松野行秀

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テンプレート:Infobox プロレスラー 松野 行秀 (まつの ゆきひで、1961年4月18日 - )は、日本タレントプロレスラーである。芸名・リングネームは「ゴージャス松野」。元妻は、自らがマネージャーを務めていた女優・沢田亜矢子

プロフィール

福島県福島市飯坂温泉置屋の子に生まれる。福島県立福島高等学校を経て、日本大学経済学部卒業。日大在籍中には劇団テアトロ<海>に所属していた[1]。血液型A型。

マネージャー時代

  • 1986年、大学を卒業し東宝芸能に入社。
  • 1993年、同社の芸能部マネージャーになり、沢口靖子斉藤由貴などを担当する。東宝では最終的にチーフマネージャーの役職に就いていた[2]
  • 1993年-1995年シングルマザーとして芸能界で孤立していた女優の沢田亜矢子より、事務所移籍についての相談を受ける。自らの勤務する東宝芸能に沢田の移籍を打診するが難色を示されたため、移籍先が決まるまで無報酬(実質的にボランティア)で沢田のマネージメントを請け負う。
  • 1995年、マネージメントを通じて仲を深めた沢田と同年5月29日に入籍。同時に古巣の東宝芸能を退社し、沢田の個人事務所を設立。社長兼マネージャーに就任した。
  • 1997年12月、沢田との離婚確執報道が流れる。「離婚したい」という沢田と「理由が分からない」という松野の対立が明らかに。
  • 1998年1月、沢田が離婚問題についての記者会見を行い、「髪の毛を掴んで引きずり回された。」「生き地獄だった」と松野からのDVを受けたと主張。松野側は「事実無根」と反論したが、ワイドショーで連日報道され、一躍時の人となった。
  • 1999年9月、地方裁判所で審議が始まる。先ごろの沢田の証言で話は夫婦の性生活にまで及ぶ泥沼ぶりを見せ、夫婦のセックスビデオの存在まで明らかになった。
  • 2000年2月、東京地裁の判決確定。裁判長は「離婚を認める。訴訟費用は被告(松野)が負担する」と述べ、沢田の訴えを認めた。判決理由もなく、わずか20秒のあっけないものだった。その後、「地裁では提出しなかったが、次の高裁では手元にある沢田のセックスビデオ4本を証拠として出す」と松野は断言した。
  • 2000年9月、松野の高等裁判所での敗訴が確定する。しかし判決文において沢田が離婚の理由としていた「妻・子供への暴力」「会社の資金横領」などは証拠がないと否定された。
  • 2001年3月、裁判での離婚が正式に成立。松野は「離婚について異論は無い」としつつも、「(家庭内暴力など)事実無根の誹謗による精神的苦痛に対して3000万円の慰謝料を請求する」と東京地裁に書面を提出した。両者の話し合いによって示談に終わる。

タレント・プロレスラー時代

マネージャーとしての生命を断たれた松野は整形してホストクラブ「愛」などに勤めたり、露天で人生相談をしながら日本を巡業したり、AV男優になったり、司法試験を受けて落ちたり(合格点が42点付近の所、31点を得点した)と、身を切って様々な話題を提供しては芸能界に露出したことから「さらし者系芸能人」と評された。

その路線から基本的に一過性のものが多かったが、プロレスについては長く続けている。プロレスデビューに際してある番組で大仁田厚がコメンテーターとして共演したところ、大仁田にブチ切れられ、椅子を投げつけられるなどしている。慣れない格闘技に当初は1試合1試合ごとに相当のダメージを負っていたが、戦いを重ねるごとに(若干ではあるが)体格がよくなってきている。しかしそれでも試合終了後にはかなりダメージを負っている。

また、時折テレビにもタレントとして出ることがあり、TBS系列のテレビ番組「サンデージャポン」にて、自称「スーパーフリージャーナリスト」として、話題の現場に突撃取材を「敢行」。記者会見では質問を行うたびに「TBSサンデージャポンスーパーフリージャーナリストのゴージャス松野ですが……」と名乗ることで自らの存在をアピールしている。

2002年には演歌歌手霊媒師であり、同郷の田代純子と婚約を発表。2014年現在まで結婚・同居ともにしていないが、「相棒」と呼ぶなど良きパートナーの関係である、としている。またDDTの福島大会ではデュエットを行っている。[3]

2004年に政治家の年金未納問題が大問題に発展した時、都内のホテルを借り切って、梨元勝などの芸能リポーターをわざわざ集め、自らの国民年金が未納だったことを告白。涙ながらに「国民の皆様に多大なご迷惑をおかけしたことを深くおわびします。」と弁明するVTRが「サンデージャポン」に届き、司会の太田光は「何も迷惑かかってませんからね」と呆れ気味に一蹴した。

プロレスでは2001年11月4日、IWA・JAPANに「ゴージャス松野」として参加。タイガー・ジェット・シンマネージャーを務めた。選手としてのデビューは2002年10月1日、vs浅野起州三宅綾ザ・グレート・カブキ組(パートナーはタイガー・ジェット・シン、YUJI KITO)。

2004年からはDDTに所属、度々笑いの神が降臨したかのような動きを見せる。

2008年、DDTの「コミッショナー」に就任[4]。しかし、この頃より実家との確執やプロレスの試合中に喉へ受けた攻撃のために声が出にくくなりうつ病の症状が出、入退院を繰り返すようになる。

11月3日、福島市内の飲食店で倒れ入院した。一時心肺停止状態となり、心臓マッサージおよび気管切開により一命を取り留めた。同15日には一時退院し、東京都杉並区高円寺ライブハウスのイベントに出席した[5]うつ病の治療のため薬を常飲していたが、そこへ加えてアルコールを摂取したため、肝不全を起こしたという[6][7]

それ以降レスラーとしては療養中とされていたが、2010年の興行ではたびたび会場に姿を現し、レスラーとしての復帰への意欲を見せる。その後、2011年5月4日の興行でMIKAMIとのタッグチームで約3年半ぶりに復帰。

3月に地元・福島を襲った東日本大震災と、その後7月に起こった父親の死去をきっかけに、曹洞宗の寺院で読経・礼拝・座禅の修行を開始すると、うつ病の症状も改善。2012年3月には在家得度僧侶に。「覚念行秀(かくねんぎょうしゅう)」の戒名を得た[7][8]

2012年で自身のプロレスデビューから10周年を迎える。11月に記念興行「東日本大震災復興イベント〜がんばろう福島〜ゴージャス松野10周年記念ゴージャスナイト」を福島市国体記念体育館サブアリーナで開催し、メインイベントにて勝利を収めた[9]

2013年は福島体育館で興行を開催しメインイベントで勝利した。さらにDRAGON GATEGamma福島凱旋興行にも参戦、ストーカー市川とのシングルマッチで勝利を収めている。

得意技

獲得タイトル

入場曲

  • 「SWATのテーマ」リズム・ヘリテッジ(「探検隊シリーズ」オープニングテーマのパロディ。ナレーターは本物と同じ田中信夫。これまでの挑戦を語っている)

作品

CD

  • 心酔わせて(2000年) - 田代純子とのデュエット。
  • インドの狂える虎 タイガー・ジェット・シン 愛が地球を救うのだ(2002年) - タイガー・ジェット・シンがIWA・JAPAN参戦時に発売したアルバム。浅野起州とともにゲスト参加。

書籍

  • 福島県飯坂温泉置屋千代本三代目―ゴージャス松野の奮闘記(2002年 ISBN 978-4944214228)
  • 身をさらしてこそ浮かぶ瀬もあれ(2004年 ISBN 978-4845407392)

アダルトビデオ

  • 松野行秀の堕落論(2002年、宇宙企画) - 川奈まり子と共演。
  • 松野行秀の風俗×××(2002年、宇宙企画)

Vシネマ

脚注

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外部リンク

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  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. ゴージャス松野、一時心肺機能停止していた(サンケイスポーツ、2008年11月12日) - 同16日閲覧
  6. テンプレート:Cite web
  7. 7.0 7.1 テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web