松井石根

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テンプレート:基礎情報 軍人 松井 石根まつい いわね明治11年(1878年7月27日 - 昭和23年(1948年12月23日)は、日本陸軍軍人陸軍大将正三位勲一等功一級荒尾精の信奉者[1]として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯[2])を受け、処刑された。

生涯

出自

愛知県名古屋市牧野村出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。

在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。[3]

幼年学校卒業後、松井は順調に陸軍士官学校へと入学した。

陸軍士官学校(9期次席)卒業後、明治34年陸軍大学校に入学した。明治37年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。 この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった[3]。荒尾の思想の根底にあるのは、日中の強い提携である。欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。[4]

明治39年、陸大(18期首席)を卒業。松井は、前途を嘱望される逸材として、参謀本部への配属となり、一旦、フランスへと派遣された[3]

中国赴任時代~孫文、蒋介石を支援

明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである[3]

明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった[3]

松井は孫文大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた[3]。その後も中国国民党袁世凱打倒に協力した。

松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた[5]。田中首相は①この際、揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐は焦るなということ、 ②共産主義の蔓延を警戒し、防止せよということ、 ③この①②に対して日本は支援を惜しまないということこの三点を述べた。 最終的に二人のあいだで合意したのは、国民革命が成功し、中国統一が完成した暁には、日本はこれを承認すること。これに対して国民政府は、満洲における日本の地位と特殊権益を認めるーということであった[5]

松井の秘書田中正明によれば「松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蒋の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。」[5]

松井構想(蒋介石との連携)の破綻

ところが、昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蒋介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった[3]

同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した[3](この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。松井構想は音をたてて崩れ落ちた(田中正明の言)[5]

一方、蒋介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蒋介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。

大亜細亜協会の活動

蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。会員には近衛文麿広田弘毅小畑敏四郎本間雅晴鈴木貞一荒木貞夫本庄繁など、錚々たるメンバーであった。「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した[3]。当時の松井の考え方を下記に引用する[6]

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昭和9年(1934年)1月6日、大亜細亜協会台湾支部が設立され、松井は名誉顧問に就任。

同年8月、現役を退き、予備役へと入った。

蒋介石への不信

一方、米勢力におもねり、反日、排日の色を濃くする蒋介石の国民党政府に対しては、不信感を拭うことができなかった。加えてこの時期、中国共産党が華南地域に勢力を拡大していたが、この動きに歯止めをかけることのできない国民党について、松井は批判的な姿勢を強めていた。国民党政府が、リットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても、松井は不満を募らせた。当時、松井は次のように述べている。

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陸軍内部では統制派を中心に、「中国一撃論」が盛んに説かれるようになっていた。日本への敵対視を続ける中国側の動向は看過できず、それならば蒋介石政権の政治基盤が脆弱な今の内に、一気に叩いておこうという論である。国民党政府に対する不信を濃くする松井は、徐々に「中国一撃論」へと傾いていった[3]

西南の旅

昭和11年(1936年)2月3日、蒋介石との関係を取り戻すために、田中正明を伴って「西南の旅」に出発した[5]。広東・広西で胡漢民、陳済堂、李宗仁白崇禧ら西南派の指導者らと会談、さらに3月14日南京で蒋介石、何応欽張群らと会談している。蒋介石との会談は1時間半に及んだが、ほとんどが松井と蒋介石二人だけの押し問答に終わった。最後に二人は、孫文のアジア主義の遂行で互いに了解し合って別れた。しかし、別れぎわに蒋介石は松井に対し「今後は部下の張群と話をしてくれ」と失礼な言動をしたため、松井の顔が瞬間くもったという。(田中正明の言)[7]

同年12月12日、西安事件が勃発。捕えられた蒋介石は国共合作により抗日へと方針を180度転換した。ここに及んで、蒋介石と連携するという松井構想は完全に破綻した[5]

日中戦争(支那事変)の上海戦

昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争支那事変)勃発。同年7月29日通州事件、8月9日大山事件(上海)が発生。同年8月13日第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。8月20日上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて、20万の中国軍の待つ上海に向けて出港した。

参謀本部は戦闘を上海とその周辺地域だけに限定していたが、松井は2個師団ではなく5個師団で一気に蒋介石軍を叩き潰し、早く和平に持ち込むべきだと考えていた。8月23日上海派遣軍は上陸を開始したが、上陸作戦は難渋をきわめた。

11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行、これを成功させて、状況は日本軍に有利になってきた。しかし、第10軍は松井の指揮系統下にはなかった。11月12日上海は陥落したが、日本軍の死者は1万人近くに及んだ。

南京戦

松井は南京攻略を12月中旬頃と想定して兵を休息させていた。松井はトラウトマン工作を知っていてその成果を見るために、待機していたのではないかという見方もある[5][7]。ところが、11月19日第10軍は独断で(松井の指揮権を無視して)「南京攻略戦」を開始した。松井は制止しようとしたが間に合わず、第10軍の暴走を追認した。11月28日、参謀本部はついに南京攻略命令を発した。12月7日、松井は南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示した(蒋介石はこの日の内に南京を脱出)。12月9日、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まった。13日、南京陥落。17日、松井、南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めた(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)[3]。後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している[8]

一方、トラウトマン工作は成功しつつあったが、南京占領後に蒋介石はトラウトマンの提案を拒否したため、工作は頓挫した。しかし、松井はこの時期に蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていた[9]。だが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蒋介石を対手とせず」宣言(近衛声明)ですべては終わった。松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった[5]

昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた[10]
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興和観音(熱海、伊豆山)

太平洋戦争(大東亜戦争)期から終戦まで

軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。対米英開戦後の1月、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。

1942年6月、松井は大亜細亜協会会頭として国外視察に出かけ、上海~南京~台湾~広東~海南島~仏印~タイ~ビルマ~マレーシア、スマトラ島~ジャワ島~セレベス島~フィリピンを訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説いた。南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談している。

帰国後の松井は、栄養失調から風邪をこじらせ、軽い肺炎を起こした。敗戦までの間、松井は仏門に励み、朝昼の二回、近くの観音堂に参拝するのが日課だった。

1945年8月15日、松井は終戦の玉音放送を熱海の自宅で聞いた。10月19日、松井は戦犯指定を受けたが、この時肺炎を患い、病床にあった。松井の個人通訳を務めていた岡田尚は、松井の巣鴨出頭を遅らせようと、松井と親交のあった岩波書店岩波茂雄社長に頼み、岩波と親しい間柄であるGHQの派遣医師である武見太郎に松井の診断書を書いてもらい、巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期させることに成功している。この間松井は、死後に備えて「支那事変日誌抜粋」と「我等の興亜理念併其運動の回顧」を書き上げている。

巣鴨

1946年3月4日、松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語った(陸軍後輩、有末精三の言)[5]。翌5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった[11]。また、重光葵の『巣鴨日記』によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に国民服姿だったという。

東京裁判

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東京裁判での松井石根

戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける[12]。この判決について、ジョセフ・キーナン検事は、『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と判決を批判している[7]。ここでいう部下には、皇族の朝香宮鳩彦王が含まれており、昭和天皇の免訴問題と絡み、松井が身代わりになったという指摘が、田原総一朗はじめ一部に存在する。当の松井自身は、『どうもワシは長生きしすぎた』と述べたとされる。

処刑

松井は昭和23年(1948年)12月9日巣鴨拘置所において、戦犯教誨師花山信勝に次の言葉を残した[13]

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昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。

辞世の句は、

天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心」であった[14]

これらの句について早坂隆は、「一首目で使われている「無畏」という語は「仏が法を説くときの何ものをも畏れない態度」のことであるが、これは松井が熱海の自宅の名に冠した言葉でもある。しかし、先の一首が辞世であることを考えれば、「死を畏れないこと」への意味合いが強く意識されていると考えるのが自然であろう。また、最後の一首の中の「自他」という表現は、日本人と中国人のことを暗喩しているに違いないと私は思う。」とのべている[15]

昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。

評価

中華人民共和国

中国共産党では松井を南京事件の責任者、日本軍による非道の象徴的人物と位置づけている。また、国家中枢にあったとされる他のA級戦犯と同格の人物とみなしている。

日本

ノンフィクション作家の早坂隆は、2011年に刊行した『松井石根と南京事件の真実』(文春新書)の中で、松井が南京占領を平和裡に進めようとしていた過程や、親中派としての松井の思想、東京裁判における松井に関する審理の矛盾などを指摘した。

田原総一朗は「松井石根の構想によって日本政府と蒋介石の信頼関係が堅持されていれば、日本と中国の歴史は大きく変わっていたはずである。日本が蒋介石の中国と戦争を起こすこともなく、当然、南京事件も起きえなかった。」とのべている[5]

南京大虐殺事件に関して

事件の責任と東京裁判での答弁

極東国際軍事裁判昭和22年(1947年)11月24日、ノーラン検察官が南京事件に関して反対尋問した際の松井石根の証言について政治学者丸山眞男昭和24年(1949年)に発表した「軍国支配者の精神形態」で論じた[16]。丸山は、検察から部下(兵士)の暴行の懲罰について努力したかと尋問されると松井が「全般の指揮官として、部下の軍司令官、師団長にそれを希望するよりほかに、権限はありません」と証言したことを部分的に引用しながら「自己にとって不利な状況のときには何時でも法規で規定された厳密な職務権限に従って行動する専門官吏になりすますことが出来る」のであるとして、松井のような態度を「権限への逃避」と評した[17]。丸山はこうした「権限への逃避」は、ナチスゲーリングが全責任を負うとした「明快さ」と異なり、「日本ファシズムの矮小性」の一側面であるとし、日本軍人戦犯は一様に「うなぎのようにぬらくらし、霞のように曖昧」な答弁をすると表した[18]

このような丸山眞男の松井評価について牛村圭は、松井石根が同尋問で「私は方面軍司令官として、部下を率いて南京を攻略するに際して起こったすべての事件に対して責任を回避するものではありませんけれども、しかし各軍隊の将兵の軍紀、風紀の直接責任者は私ではないということを申した」と自分の責任を回避しないと答弁したことが裁判記録に残っており[19]、丸山は論文に引用にする際に松井答弁を意図的に省略していたことを発見した[20]。また、当時東京裁判の検察も松井が責任を回避しないと答弁したことを確実に受け取っていた[21]のであって、松井の答弁は「道義上の責任」と「法律上の責任」を区別した明瞭なものであると牛村は再評価した[22]牛村圭は裁判記録を虚心坦懐に読解すれば、松井が「道義上の責任は決して回避せぬが日本陸軍の法規ではこうなっていると説明している」と解釈する方が自然であり、丸山眞男の論については「松井の人格を歪曲する削除を加え」「予断と先入観を、恣意的と呼んでいい論証法を用いて押し通そうとした。このような論法につき、丸山眞男は<道義上の責任>を感じてしかるべきであろう」と批判している[23]

松井に関する蒋介石の「発言」

テンプレート:See also 興亜観音を守る会」会報(『興亜観音第15号』2002年4月18日号)に田中正明が書いたところによれば、1966年9月に、田中ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったという体験談が記されている[24][25]。この話は『興亜観音第10号』(1999年10月18日号)にも掲載されており、両方とも蒋介石は「申し訳ない事をした」と田中に語ったと記されているが、何応欽の軍事報告や松井大将が冤罪だったという部分は、10号では田中が考える事実として記されているのに、15号では蒋介石自身の発言と記されており、異同がある。

なお、蒋介石自身の公式の回顧録である産経新聞(当時はサンケイ新聞)が1976年に紙面掲載した『蒋介石秘録』の「全世界を震え上がらせた蛮行」によれば、蒋介石は1938年1月22日付の日記に「日本軍は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ」と記している。また、日本軍による南京攻略戦が終了した後の自軍の損害については、「南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。」「日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江(揚子江)岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。」「虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。」「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ。」「犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。」 とも発表している[26]

年譜

関連する作品

南京大虐殺の責任者として、南京事件を扱った映画に登場する。以下、松井を演じた俳優。

脚注

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参考書籍

  • 丸山眞男「軍国支配者の精神形態」(1949年)(『現代政治の思想と行動』増補版、1964年、未來社所収)
  • 重光葵巣鴨日記文藝春秋社、1953年
  • 『極東国際軍事裁判速記録』雄松堂、1968年
  • 田中正明「井上雅二『巨人荒尾精』解説」(井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、明治43年刊の1997年復刻版)
  • 早瀬利之著「将軍の真実・松井石根の生涯」(光人社、1999年)(2007年に光人社NF文庫より「南京戦の真実 松井石根将軍の無念」と改題して刊行)
  • 牛村圭「責任は回避せず 松井石根大将と南京事件」(『「文明の裁き」をこえて』中央公論新社、2001年所収)
  • 早坂隆『松井石根と南京事件の真実』文春新書、2011年
  • 田原総一朗「日本近現代史の裏の主役たち」PHP文庫、2013年

資料

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

テンプレート:A級戦犯
  1. 井上雅二『巨人荒尾精』佐久良書房、1910年、田中正明氏の解説
  2. 松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項戦時国際法又は慣習法に対する違反罪。で有罪となったため、実際にはB級戦犯(BC級戦犯参照)である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという事実に反する認識が浸透している。
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 早坂隆「松井石根と南京事件の真実」文春新書,2011年.
  4. しかし、現状の中国は国力も弱く、欧米列強の食い物にされている。そういった国状の中国を、強国として「改造」していくことが、日本の国防上からも重要である。荒尾のこのような姿勢を高く評価し、後援していたのが川上操六であった。松井はこの荒尾の思想に触れて感銘を強くした。荒尾のこのような考え方が、その後の松井の精神的中核を養い、血肉となり、思想体系の基調を形作ったと言える。荒尾が掲げた理想は、後に松井が創立する大亜細亜協会への土壌となった。早坂隆「松井石根と南京事件の真実」文春新書,2011年.
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 5.8 5.9 田原総一朗、日本近現代史の「裏の主役」たち、PHP文庫、2013年
  6. 亜細亜聯盟論「外交時報」679号、昭和8年3月15日発行
  7. 7.0 7.1 7.2 早瀬利之「将軍の真実・松井石根の生涯」光人社、1999年
  8. 昭和22年11月24日宣誓口述書第5項南京略奪暴行事件(法定証3498号)「・・・松井石根は「検察側の主張するごとき計画的または集団的に虐殺を行ないたる事実は断じてなしと信ずる」と主張した。」早瀬利之「将軍の真実・松井石根の生涯」304page、光人社、1999年
  9. 昭和12年10月、松井は茅野長知に和平工作を依頼した。茅野は松本蔵次と共に、賈存得と和平交渉に入った。賈存得は孔祥熙と連絡を取り、和平交渉は秘密裏に進展した。しかし、松本重治高宗武の策略によって和平交渉は潰されてしまった。これは尾崎秀実犬養健西園寺公一影佐禎昭らによる汪兆銘工作につながっている。三田村武夫、"日華全面和平工作を打ち壊した者"『大東亜戦争とスターリンの謀略』、自由社、1987年
  10. 山田雄司、松井石根と興亜観音
  11. 重光葵巣鴨日記文藝春秋社、1953年,p39
  12. ラダ・ビノード・パール判事は、南京で日本軍による一定の犯罪行為の存在を認定する一方で、「裁判の在り方自体に有効性がないため『有罪』という概念そのものが成立しない」との立場から、松井を含めた被告全員の無罪を主張した。
  13. 花山信勝、「巣鴨の生と死―ある教誨師の記録」、中央公論社、1995年
  14. 早坂隆「松井石根と南京事件の真実」文春新書,2011年.
  15. 早坂隆「松井石根と南京事件の真実」文春新書,2011年.
  16. 丸山眞男現代政治の思想と行動』増補版、1964年、未來社所収
  17. 丸山眞男現代政治の思想と行動』増補版、1964年,p118-120
  18. 丸山眞男現代政治の思想と行動』増補版、1964年,p102-103
  19. 『極東国際軍事裁判速記録』320号、p14、雄松堂、1968年
  20. 牛村圭『「文明の裁き」をこえて』中央公論新社、2001年、p48-51
  21. 牛村圭『「文明の裁き」をこえて』中央公論新社、2001年、p55-56
  22. 牛村圭『「文明の裁き」をこえて』中央公論新社、2001年、p65-66
  23. 牛村圭『「文明の裁き」をこえて』中央公論新社、2001年、p69
  24. 田中正明、《実録》松井石根大将と蒋介石、『興亜観音第15号』2002年4月18日号
  25. 同様の内容は田中の門下生であるという深田匠の著書『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』高木書房 (2004)、P72でも記されている。
  26. 『蒋介石秘録12 日中全面戦争』サンケイ新聞社P67~P70