東武2000系電車

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テンプレート:鉄道車両 東武2000系電車(とうぶ2000けいでんしゃ)は、かつて東武鉄道に在籍した通勤形電車1961年昭和36年)に登場し、1971年(昭和46年)までに160両が製造され、1993年平成5年)まで運用された。帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄日比谷線乗り入れ用として開発された、東武鉄道の通勤形電車における初の高性能車両である。

本項では、後年本系列を改造して登場した2080系についても記述する。また、個々の編成を表す場合は浅草中目黒方先頭車の車両番号で代表して表記する。

概要

帝都高速度交通営団(現、東京地下鉄日比谷線(以下、日比谷線と表記)への直通運転を間近に控え、直通運転用車両として開発されたのが本系列である。軽量化に意を配った全鋼製車体、MM'ユニット構成による全電動車編成、両開き客用扉、アルミデコラが多用された内装など、当時のトレンドとなる装備は一通り揃えた形で設計された。

本系列は1961年(昭和36年)7月13日より営業運転を開始したが、直通運転開始までの間、暫定的に本線運用に就いた。そのため、竣工当初の行先表示幕には「杉戸」・「羽生」・「太田」といった、本線系統の行先表示を有していた。

その後、日比谷線が北千住まで延伸された1962年(昭和37年)5月より直通運転を開始し、その後も需要の増大によって増備が続けられ、当初は4両編成で登場したが最終的には8両編成に長大化し、1971年(昭和46年)までに8両編成20本計160両が新製された。

車体

乗り入れ規格に準拠した18 m級3扉車体で、窓配置はdD3D3D1(d:乗務員扉、D:客用扉)、東武の車両としては初の両開客用扉を採用した。A-A様式に準拠した設計による全鋼製車体であり、日比谷線を走る他形式、営団3000系および東急7000系がいずれもステンレス製車体を採用する中で、塗装車体の本系列は目立つ存在であった。

前面は貫通構造とされているが、これは前述A-A様式に沿って設置された非常口であり、連結運転を意図したものではない。前面上部中央には行先表示幕を有し、前照灯と標識灯は一つのケースに収められて前面左右窓下に設置されており、このデザインモチーフは6000系8000系にも多少アレンジを加えつつ踏襲された。また、前面運転台側の窓上には通風口を設置し、前面右端部に設置された誘導無線アンテナとともに本系列を特徴付ける部分である。屋根上には通常のベンチレーターではなく、一体型通風ダクト(モニター)が設置された。

車体塗装はそれまでの車両と一新され、ロイヤルベージュ地に窓周りと車体裾部がインターナショナルオレンジのツートンカラーを採用した。これは日比谷線直通列車を容易に識別可能とするため、本系列のみの特別塗装としての意味合いが込められていた[1]

18 m級車体の問題点

乗り入れ規格制定に際して、東武は7800系など車体長20 m級の車両が主流となりつつあったことから、乗り入れ車両の規格を20 m級車体とすることを主張した。しかし、営団が建設費抑制や需要の観点から[2]18 m車両の採用に傾いたため、東武側が折れる形で乗り入れ車両は18 m級車体とすることが決定した。ところが、その後東京急行電鉄(以下、東急)も20 m車両が標準仕様となったため、自社標準仕様と乗り入れ仕様で全く異なる規格の車両を保有せざるを得ない事態を招いた。このことは乗り入れ側の東武・東急線内において車体長および扉数が異なる車両の混在に起因する乗車位置の相違による混乱を誘発し、輸送力増強のネックともなるなど、現在に至るまで禍根を残すこととなった。

内装

車内アコモデーションはアルミデコラの多用によって無塗装化が推進され、ベージュ系のデコラに「ラクダ色」と称する薄茶色のシートモケットを採用し、全体的に暖色系のカラースキームとされた。床敷物は緑色系のロンリュームが敷かれている。なお、これら車内配色は、1983年(昭和58年)に登場した10000系まで、実に20年以上にわたって東武の通勤車における標準仕様として踏襲され続けた。

車内送風機は、車内天井高さの都合から、通常の扇風機ではなく強制送風機(ファンデリア)が採用され、天井部左右に千鳥状に配置された[3]。また、初期車は蛍光灯にアクリルカバーが装着されていたことが特徴であった。

主要機器

前述のように、本系列は東武の通勤形車両において初めてMM'ユニット構成による全電動車仕様およびカルダン駆動方式を採用したが、それらは特急形車両では1956年(昭和31年)に登場した1700系(白帯車)より本格的に採用されていた技術であった。そのため、本系列の新製に際しては、当時最新鋭の特急形車両であった1720系の仕様を踏襲しつつ、通勤形車両向けに改良を加えた機器が搭載されることとなった。

主電動機は東洋電機製造製TDK-824[4]を搭載した。この主電動機は1720系のものと同一であるが、歯車比を6.31と大きく取ることで[5]起動加速度3.5 km/h/sを確保している[6][7]

主制御器は電動カム軸式の日立製作所製MMC-HTB-10Cで、こちらも1720系と同一であるが、本系列の用途を考慮して抑速制動機能は付加されていない。主幹制御器は直通先の仕様に合わせた跳ね上げデッドマン式で、直通先の営団3000系が4ノッチであったのに対し3ノッチであった[8]

制動装置はこちらも東武の通勤形車両では初採用となる発電制動併用電磁直通ブレーキ (HSC-D) である。ブレーキ弁ハンドルの位置は「弛め」-「全ブレーキ」-「重り」-「自動」-「非常」-「抜き取り」となっており、通常は電気制動から停止直前の空気制動までセルフラップ方式で容易な操作が可能だが、電磁直通制御器が故障した場合は自動制動方式に切り替えて制動操作をする。ただしこの場合は空気制動のみとなり、本来の性能は発揮できなくなる。

ちなみに運転台の押しスイッチのひとつに「電気制動」と標記されたスイッチがあり、この銘板の横にはさらに「上り列車日光-板荷間ノミ開放ノコト」と標記された銘板が貼付されていた。このスイッチを開放すると、電磁直通方式の空気制動のみとなる。

パンタグラフは東洋製PT-44Bをモハ2100形 (Mc)・モハ2300形 (M) に各1基搭載した。従来車に採用されていたPT-42系と外観はほぼ同一ながら集電舟部分の設計が異なり、パンタグラフ作用高が下降しても押し上げ圧力の低下を最小限に留める機構を備えていたが、同機構は後年取り外されている。

台車住友金属工業製FS340を装備する。1720系が装備するFS334台車同様、アルストム式軸箱支持方式の空気バネ台車であるが、枕バネ部分の設計がFS334では揺れ枕吊り式であったのに対し、FS340ではインダイレクトマウント式に改良されている点が異なる。

車番

本系列の新製に際しては、これまでの慣習に拠らない新たな付番基準によって形式称号が制定された。すなわち、百の位について1から順に浅草寄りの車両から付番して編成内における連結順序を表し、末尾2桁を同一編成における共通番号とする方式である。本系列の場合以下のように付番された。

  • モハ2100形 (Mc) - モハ2200形 (M') - モハ2300形 (M) - モハ2400形 (M'c)

当基準は後年10000系新製に際して新基準が制定されるまで広く踏襲された。しかし、当基準では編成内に増備車(中間車)を組み込んだ場合、既存の車両について改番を行わない限り、順番がずれてしまうという問題が生じた。その後、本系列はそのようなずれを許容する形で中間車を増備・増結したため、当基準は本系列においては有名無実化してしまった[9]

導入後の変遷

需要増大に伴う増備

1962年(昭和37年)5月31日より日比谷線との相互直通運転が開始されたが、それに合わせて本系列は1962年(昭和37年)3月までに4両編成10本(2101 - 2110編成)が新製され、直通運転開始に備えた。

直通運転開始後は伊勢崎線の利便性が著しく向上したことから、同線の沿線開発が加速的に進行し乗客が急増した。そのため早急な輸送力増強の必要に迫られ、1964年(昭和39年)に既存の編成に中間車2両を新製して増結し、全編成が6両編成化された。新製された中間車ユニットはモハ2350形 (M) - モハ2250形 (M')と新形式が起こされ、モハ2200形とモハ2300形の間に組み込まれた。なお、モハ2350形とモハ2250形の連結面貫通路は狭幅化され、風の吹き抜けを防止するため貫通扉が新設されたほか、室内灯のアクリルカバーが廃止されて蛍光灯がむき出しとなった点が従来車と異なる。

1966年(昭和41年)には2111 - 2114編成が新製された。これらは当初から6両編成で落成し、以降新製された編成も同様である。また、1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)にかけて毎年2編成のペースで計6編成(2115 - 2120編成)が増備され、全20編成が揃った。なお、2115 - 2118編成は1720系の台車交換で発生したFS334を流用して竣工した。また、2115編成以降に新製された車両は、同時期に製造された8000系の8128・8528編成以降と同様、側窓上部がR形状から直線形状に改められ、角張った印象を与えるものとなった。

さらに1971年(昭和46年)には全編成に中間車2両を新製して増結し、8両編成化された。今回新製された中間車ユニットはモハ2550形 (M) - モハ2650形 (M')で、モハ2250形とモハ2300形の間に組み込まれた。また、モハ2550形とモハ2650形の連結面は狭幅貫通路とされて貫通扉が設置されている点は前回増備されたモハ2350形・モハ2250形と同様である。

事故被災および復旧

1967年(昭和42年)9月に発生した中目黒駅における衝突事故で2109編成が被災し、モハ2109が脱線大破した。同車は翌1968年(昭和43年)6月にナニワ工機で車体を新製して復旧し、同時に破損の酷かった運転台寄り台車も新製している。

1968年(昭和43年)1月には、日比谷線神谷町駅付近において車両故障による回送運転中であった2112編成から火災が発生し、発火源であったモハ2312が全焼した。人的被害は皆無であったものの、当時における不燃化基準を満たした車両が炎上したことが問題となり、地下鉄用車両の安全基準が見直される契機となった(詳細は営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故を参照)。なお、被災したモハ2312は同年11月にナニワ工機で車体を新製して復旧された。

晩年

1974年(昭和49年)以降、東武の通勤形車両の標準塗装がセイジクリーム一色塗りに変更されたことに伴い、本系列も全車塗装変更が行われている。また、行先表示幕は落成当初白地に黒文字であったが、後年紺地に白文字のものに順次交換された。

なお、1985年(昭和60年)以降、通勤形車両の標準塗装がジャスミンホワイト地にブルーの濃淡帯に変更された際には、本系列は日比谷線直通用車両であることから誤乗防止目的でセイジクリーム一色塗りのままとされ、廃車まで新塗装化は実施されなかった[10]

1988年(昭和63年)からは営団地下鉄も車両冷房搭載に踏み切ることとなり、それに伴って本系列も冷房化改造が検討された。しかし、初期車は車齢25年を越えて各部の陳腐化・老朽化が進行しつつあったことから、コストをかけて本系列に冷房化改造を施工するよりも、冷房付の新型車を導入する方が得策と判断され、後継形式である20000系を代替新製し、本系列を淘汰する方針が決定された。

1988年(昭和63年)2月に2110編成が廃車になったことを皮切りに順次淘汰が進行し、1993年平成5年)8月1日に行われた2118編成によるさよなら運転をもって本系列は全廃となった。

なお、本系列中1971年(昭和46年)に新製されたモハ2550形・モハ2650形ユニットについては比較的経年が浅かったことから、同ユニットのみを集約して編成化し、他線区へ転用することが計画された。その転用計画の一環として、同ユニットを捻出するため一部編成を対象に編成替えが行われている(詳細は2080系の概要の項を参照)。

本系列は廃車後全車が解体処分され、車両として譲渡されたものは存在しない。ただし、台車と主電動機の一部は伊予鉄道に譲渡され、同社700系および610系の走行機器として流用されている。

2080系

ファイル:Tobu2080.jpg
2080系モハ2181(2000系改造)
柏駅・1992年5月)

2000系の代替が計画された同時期、野田線で使用されていた3000系の代替も同時進行で行われていた。前述のように、2000系には後年増備された比較的経年の浅い中間車が多数存在したことから、それらを活用して3000系の置き換えを促進することとなった。なお、改造に先立って本系列の種車となる2000系モハ2550形・モハ2650形ユニットを捻出するため、一部編成で編成替えが行われた。

1988年(昭和63年)2月に2110編成が、同年3月には2106編成がそれぞれ廃車となったが、両編成からは種車が4両分しか確保できないため、廃車予定のない2113編成からモハ2563-モハ2663を外して本系列の種車に回し、2106編成よりモハ2356-モハ2256を2113編成に組み込んだ。

また、同年12月には2101編成が廃車となり、同編成から捻出されたモハ2551-モハ2651を2108編成のモハ2358-モハ2258と差し替えた。翌1989年(平成元年)1月に廃車となった2102編成よりモハ2552-モハ2652を確保し、同年10月に2108編成が廃車となって捻出されたモハ2551-モハ2651およびモハ2558-モハ2658と併せて1編成分の種車を確保した。

このような経緯を経て誕生したのが2080系である。代替対象であった3000系の野田線における編成が6両であったことから、本系列は6両固定編成で登場した。なお、各種改造等は西新井工場においてアルナ工機の出張工事で施工された。

改造内容

種車が全車中間車であったため、編成両端となる車両に対して先頭車化改造が行われた。前面形状は20000系に酷似した左右非対称のデザインとされたが、用途上不要となる非常扉は設置されていない。また、新設された運転台周りの機器については、一部に2000系の廃車発生品を流用しているものの、スイッチ類や各種照明装置については新製している。

その他、以下のような改造が施工されている。

  • 野田線における運用条件を考慮し[11]、一部車両を電装解除し4M2T編成化
  • 床面高さ調整
  • 車体塗装をジャスミンホワイト地にブルーの濃淡帯に変更

改造後の編成は以下の通りである。

  • モハ2180形 (Mc) - モハ2280形 (M') - サハ2380形 (T) - サハ2480形 (T) - モハ2580形 (M) - モハ2680形 (M'c)

導入後の変遷

第1編成となる2181編成は1988年(昭和63年)5月に、第2編成となる2182編成は翌1989年(平成元年)11月にそれぞれ落成し、七光台検修区に配置された。

計画段階では本系列は6両編成6本が登場する予定であった。しかし、本来全電動車方式で設計された2000系を一部電装解除したことが災いして故障が頻発したことや、当時は既に冷房装置搭載が常識となりつつあった時期であったにも関わらず、本系列は非冷房仕様のままであったため利用客の不評を買ったことなどから[12]、6両編成2本をもって増備は打ち切られた。また、野田線から撤退した後には支線区への転用も計画されたが、こちらも同様の理由から見送りとなった。

1991年(平成3年)以降、野田線 - 船橋間の運用は20 m車に統一されたため、本系列を始めとした18 m車の運用範囲は大宮 - 柏間に限定された。その後1992年(平成4年)12月1日より、野田線の運用が全て20 m車で統一されたことに先立ち、同年10月に2182編成が、11月には2181編成がそれぞれ廃車となった。本系列は種車となった2000系全廃に先んじて、改造後わずか4年で形式消滅した。

前面形状が一新されていることから、当初は冷房付きの新車と勘違いされたこともあったという。

車歴

2000系

モハ2100形 モハ2200形 モハ2350形 モハ2250形 モハ2550形 モハ2650形 モハ2300形 モハ2400形 竣工 廃車 備考
2101 2201 2351 2251 2551 2651 2301 2401 1961年7月 1988年12月 モハ2551-モハ2651は2080系化[13]
2102 2202 2352 2252 2552 2652 2302 2402 1961年7月 1989年1月 モハ2552-モハ2652は2080系化
2103 2203 2353 2253 2553 2653 2303 2403 1962年2月 1990年2月
2104 2204 2354 2254 2554 2654 2304 2404 1962年2月 1989年11月
2105 2205 2355 2255 2555 2655 2305 2405 1962年2月 1990年9月
2106 2206 2356 2256 2556 2656 2306 2406 1962年3月 1988年3月[14] モハ2556-モハ2656は2080系化
2107 2207 2357 2257 2557 2657 2307 2407 1962年3月 1991年3月
2108 2208 2358 2258 2558 2658 2308 2408 1962年3月 1989年10月[13] モハ2558-モハ2658は2080系化
2109 2209 2359 2259 2559 2659 2309 2409 1962年3月 1992年4月 モハ2109は事故復旧車
2110 2210 2360 2260 2560 2660 2310 2410 1962年3月 1988年2月 モハ2560-モハ2660は2080系化
2111 2211 2361 2261 2561 2661 2311 2411 1966年5月 1991年3月
2112 2212 2362 2262 2562 2662 2312 2412 1966年5月 1993年7月 モハ2362は事故復旧車
2113 2213 2363 2263 2563 2663 2313 2413 1966年5月 1990年3月 モハ2563-モハ2663は2080系化[14]
2114 2214 2364 2264 2564 2664 2314 2414 1966年5月 1993年3月
2115 2215 2365 2265 2565 2665 2315 2415 1968年7月 1991年3月
2116 2216 2366 2266 2566 2666 2316 2416 1968年7月 1992年12月
2117 2217 2367 2267 2567 2667 2317 2417 1969年4月 1993年1月
2118 2218 2368 2268 2568 2668 2318 2418 1969年5月 1993年8月 さよなら運転に使用
2119 2219 2369 2269 2569 2669 2319 2419 1970年9月 1993年2月
2120 2220 2370 2270 2570 2670 2320 2420 1970年9月 1993年7月

モハ2350形・モハ2250形ユニットの末尾51 - 60は1964年(昭和39年)新製。モハ2550形・モハ2650形ユニットは全車1971年(昭和46年)新製。

2080系

モハ2180形 モハ2280形 サハ2380形 サハ2480形 モハ2580形 モハ2680形 種車 竣工 廃車
2181 2281 2381 2481 2581 2681 モハ2552,モハ2551,モハ2651,モハ2558,モハ2658,モハ2652 1988年6月 1992年11月
2182 2282 2382 2482 2582 2682 モハ2560,モハ2563,モハ2556,モハ2656,モハ2663,モハ2660 1989年11月 1992年10月

脚注

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参考文献

外部リンク

テンプレート:東武鉄道の車両
  1. 当時の通勤形車両は、オレンジ地に黄色帯もしくは茶色一色塗りとされていた。しかし、後に8000系が本系列と同一塗装で登場したことをきっかけに、当時在籍した通勤形車両全てがロイヤルベージュとインターナショナルオレンジのツートンカラーに順次塗装変更され、当初の目論みは有名無実化した。
  2. 日比谷線建設時需要予測において、東急東横線中目黒方面からの流入と比較して、北千住方面からのそれを過小評価していたことによる。北千住 - 茅場町間については当初6両編成対応で建設が進められたこともそれに基くものであり、当時の伊勢崎線沿線が東横線沿線と比較して宅地開発が進んでいなかったという事情も加味されてのことであった。
  3. 先頭車に9個、中間車には10個装備され、スイッチ操作によって1つおきに吸気・排気を切り替えることが可能であった。
  4. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「motor」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  5. 1720系では歯車比を3.75と、高速性能を最優先させた設定となっていた。
  6. 営団3000系および東急7000系の起動加速度4.0 km/h/sと比較すると、スペック上は見劣りしたものの、実用上問題はなかった。また、TDK-824主電動機は補償巻線を有しているほか、最弱界磁率が20%と大きく取られているため、中速域以降の加速特性は前記2形式よりも優れていた。
  7. 起動加速度1.6 km/h/s程度であった従来車と比較して、本系列はそれらの倍以上もの起動加速度であったことから、運行開始当初は高い加速・減速度に慣れない乗客がそれを嫌って本系列を敬遠したという逸話がある(私鉄の車両24「東武鉄道」 P57)。
  8. のちに同形態のものが8000系にも採用された。跳ね上げ式のマスコンは当時の営団の車両では標準となっていた(三菱)ほか、東急7000系・7200系(東洋、日立)や都営地下鉄6000形(東洋)更には国鉄301系にも採用されている。
  9. 8000系を始めとして、既存の編成へ新たに中間車を増結した形式全てにおいて生じた問題であった。また、1800系では十の位において同様の付番方式が採用されたが、後に中間車を増備した際に問題が生じた点も同様であった。
  10. なお、新塗装化された編成は先頭車の前面に車番表記が追加されていたが、同時期に本系列の先頭車にも車番表記が追加された。同時に従来打ち抜き文字仕様であった側面窓下の車番表記もペンキ書きに変更されている。
  11. 当時の変電所能力の都合から消費電力の多い全電動車編成の入線は困難であり、また野田線においては2000系本来の高加速・減速性能は必要とされなかった。
  12. 冷房化改造については、屋根構造や車体強度の都合上不可能であったとされている。
  13. 13.0 13.1 モハ2551-モハ2651は1988年12月以降2108編成に組み込み。捻出されたモハ2358-モハ2258は1988年12月廃車。
  14. 14.0 14.1 モハ2356-モハ2256は2080系化改造種車捻出のため、1988年3月以降2113編成に組み込み。1990年3月廃車。