松永貞徳

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松永貞徳(まつなが ていとく、元亀2年(1571年) - 承応2年11月15日1654年1月3日))は、江戸時代前期の俳人歌人・歌学者。

経歴

父は松永永種で、母は藤原惺窩の姉。永種は入江氏の出(入江政重の子)とも、松永久秀の子とも言われる。子は朱子学者の松永尺五。名は勝熊、別号は長頭丸(ちょうずまる)・逍遊軒(しょうゆうけん)・延陀丸(えんだまる)・保童坊・松友など。他に五条の翁・花咲の翁とも称し、明心居士の号もある。出身は京都。連歌師里村紹巴から連歌を、九条稙通細川幽斎から和歌歌学を学び、20歳頃に豊臣秀吉右筆となったが、元和元年(1615年)私塾を開いて俳諧の指導に当たった。家集に『逍遊集』、著作に『新増犬筑波集』『俳諧御傘』などがある。

俳諧は連歌・和歌への入門段階にあると考え、俗語・漢語などの俳言(はいごん)を用いるべきと主張した。貞徳の俳風は言語遊戯の域を脱しないが、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。墓所は、京都市南区の上鳥羽実相寺

関連項目