東急5000系電車 (初代)

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テンプレート:鉄道車両 東急5000系電車(とうきゅう5000けいでんしゃ)は、東京急行電鉄に在籍していた通勤形電車1954年昭和29年)から1959年(昭和34年)までに105両が製造された。

概要

航空機の技術を応用した超軽量構造と、アメリカからの技術導入による最新鋭の電装機器を兼ね備え、それ以前の日本電車とは隔絶した高性能と軽快な車体スタイルを実現した。

下ぶくれの愛嬌ある車体形態はライトグリーン(萌黄色)1色に塗装されていたことからカエルを連想させ、「青ガエル」「雨ガエル」などの通称で利用者に親しまれた。工業デザインの見地からも秀逸な車両である。このライトグリーンは当初透明感のある彩度の高いものであったが、退色しやすいため後に彩度を落とした濃い色が使用された。この色は以後東急鋼製車の標準色とされ、8500系が登場するまで東急電車を象徴する色になっていた。なお後述する渋谷のカットボディの塗色は往年の濃い色である。

東急では1980年(昭和55年)頃までに東横線の運用から退き、1986年(昭和61年)までに全車廃車されたが、1970年代以降地方私鉄に大量譲渡された。熊本電気鉄道では現在も現役である。

外観・性能

ファイル:TS-301 Suzaka.jpg
5000系が装備したTS-301型台車
  • 正面はいわゆる湘南スタイルの2枚窓。
  • 客用窓は当初、2段窓の下段を上昇させるとワイヤーで連動した上段窓が下降するいわゆる「釣瓶井戸」構造であったが、後に一般的な2段上昇窓に改造された。
  • 西鉄313形電車で採用されていたモノコック構造、高抗張力鋼を用いることで軽量車体を実現した。
  • 登場当初、乗降扉の窓は縦長であったが、後に小窓に変更されている。また床下機器や台車も当初明るいグレーであったが後に黒に変更され、以降の各形式も黒で統一されている。
  • 日本で初めて本格的に直角カルダン駆動方式を採用した新性能車の嚆矢である。
  • 東芝製・SE-518形直巻電動機(定格出力110kW、端子電圧750V、電流162A、定格回転数2,000rpm、最高許容回転数4,500rpm、最弱め界磁率50%)を採用し、定格速度を高く取り高速性能を確保した。出力は当初75kWの計画もあったが最終的には110kWとなった。
  • 主抵抗器はカバーで覆われ、電動発電機に取り付けられたファンで冷却する強制風冷式[1]で、東急ではこの形式が最初で、5200系を最後に、旧6000系以降自然風冷式に切り替えられている。
  • 歯車比は52:9(5.78)である。
  • 起動加速度MT比2M1T(電動車(M)2両・付随車(T)1両)で2.7km/h/s。電動車は1M方式で、MT比を自在に変えることができる。
  • 発電制動併用自動空気制動を採用。ブレーキハンドルを「全弛め」位置に回すと空気制動も発電制動も動かず、「弛め」位置で発電制動の作動準備が行われ、「制動」位置に回すと発電制動が作動し、「重なり」に戻すと発電制動力が保たれる。その際、自動的に不足分のブレーキ力だけブレーキシリンダーに圧力が込められる、現在でいうところの「遅れ込め制御」機能が働く。発電制動が失効すると自動で空気制動が作動する。ブレーキシリンダーに込められる圧力は発電制動のノッチによって決まる。発電制動は時速5km/hぐらいまで作動する[1]
  • 発電ブレーキ抵抗器の冷却風を客室内に導き、温風として暖房に使用する設計が取り入れられた[2]。しかし制御が難しく効きすぎる事から、後に通常の電熱暖房に改造された。[3]
  • 主幹制御器の段数は4段であり、1 - 3ノッチは通常の直並列制御であるが最終4ノッチは限流値が引き上げられ、起動加速度が引き上げられる。
  • 東横線の急行運転開始後、車内放送装置にオープンリール式のテープレコーダーによる女性のアナウンスが流れるようになったが、メンテナンスの問題からすぐに使用が中止されてしまった。東急で自動放送が再び使用されるようになるのは1986年(昭和61年)の9000系からである。

形式

下記の4形式が製造された。

デハ5000形(5001 - 5055)
制御電動車。5001 - 5050はデハ5100形、サハ5350形と3・4連の基本編成を組んだ。1959年に製造された5051 - 5055は新製当初クハ5150形と編成を組んで増結用の2連で使用されたが、クハが長野電鉄へ譲渡されてからは5001 - 5050と同様に使用された。
デハ5100形(5101 - 5120)
1957年から東横線急行の4両編成での運転開始にともない、4連化用に製造された中間電動車。
クハ5150形(5151 - 5155)
1959年に東横線急行の5両編成での運転が開始されたため、5051 - 5055とともに製造された増結用2連の制御車。長野電鉄への初回譲渡時に全車譲渡され、最初の消滅形式となった。
サハ5350形(5351 - 5375)
付随車で、当初は5001 - 5050による基本編成の中間に挟まれ3両編成を組成した。製造当初はサハ5050形(5051 - 5075)だったが、1959年にデハ5000形5051 - 5055が製造され、番号が重複するため、同年8月1日付でサハ5350形に形式変更・改番された。

運用の変遷

1954年10月14日に公式試運転が行なわれた[4]後、東横線の運用に入った。5000系の3両編成が4本に達した後の1955年4月1日のダイヤ改正より、東横線に渋谷と桜木町を34分で結ぶ急行の運転が再開された[5]。当初は日中のみの運転で[5]、急行が終日運行されるようになったのは同年10月1日からである[5]。1957年5月から、順次デハ5100形を組み込み4両編成化された[5]

1958年12月からはラジオ関東(当時)の放送を、誘導無線により受信した上で車内に流す試みを開始した[5]。この放送は1964年に取り止めとなり[5]、誘導無線は業務用無線に転用された[5]

1959年にはクハ5150形が登場し[6]、デハ5000形に5050号が登場することによってサハ5050形はサハ5350形へ改番された[6]。最終増備車両は1959年10月に入線したデハ5120で[6]、5000系は合計105両となり、最長で6両編成[6]を組んで運用された。

1970年に田園都市線から東横線に転属した7000系が急行に使用されるようになったため一部が田園都市線に転属した。

ファイル:Tkk5000 last run in toyoko line.JPG
東横線でのさよなら運転(1980年)

1977年に一部を長野電鉄に譲渡して以降、各社への譲渡が進められ保有数を減らし、1980年には東横線・田園都市線での運用がなくなり、大井町線目蒲線で使用されるようになった。大井町線では5両全車電動車編成を組んだこともある。

その後も譲渡と廃車が進み、1986年6月18日限りで5047-5354-5050の3両1編成が目蒲線での運用を終了し、これをもって東急での運用は全て終了した。

以後への技術的波及

本系列の注目点の一つとして、当初から付随車を組み込んだMT編成であることが挙げられる。直角カルダン駆動の大トルク電動車が、軽量なトレーラーを牽引することで、製造コストを低減できると同時に、カルダン駆動用の高速電動機による瞬間的な消費電力をある程度抑制することが可能であった。

この時期に現れたいわゆる「高性能電車」においては、起動加速度を2.7km/h/sから3.3km/h/sに引き上げるため全電動車方式を積極的に取り入れる例が多く存在した。具体的にはWN駆動方式と小形主電動機の組み合わせによるもので、特に同時期の1067mm狭軌の私鉄に良く見られる方式である。また日本国有鉄道(国鉄)のモハ90系電車(後の101系)も、駆動方式が違うものの同様の設計理念である(なお、この形式では東急5000系とは違い中空軸平行カルダン駆動方式を採用していた)。しかしこの方式では製造費や給電施設の強化などの初期投資が割高で、急増し切迫する輸送需要に対応しなければならない状況では現実的でなかった。このため大半の鉄道事業者(国鉄を含む)ではMT編成の新車を大量生産する結果となった。

本形式に採用されたPE-11形電動カム軸式抵抗制御器は、後に国鉄のCS12形制御器のモデルとなり、さらに改良されて国鉄の電車用抵抗制御器の決定版となるCS15形へと発展した。

PE-11形制御器の制御段数は直列12段、並列11段、弱め界磁3段、発電制動20段である。弱め界磁制御は高速域のみならず加速を滑らかにするため発進時にも弱め界磁を使用する「弱め界磁起動」装置が導入された。弱め界磁は高速域でも当初使用されていたが終期には発進時のみ使用されるようになった。

モノコックの車体構造、いわゆる張殻構造によるボディの軽量化は航空機では一般的だが、鉄道車両用としての利用はその後も相模鉄道5000系などの例があるものの、最終的にはあまり広まらなかった。これは丸みの強い形状のため通常の電車と比較しても断面積が小さく、足元にまで曲面が現れる構造で混雑時の詰め込みが効かないことなどが問題となったためである。またモノコックの性質上、部分的な荷重・応力には弱いために、のちの冷房化など設備追加を伴う大規模な改造も困難であったことが結果的に世代交代を早める原因となった。また、腐食・老朽によるダメージも通常より大きいものとなるため整備コストの上がる、より大型の車体には導入しにくいなどの問題もある。このような理由から、鉄道車両においてモノコック構造の応用はあまり進まず、セミ・モノコック構造(準張殻構造)が多用されるようになった。[7]

当時、5000系の車重はステンレスカーの5200系より軽く、経済性の面でも有利であると考えられていた。

他鉄道事業者への譲渡

東急で運用を離脱した後に、旧型車の置き換え・サービス向上のために64両が地方私鉄に譲渡された。これだけ大量の車両が譲渡された理由として、車齢が浅かったことのほか、軽量のため橋梁など重量制限のある構造物への支障がない、1M方式のため短編成が組みやすいなどの特徴から、地方私鉄でも導入しやすい車両であったことが挙げられる。しかし先述の欠点に加え、直角カルダン駆動の保守部品調達も難しくなってきていることから、京王電鉄3000系などに代替されて、譲渡されたほとんどの車両もすでに廃車となっている。2012年平成24年)現在でも稼動しているのは熊本電気鉄道の2両を残すのみとなり、東急時代の緑一色の塗装に戻されて運用されている。

塗色変更で「赤ガエル」などになった車両、中間車へ運転台が取り付けられて切妻型の先頭車「平面ガエル」となった車両もある。

以下に譲渡車両の一覧を記す。詳細は各車の記事を参照。

長野電鉄 2500系・2600系
長野線の一部区間地下化にともない1977年(昭和52年)から1985年(昭和60年)にかけて2両編成(2500系)10本、3両編成(2600系)3本の計29両を譲渡した。塗色変更により長野電鉄の従来の車両と同様赤色基調の塗装となり「赤ガエル」と呼ばれた。1998年(平成10年)までに廃車となっている。
福島交通 5000形
1980年(昭和55年)に2両編成2本4両を譲渡した。1991年(平成3年)に飯坂線の昇圧により7000系に置き換えられ、他車とともに廃車となった。
岳南鉄道 5000系
1981年(昭和56年)に2両編成4本を譲渡し、同社の旧形車両をすべて置き換えた。先頭車両が不足したため一部の先頭車は中間車の改造により製作しているが、外観はもとからの先頭車とほぼ同じである。1997年(平成9年)に7000形に置き換えられ、予備車として残っていた編成も2006年(平成18年)に廃車となりのち解体された。
熊本電気鉄道 5000系
1981年に2両編成1本を譲渡し、続いて1985年に先頭車4両を両運転台化・ワンマン運転対応化改造の上で譲渡した。両運転台化改造された4両は新設した運転台の側の前面形状が切妻貫通型となっている。両運転台化改造を施した車両のうち2両が北熊本駅 - 上熊本駅間の区間運転用として元東急5000系のうち唯一、2012年現在でも運用されている。
上田交通(現・上田電鉄クハ290形5000系
1983年(昭和58年)にサハ5350形2両を制御車に改造し、クハ290形として導入した。元の車体構造を残したまま運転台を取り付け前面形状は非貫通型とし、「平面ガエル」と呼ばれた。その後1986年(昭和61年)に別所線が昇圧されたためクハ290形は他の旧形車とともに廃車となり、トップナンバーのデハ5001を含む2両編成4本を譲渡した。1993年(平成5年)に7200系に置き換えられ廃車となっている。
松本電気鉄道(現・アルピコ交通5000形
1986年(昭和61年)に2両編成4本を譲渡し、同時に昇圧も実施し従来の車両をすべて置き換えた。のちに2両が両運転台化されたが、3000系の導入により2000年(平成12年)までに全廃された。

なお、上記の譲渡両数以外に、廃車車両の一部が部品取り用として譲渡されている。

また、台車(TS301)が伊豆急行西日本鉄道(西鉄)に譲渡されている。伊豆急には1982年に譲渡され、サハ173・174がこの台車に振り替えられた。西鉄には1986年に譲渡され、宮地岳線(現・貝塚線)の120形のカルダン駆動化に使用された。1991年に120形が廃車となった後は天神大牟田線から転属した600形に転用された。伊豆急・西鉄ともに現在では台車は廃棄されている。

デハ5001号は譲渡先の上田交通で1993年(平成5年)に廃車となった後、静態保存のため東急に返却され、登場時の緑塗装に復元の上、長津田検車区での保存を経て、東急車輛製造の構内で保管されていたが、2006年(平成18年)10月26日から渋谷駅ハチ公口で車体後部をカットし、台車や床下機器を取り外した状態で昔の渋谷駅の写真とともに展示されている。テンプレート:Main また松本電鉄に譲渡された車両の内、1編成が松電新村駅車両所構内に東急時代の塗装で静態保存されている。

その他

  • 2002年に新5000系が登場してからは、本系列を「旧5000系」と呼ぶことが多くなっている。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

テンプレート:Sister テンプレート:東京急行電鉄の車両

  1. 1.0 1.1 『私鉄の車両4 東京急行電鉄』 p.123
  2. 『私鉄の車両4 東京急行電鉄』 p.45
  3. 『東急電車物語』p.84,85,87
  4. 『私鉄の車両4 東京急行電鉄』 p.44
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 『私鉄の車両4 東京急行電鉄』 p.48
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 『私鉄の車両4 東京急行電鉄』 p.49
  7. 東急5000系では後の増備車で、設計見直しによる外板厚の増加や設置機器の変更により重量が増加(1956年の時点では設計値29.5t、実測値30.4t)した他、台車も亀裂発生により当て板による補強工事を行うなど強度設計では不十分な点が散見される。このような事から元東急車両設計者の守谷之男は「5000系が実質最初の自社設計車両であったこと自体が壮大な試作品とも言えなくもない」(連載「設計者のノートから」2 :「鉄道ピクトリアル」No.742(2004年2月号))と記している。