枢密使・天雄軍節度使となると、柴栄も郭威の下で天雄軍牙軍(親衛隊)の総指揮官となり、郭威が後漢に対してクーデターを起こして開封へと侵攻した際には、根拠地である魏州の防衛を任された。郭威が即位して周を建てると、州(現在の河北省濮陽県)節度使とされる。

郭威の一族は後漢の隠帝に殺害されていたこともあり、954年に郭威が没すると後継者に指名されて即位することとなった。

国内改革

即位後、郭威が死んだ隙を突いて、北漢契丹の援軍を得て侵攻してきた。両軍は沢州高平(現在の山西省晋城県)で激突、序盤で自軍の一部が北漢に降り窮地に陥る。しかし、世宗自ら矢石を冒して督戦し、将軍趙匡胤の奮戦によって押し返し、北漢軍を撃破、逆に北漢の首都・太原を包囲した。この戦いでは北漢を滅ぼすまでは至らずに退却する。

節度使は、大きな軍事力、支配地に対する行政・財政権(軍民財の三権)を兼ねて持ち、軍閥化して独立・割拠の傾向が強く、五代を通じて戦乱の大きな原因となっていた。また後唐明宗の時に禁軍として侍衛司が整備されていたが、歴代の皇帝がこれを優遇しすぎたために、恩賞が約束されないと戦わない驕兵となっており、再編成のための老兵の解雇さえ困難だった。対して、柴栄は新たに殿前軍を編成し、節度使の配下から優秀な兵士を引き抜いて殿前軍に組み入れ、その指揮権を皇帝のみが持つようにした。こうして節度使の弱体化と禁軍の強化=皇帝権力の強化が達成された。

また廃仏令を出し、仏教勢力の力を弱め、法難と仏教側からは非難された(三武一宗の廃仏の4回目)。しかし、それまでの廃仏で多かれ少なかれ仏教と対抗する道教側からの示唆・介入があったのに対して、柴栄の廃仏は純粋に経済・国家統制上の観点からのものであり、税・兵役忌避を目的とした出家や資産の寺院への流出の防止、仏教勢力からの権益の獲得を狙いとした。これらによって増えた税収と没収財産は、軍事再編成の費用に当てられた。

また、の私有を禁じる法令を出した。これは当時の貨幣である銅貨を鋳造するためのものであり、当時は貨幣経済の発達と五代十国の分裂による銅生産地との断絶で、大幅に銅が不足していたからである。また廃仏令の一環として銅製の仏像を没収し、これも銅貨に鋳造しなおした。

さらに郭威以来の方針を受け継ぎ、租税の軽減や農村の復興を行なった。また、大周刑統という国法を定めている。

統一事業

これらの蓄積を元に、柴栄は滅亡以来の統一を目指して奔走する。955年、初めに四川後蜀を攻めて秦州(現甘粛省天水)を初めとする4州を奪った。

さらに同年の冬から、十国のうちでの最強国である南唐を攻める。南唐も激しく抵抗し、この戦いは3年にわたるが、958年に君主の李璟は降伏し、和睦の代償として南唐の長江以北の領土の割譲や、後周に対して南唐は皇帝号を廃して国主と名乗るなどといった条件を取り決めた。この淮河から長江に至る地域は、中国でも最大のの産地が含まれており、南唐の高い経済力はこの地があればこそと言っても過言ではなく、この地の占領はまさに南唐の生殺与奪権を握ったと同義であった。以後、南唐では自国内の塩の供給をまかなうことが出来ず、逆に後周から毎年30万石(17,800キロリットル)の援助を受けるようになる。

南唐を抑えた柴栄は、次に軍事的に最強の敵である北の契丹とその衛星国である北漢を相手取り、959年に燕雲十六州のうち、南寄りの2州を奪取した。

さらに軍を北上させようと幽州へと入るが、柴栄はこの陣中で病に倒れ、開封へ引き返し、間もなく死去した。享年39。

宋へ

柴栄の後を継いだのはわずか7歳の息子・柴宗訓であった。しかし五代の先例に漏れず、すぐに軍内の兵士たちによる実力者擁立の動きが出てくる。それが柴栄に最も信頼された殿前都点検・趙匡胤である。軍部の推戴を受けた趙匡胤は柴宗訓より禅譲を受け、北宋を建てる。

殺伐とした戦乱の時代である五代十国時代では、前王朝の皇帝は殺されるのが通例であったが、柴宗訓は手厚く保護され、柴氏は南宋の滅亡まで実に400年の間、勅命により優遇された。

子女

  1. 越王 柴宗誼
  2. (早世のため不詳)
  3. (早世のため不詳)
  4. 梁王 柴宗訓(後周恭帝)
  5. 曹王 柴熙譲
  6. 紀王 柴熙謹
  7. 柴熙誨

元号

参考文献

関連項目

先代:
太祖
後周帝王
第2代:954年 - 959年
次代:
恭帝