松本暢章

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テンプレート:基礎情報 アナウンサー 松本 暢章(まつもと のぶあき、1931年8月10日 - 1998年3月14日)は、元:関西テレビ放送アナウンサーである。

登校拒否・不登校問題全国協議会の代表者・松本弘義は実兄。

来歴・人物

大阪・天王寺中学(現:大阪府立天王寺高等学校)時代には中等学校野球大会にも出場した「元・球児」(学制改正により卒業は大阪府立夕陽丘高校)。関西学院大学在籍時に神戸放送(現:ラジオ関西)パーソナリティとして活躍。卒業後の1958年に関西テレビへ入社し、スポーツ中継を担当した。

1964年東京オリンピックでは、民放選抜アナウンサーの1人として実況を担当。競泳の最終種目である男子800mリレー決勝のテレビ中継では、日本競泳陣唯一のメダル獲得(銅メダル)の瞬間を伝えた。また、シンザン戦後初の三冠達成(1964年)や、阪神タイガース21年ぶりのリーグ優勝の実況(1985年)なども担当。1967年阪神大賞典で、レース中にダービーキーストンの故障(予後不良)という悲劇に遭遇しながら、涙声で実況を続けたことでも知られている。

同じ関西学院大学の後輩にあたる杉本清にアナウンサー試験を受験させ(結果合格し1961年に入社。1965年より競馬を担当する)、1969年以降は桜花賞天皇賞(春)、それに菊花賞といった大レースを含むメイン実況の座を杉本に譲ることとなったが、その後も司会やコメンテーターとして同局の競馬中継に出演し、競馬博士として親しまれた。

関西テレビではアナウンス部長などを歴任。1969年に中途採用で入社した部下の桑原征平(同局アナウンサーを経て現在はフリーアナウンサー大阪芸術大学教授)からは、「まっちゃん先生」の名で慕われていた。1998年3月14日に66歳で逝去。

担当していた番組