東京横浜電鉄キハ1形気動車

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東京横浜電鉄キハ1形気動車(とうきょうよこはまでんてつキハ1がたきどうしゃ)は、東京急行電鉄の前身である東京横浜電鉄(東横電鉄)が、1936年(昭和11年)に導入したガソリンカーである。

大手私鉄電車運行区間に投入したガソリンカーという点でも特異であるが、大胆なヨーロッパスタイルの大型流線型ボディと、戦前の私鉄気動車としては多い8両が一挙に製造されたことで知られる。

変電所増設費用の抑制のために導入されたものであったが、加速性能の不十分さと日中戦争に伴う燃料統制によって東横電鉄での運用は短期間に留まり、のち神中鉄道(→後の相模鉄道)など中小私鉄に売却された。

ガソリンカー導入の経緯

ガソリンカーがブームになった1920年代後半から、鉄道車両メーカー各社は既に電車を運行している私鉄にもガソリンカーの売り込みをかけた。

電気鉄道での輸送力増強に際しては、車両増備のほか、変電所など地上設備の強化が不可欠であるが、これには多額のコストを要する。場合によっては一部の運用にガソリンカーを用いた方が、設備投資額等を比較検討すれば増発には低コストで済む、というのがメーカーのアピールであった。

中小私鉄ではこの提案に乗った例も幾例か見られたが、大都市を発着する電化私鉄で実際にこの策を導入したのは本形式を導入した東横電鉄のみ[1]である。

東横電鉄のワンマン経営者であった五島慶太は、コスト計算に極めてシビアな人物であった。1930年代中期の東横電鉄では利用客増加に伴って輸送力増強が急務であったが、五島はこれに際しコストダウンのため、ガソリンカー導入を検討した。地上設備増強、車両製造費用とその減価償却等々、電車増備との徹底した費用比較が行われた結果、ガソリンカー導入の方が若干有利であるという結論に達した[2]。この際には、機械式気動車でネックとなる、総括制御不能による運転士複数乗務までも計算に入れられていたという。キハ1形はこうして導入されたものである。

実際には、1937年以降の戦争激化による統制でガソリン価格が暴騰してガソリンカーの運行コストは急上昇、メーカーの提示した「皮算用」はあえなく破綻した。電化私鉄のガソリンカーの多くは、非電化の私鉄に売却され、あるいは電車に改造されるなどの経過を辿っている。

概要

製造は当時の東横に電車を多数納入していた川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)が担当し、1936年4月から6月にかけてキハ1 - 8までの8両が順次竣工している。

この8両という数は鉄道省制式車を別にすると、日本国内向けの単一形式ガソリンカーとしては、第二次世界大戦前では第2位の量産記録である[3]

1930年代の川崎車輛は、蒸気機関車や電車の製造では既に大手企業であったが、ガソリンカー製造では後発であった。江若鉄道キニ6など日本車輌との競作で大型ガソリンカーも製造していたが、ガソリンカー市場では常に大手の先発メーカーである日本車輌の後塵を拝していた。

ゆえにガソリンカーの分野では国鉄向けのキハ4100042000形の製造が主であった川崎であるが、その中では東横キハ1形は力作と言えるものである。

車体

車体両端に運転台を備える3扉車で側窓配置は11D (1) 5D (1) 4 (1) D11(D:客用扉、括弧付き数字:戸袋窓)となっており、乗務員扉は設けられておらず乗務員も客用扉から出入りする。

構造的には台枠上に柱を立てて梁を渡して荷重を負担し、これに屋根や側板などを打ち付ける、従来通りの設計である。もっとも、組み立てには電気溶接が多用されるようになっており、車体裾部と客用扉両脇の柱部、それに側窓上部など、設計当時の工作技術では溶接が困難な重要箇所に限って接が用いられている。

車体長は17.0mで戦前の私鉄向けガソリンカーとしては、滋賀県江若鉄道が1931年以降導入したキニ4キニ9形の17.4mに次ぐ大型車体である。

車体の両端を前後客用扉付近から緩やかに絞り、曲率が異なりしかも屋根から床面まで緩やかな円弧を描く固定二枚窓構成の妻面に接合した大胆な流線形で、戦前の日本製気動車でも特に洗練された好スタイルの一つである[4]

また、運転席脇の車体が絞られている部分には三角窓があり、これは通風のため外側に開くことができた。ただし、この窓では窓から顔を出してホームを確認できないため、客用扉とこの三角窓の間に細長い1段下降窓を設置することで車掌のホーム確認など客扱い作業を容易にしている。

前照灯は屋根上中央に埋め込み式で1灯搭載し、腰部の標識灯も左右の腰板部に半埋め込み式で2段配置で、さらに両端の運転台部分は雨樋が省略されており、ここも欧州調の造形である。また、両端の客用扉下から前面にかけての運転台部分には短いスカートが端梁を覆い隠すように取り付けられており、これも流線形のシルエットの一部を構成している。

加えて製造当初は、当時の川崎車輛が私鉄向けガソリンカーに好んで装備した「カウキャッチャー」風排障器がスカートの下に取り付けられており、一見すると日本の鉄道車両とは見えない外観であった。

側面には大型の2段上昇式窓が並び、窓上の補強帯(ウインドウヘッダー)は幕板の内側に取り付けるようにして隠されており、平滑で洗練されたサイドビューを構成している。電車運行路線での運用のため、多くのガソリンカーのような低いホームでの運用は考えず、ステップを設けていない。

独特なスタイルの一方で、窓寸法を見ると幅790 mm、高さ850 mm でモハ510形(デハ3450形更新前)と同一となっており、これはガラス予備品の共通化を狙ったと思われる。

車内は各客用扉間にロングシートを設置し、運転台は半室式である。

主要機器

エンジン・変速機

エンジンは川崎KP170(排気量16.98 L水冷直列8気筒、連続定格出力170 PS / 1,500 rpm)で、実質的には鉄道省キハ42000形用制式エンジンであるGMH17そのもの[5]である。

ただし、連続定格出力150 PS / 1,500 rpm のGMH17とは異なり、170 PS / 1,500 rpm を公称しているが、その理由は定かではない。このGMH17は通常の私鉄ガソリンカー用としては大きすぎた[6]ため、日本内地では東横以外での採用例はない。

変速方式は機械式で4段変速のD211、クラッチはキハ42000形同様空気圧による遠隔制御を行う。これらは基本的には鉄道省標準品相当であるが、キハ42000形が高速運転を重視して逆転機内装の最終減速機の歯車比をキハ41000形の3.489から2.976に変更したD208を採用していたのに対し、本形式ではキハ41000と同じ3.489(加速重視)のD207のままとなっている。

台車

台車は日本車輛製造が試行錯誤の末に確立し、当時の気動車でほぼスタンダードな方式となっていた軸距2,000mmの菱枠形軸ばね台車で、軸受にはローラーベアリングを採用する。

これも鉄道省TR29相当品である。

ブレーキ

ブレーキは連結運転を重視しない運用計画から、鉄道省制式気動車に標準採用されていた自動直通兼用のGPSブレーキではなく、より簡素な構造のSME非常弁付き直通ブレーキ手ブレーキとともに搭載している。ただし、非常管と直通管の2本の空気管コック連結器脇に用意されており、連結運転に対応可能となっている。

連結器

連結器は鉄道省でも制式採用されていた、自動連結器から「自動連結・解放」の機能を省略し軽量化を図った簡易連結器[7]を装着する。

この連結器は強度が低く連結解放が不便であったが、連結運転をほとんど行わない本形式では特に問題ないと判断され、軽量化のメリットを重視して採用されている。

運用

本形式は電車と比較した場合、出力不足が著しく、計画中の急行普通列車ダイヤでの走行試験の結果、上り線で多摩川園前(現・多摩川)に停車すると、多摩川園前 - 田園調布間にあった連続勾配を登ることは無理と判明した。

このため、専用ダイヤを設定の上で急行に充当されたが、実際に運用されるとエンジントラブルの多発に悩まされ、また、前記田園調布 - 多摩川園前間等の勾配区間での出力不足はいかんともしがたいものであった。

そうこうするうち、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発に伴う燃料統制によって、ガソリンカーの運行コストは急騰、キハ1形の活用は早期に諦められ、以降は本来の電車増備で輸送力増強がなされることになった。

1939年(昭和14年)には早くも五日市鉄道(現・東日本旅客鉄道五日市線)にキハ2・8の2両が売却され(前年より貸出)された。この2両はのちに五日市鉄道が南武鉄道を経て国鉄買収されるに伴い国鉄籍となったが、戦後1950年(昭和25年)に鹿島参宮鉄道(のちの関東鉄道)に払い下げられ、同社のキハ42201・42202として1970年代後半まで運用された。また、この間ディーゼルカーに改造されている。42201は、末期には流線型運転台を切妻形に改造されている[8]

残り6両は1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)にかけて、東横の資本系列の非電化路線である神中鉄道(現・相模鉄道)に譲渡された。神中鉄道は1940年当時、ガソリンカー・ディーゼルカーを大小合計20両近くも保有する先進的な鉄道会社で、1935年(昭和10年)から1940年(昭和15年)までに国産エンジン搭載のディーゼルカーを11両も製造して運行実績を上げていた。しかし、燃料統制下で木炭石炭などの代燃ガス発生装置(木炭自動車を参照)の活用が強いられるようになると、その種の燃料が使えないディーゼルカーは不利になり、代わって旧東横のガソリンカーが主力となった。これらの一部は1942年(昭和17年)以降、コーライト(石炭を低温乾留して製造する半成コークスの商品名)・無煙炭用の代燃ガス発生装置を装備された代燃車となり、流線型の前頭部に代燃炉を外付けした姿で運用された。

ファイル:Hitachi2501.jpg
日立電鉄クハ2501(元キハ4)

1943年(昭和18年)には神中鉄道が相模鉄道(当時。現・東日本旅客鉄道相模線)に合併されたことで相模鉄道籍となり、旧相模鉄道線の国家買収と旧神中線の電化に伴って、1947年(昭和22年)頃までに電車(無動力の制御車)に改造、クハ1110形となった[9]。中には戦後の一時期、車両不足の応援のため東横線に復帰して運用されたものもある。後に、妻面を流線型から丸妻に改造、さらに形式はクハ2500形となっている。相模鉄道の車両近代化に伴って日立電鉄に2両(クハ2500形)、日立製作所水戸工場[10]に1両、上田丸子電鉄に2両(クハ270形)がそれぞれ譲渡され、特に日立電鉄への譲渡車は1992年平成4年)まで運用されていた。 テンプレート:-

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:東京急行電鉄の車両 テンプレート:相模鉄道の車両

テンプレート:南武鉄道の車両
  1. ただし、大阪電気軌道は貨物電車の気動車化を検討した形跡があり、計画図が現存している。
  2. 東急50年史によると、当時の電車1両は4万円に対しガソリンカーは3万5千円で割安、変電所増強には更に9万円を要した。
  3. なお、最多記録は1930年から1931年にかけて日本車輌製造(日本車輌)本店が名古屋鉄道の前身である名岐鉄道へ納入した、キボ50形の10両である。
  4. もっとも、これは当時のドイツフランスなどの流線形電車・気動車の影響が色濃い。
  5. 川崎車輛は鉄道省向けにGMH17・GMF13(直列6気筒)エンジンを製造供給しており、GMF13についても相当品をKW127として江若鉄道へ納入している。
  6. 例えば本形式よりも大型の江若キニ4形ではウォーケシャ(en:Waukesha Engines)6RB(排気量11 L、120 HP / 1,600 rpm)、キニ9形でもGMF13搭載で、いずれもGMH17よりも小排気量の機関である。ただし、戦後はこれらもGMH17のディーゼルエンジン版であるDMH17Bに機関を換装している。
  7. 川崎式簡易連結器と呼称する。ただし、実態は日本車輌製造が開発した簡易連結器のデッドコピー品であり、その構造にオリジナルである日本車輌製造製との差異はない。
  8. 同時代の江若鉄道が実施していた総括気動車による気動車列車構想に影響され、将来は総括制御化改造の上で編成の中間車として使用可能とすることを念頭に置いた改造であったとされる。ただし、この計画は実現せず、これら2両は機械式変速機搭載のまま廃車まで使用された。
  9. キハ5のみ1948年(昭和23年)廃車。
  10. 勝田駅と水戸工場を結んだ専用線。1959年にクハ2503が譲渡され国鉄オハ31形と共に通勤列車としてバッテリー機関車に牽引され使用された。(古沢明・近藤明徳「日立製作所水戸工場の通勤車」『鉄道ファン』No.76)