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'''松山 主水'''(まつやま もんど、? - [[1635年]]([[寛永]]12年)10月)は[[江戸時代]]初期の武芸者、[[剣客]]。[[二階堂平法]]の道統者であり、「心の一方」の使い手として知られる。名は大吉(だいきち)。源之丞とも。 <!-- == 主水の出自 == [[美濃国|美濃]]の国人松山氏の出身。大吉の祖父はやはり主水といい、[[竹中重治]]とともに[[西美濃十八将]]の一人に数えられる[[松山正定|松山刑部正定]]の一族である。祖父主水は竹中重治の母方の従兄弟にあたり、半兵衛の旗本として軍功があった。[[三木城]]攻めで半兵衛が死ぬと[[木村重茲]]に仕えたが、主従不和により浪人、木村から奉公構えに処されて各地を放浪した。後に[[豊臣秀吉]]の斡旋で処分を解かれ、[[加藤清正]]に仕えた。清正に従って[[文禄・慶長の役|朝鮮役]]に従軍し功があったとされるが、再び浪人して鎌倉に隠棲したとされる。主水の子、主膳は2子を残して早世し、兄が大蔵、弟が本項の大吉である。 *竹中半兵衛云々から清正に仕えたまでは、故綿谷氏が黒田家臣の杉山主水を松山姓と勘違いして書かれたもので、本人の恥にもなるから広めてもらっては困ります。ご本人の著書に杉と松を「貝原益軒(黒田家臣伝の著者)はん、間違ったんやろ」という軽いのりで書かれていますが、黒田家臣の杉山家は子孫もおり、真っ赤な別人です。故笹間良彦さんも辞典類にこの誤りをそのまま書いて広めていますが、ちゃんと原本を読みましょうね。 --> == 二階堂平法と「心の一方」 == 祖父主水は父祖から伝わる二階堂流剣術を発展させて二階堂平法を創始したという。二階堂流は、[[鎌倉幕府]]の[[評定衆]]で美濃[[稲葉山城|稲葉城主]]であった二階堂氏が[[中条流]]を学んで開いたとも、また一説には[[念流]]の祖、[[念阿弥慈恩]]の門人である二階堂右馬助が興したともいわれている。二階堂平法は、初伝を「一文字」、中伝を「八文字」、奥伝を「十文字」とし、これら「一」「八」「十」の各文字を組み合わせた「平」の字をもって平法と称した。 また、奥伝以外に「心の一方」あるいは「すくみの術」の秘術があり、いまでいう瞬間[[催眠術]]のようなものであったらしい。この術にかかった者は、金縛りにあったように身動きができなくなったという。主水大吉は、12歳のときから祖父主水に師事し、これら秘伝のことごとくを伝授された。 == 細川家召し抱え == 寛永6年([[1629年]])ごろ、主水は江戸で細川家に召し抱えられる。[[細川忠利]]に剣を指南し、御鉄砲頭衆として500石を給された。忠利は本来、[[柳生宗矩]]の門人であるが、主水の手ほどきを受けるようになって急速に上達し、但馬守と試合してもときに勝ちを取るほどになった。宗矩は「なぜ急に剣術巧者になったのか」と首を傾げたという。また、忠利が[[江戸城]]へ登るとき、主水が行列の先頭に立つと、「心の一方」の術により、どんなに混雑していても渋滞なく進むことができた。主水が左手のひらを下向きに前に突き出すと、行列が進む先を横切ろうとする者はその手前で動けなくなり、遠くから走ってくる者がいると、足を取られたようにひっくり返ってしまったという。 == 熊本入部と主水の最期 == 寛永9年([[1632年]])、忠利の[[熊本藩|熊本]]入部に際して、主水は1000石に加増され、道場を構えて藩士の養成もするようになった。このころ、細川家は改易された加藤家の浪人を受け入れており、豪傑と知られた荘林十兵衛もそのひとりで、忠利の父、三斎([[細川忠興]])付きの家臣となっている。 主水は、ふるまいに傍若無人なところがあったといわれる。「心の一方」で恐れられたことの反感もあったと考えられる。一方、忠利は父三斎と折り合いが悪く、三斎は[[八代]]に別居しており、家臣団もまたそれぞれに分かれての確執があった。このため、しばしば小紛争が起こり、[[大坂]]から船路をとって帰国するときなど、忠利と三斎は別々の船に乗ったが、反目する家臣達がそれぞれの船から挑発することも希ではなかった。あるときこのような船路の途中、主水はいつのまにか三斎側の船に乗り移り、下駄を片手に当たるを幸い殴りつけ、気のすむまで暴れたあげく、もとの船に飛び移った。忠利もさすがに「主水、やりすぎだぞ。」と叱責したが、三斎はこのことに激怒し、主水の暗殺を命じた。 これを知った忠利は、主水を光円寺にかくまった。一説には、三斎に対して主水を謝罪に向かわせるためであったともいう。しかし、寛永12年(1635年)10月、主水は光円寺で折悪しく病臥中のところを、三斎の命を受けた荘林十兵衛によって暗殺されてしまう。十兵衛は小姓の後から付いてきて、いきなり布団の上から主水を刺したという。主水は「卑怯っ」と叫んで、手ぬぐいで胴をくくって枕刀を手にするが、立ち上がることができなかった。十兵衛も動転して庭に面した手水鉢の水を飲もうとするところ、小姓が後ろから斬りつけ、たまらず庭に転がり落ちたところを二の太刀を受けて落命した。これを見届けた主水は「でかした」と笑って息絶えたという。主水の墓はないが、光円寺に五輪の塔が建てられたという。荘林十兵衛の墓は八代盛光寺に現存する。 主水の死後、小姓(桑田慎之介とも)も荘林側の手の者に探し出されて殺され、荘林の子、半十郎も翌寛永13年(1636年)7月に槍で突き殺された。下手人は不明のままであった。事態を重く見た忠利と三斎は、直接対面して当面の収拾を図った。 == 主水の高弟 == 松山主水の高弟に[[村上吉之丞]]がいる。忠利と共に「八文字」の伝を授かったが、主水の死によって奥伝「十文字」は伝えられなかった。一説には、吉之丞はその性粗暴であり、主水はあえて奥伝を伝えなかったともいわれる。しかし、それでも吉之丞は抜群に強かったらしく、細川家に仕官を求めた[[宮本武蔵]]に試合を挑んだところ、武蔵は恐れて逃げたという逸話が伝えられている。 == 松山主水の登場する作品 == === 漫画 === *「柳生一族と闘った男 血闘者 竜之巻・鬼之巻」([[武本サブロー]]) *「真田剣流」「風魔」([[白土三平]]) == 参考書籍 == *『日本剣豪100選』([[綿谷雪]]著、[[秋田書店]]) {{デフォルトソート:まつやま もんと}} [[Category:剣客]] [[Category:熊本藩の人物]] [[Category:16世紀生]] [[Category:1635年没]]
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