東京オリンピック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:告知 テンプレート:Notice テンプレート:オリンピックインフォメーション 東京オリンピック(とうきょうオリンピック)は、1964年昭和39年)10月10日〜24日に日本東京で開かれた第18回夏季オリンピック

概要

1940年大会の開催権を返上した日本及びアジア地域で初めて開催されたオリンピックで、また有色人種国家における史上初のオリンピックでもある。歴史的には、第二次世界大戦で敗戦し急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持った。

また、1940年代から1960年代にかけてヨーロッパ諸国やアメリカによる植民地支配を破り、次々と独立を成し遂げたアジアアフリカ諸国による初出場が相次ぎ、過去最高の出場国数となった。

開会式は10月10日、閉会式は10月24日に行なわれた。開会宣言は昭和天皇、組織委員会会長は安川第五郎、準備委員長は新田純興であった。開会式の10月10日は、1966年(昭和41年)以降体育の日として親しまれるようになったが、体育の日は2000年平成12年)より10月の第2月曜日となっている。10月10日が選ばれた理由について「東京の晴れの特異日であったことから」とよく言われるが、実際には10月10日は統計的に晴れが多い日とは言いがたい(特異日も参照)。

大会開催までの経緯

ファイル:Yomiuri Shimbun newspaper clipping (27 May 1959 issue).jpg
開催地決定を報じた読売新聞(1959年5月27日付)

1940年昭和15年)夏季大会の開催権[1]を返上した東京は、1954年(昭和29年)に1960年(昭和35年)夏季大会開催地に立候補した[2]が、翌1955年(昭和30年)の第50次IOC総会における投票でローマに敗れた。次に1964年(昭和39年)夏季大会開催地に立候補し、1959年昭和34年)5月26日西ドイツミュンヘンにて開催された第55次IOC総会において欧米の3都市を破り開催地に選出された。

得票数は東京が過半数を超える34票、デトロイト10票、ウィーン9票、ブリュッセル5票だった。特に、総会での立候補趣意演説を行なった平沢和重(外交官)や、中南米諸国の支持を集めるために奔走したロサンゼルス実業家フレッド・イサム・ワダ(和田勇)、当時都議であった北島義彦、「日本レスリングの父」といわれた八田一朗らの功績が大きかった。和田は育った御坊市で名誉市民第1号となっている。

1957年(昭和32年)当時、日本水泳連盟会長を務めていた田畑政治は、オリンピック招致費用を2013年現在の価格に換算して1200億円掛かる事を懸念していた岸信介首相に、観光収入も見込めると直談判した[3]

1964年夏季オリンピック 開催地投票
都市 投票数
東京 テンプレート:Flagicon 日本 34
デトロイト テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国 10
ウィーン テンプレート:Flagicon オーストリア 9
ブリュッセル テンプレート:Flagicon ベルギー 5

開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として国立競技場をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した国家プロジェクトとなった[4]。開催にあたり、組織委員会は巨大な東京オリンピック公式ポスターを都市部に設置、デザインは亀倉雄策が手掛けた。

実施競技と日程

各競技の詳細については、それぞれの競技のリンク先を参照のこと。

競技名 / 日付 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24
開会式
陸上競技
競泳競技
飛込競技
水球
体操
柔道
レスリング
自転車競技
バレーボール
バスケットボール
サッカー
ボクシング
ボート
セーリング
カヌー
フェンシング
ウエイトリフティング
ホッケー
近代五種競技
馬術
射撃
閉会式

公開競技

デモンストレーション

ハイライト

開会式

テンプレート:Main

競技

閉会式

テンプレート:Main

東京オリンピックのメダル

オリンピック・メダル

東京オリンピックのメダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作り作成した。

デザインは金・銀・銅、共に、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、また「大会名、競技名」を記載してある欄があった。

サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。

重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。

製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。

価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されだが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。

各国の獲得メダル

テンプレート:Main

1 テンプレート:FlagIOC 36 26 28 90
2 テンプレート:FlagIOC 30 31 35 96
3 テンプレート:FlagIOC(開催国) 16 5 8 29
4 テンプレート:FlagIOC 10 22 18 50
5 テンプレート:FlagIOC 10 10 7 27
6 テンプレート:FlagIOC 10 7 5 22
7 テンプレート:FlagIOC 7 6 10 23
8 テンプレート:FlagIOC 6 2 10 18
9 テンプレート:FlagIOC 5 6 3 14
10 テンプレート:FlagIOC 4 12 2 18

主なメダリスト

ファイル:BillyMills Crossing Finish Line 1964Olympics.jpg
10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)
ファイル:Bundesarchiv Bild 183-C1012-0001-001, Tokio, XVIII. Olympiade, Ingrid Krämer.jpg
女子飛び込みで優勝したクレーマー(統一ドイツ)

競技会場

東京23区内

ファイル:KokuritshuKasumigaoka-6.JPG
国立霞ヶ丘陸上競技場
ファイル:Yoyogi Gymnasium.jpg
国立代々木競技場第一体育館

周辺地域

東京都(23区を除く)

神奈川県

埼玉県

千葉県

長野県

選手団

  • 各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。
  • 選手村
  • 食事[7]
    • 選手村では大会期間中、毎日7,000食もの食事が作られた。
    • 選手村の開村から閉村までの期間中に供された食事はのべ60万食にも及んだ。
    • 選手村には選手用の食堂が2ヶ所あった。食堂の名前は一つは「富士 (Fuji)」で、もう一つは「桜 (Sakura)」だった。
    • 「富士食堂」は帝国ホテルが、「桜食堂」はホテルニューグランドが担当した。
    • 食堂のコックの数は2つあわせて総勢306名もいた。
    • 選手村における選手の食費は「1人あたり1日6ドル以内(1ドル360円換算で2160円)」と決められていた。
    • イスラム教徒用の食事を調達するため日本在住でイスラムのと殺免許と日本の調理師免許を持った人を探し出して(当時、この条件に合う人は日本で1人だけだった)その人に選手村でイスラム教徒向けの料理を作ってもらった。
    • フランス選手団は自前でフランス料理の調理人をフランス本国から連れてきた。
    • 選手食堂で開村から閉村までの期間中に消費された食材は、牛340頭、豚280頭、ヒツジ600頭、ニワトリ6万羽、えび・鮭・ヒラメ合計46トン、野菜356トン、鶏卵72万個、米16トン、食パン8万6千斤、牛乳50万本、だった。
    • 大量の食事をまかなうために、冷凍食品の技術や解凍法や調理法が向上した。
  • その他
    • 選手村の警備警視庁の他に陸上自衛隊も担当した。朝霞駐屯地の隊員約360名が7月16日より大会終了後まで交代で任務についた。
    • 7月9日午後9時頃に選手村246号館から火災が発生して30平米を焼いた。原因はガス工事のためと推察された。

開催に向けての整備

この東京オリンピックの開催にむけて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。

競技場等の施設

交通機関・道路等のインフラ

宿泊施設

聖火

ファイル:TokyoOlympics1964Opening.jpg
トーチを手に聖火台へと向かう坂井義則
ファイル:東京オリンピック聖火トーチ.jpg
東京オリンピック聖火トーチ

計時

  • セイコー(現セイコーホールディングス)が初めてオリンピックの公式計時を担当した。セイコーは電子計時を採用、オリンピック史上初めて計測と順位に関してノートラブルを実現し、世界的な信頼を勝ち取ることに成功した。

交通規制

東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。

そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。またそれ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。また、その他にマラソン競歩自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。

東京オリンピック開催が日本にもたらした影響

  • 東京オリンピックの開催期間には、1964年昭和39年)10月14日のソ連のニキータ・フルシチョフ首相解任、10月16日の中華人民共和国(後述の通り本大会には不参加)による初の核実験など国際的事件が次々と起こった。これにより、「世界の注目を奪われた面もある」と考えられる一方、激動の世界情勢を反映する場として注視の的になるという面もあったようである。この大会はこれらの事件とともに世界史の一つの転換点であった。
史上初の3人乗り宇宙船であるソ連ボスホート1号(1964年10月12日打ち上げ、10月13日帰還)は東京上空を飛行するにあたり、オリンピックに参加する「世界の青年に熱烈なあいさつを」送った。
キング牧師ノーベル平和賞受賞が決定したのも、会期中の10月14日のことである(実際の受賞は12月10日)。
イギリス領北ローデシアは閉会式の日にあたる1964年10月24日(日本時間では同日午前7時)にザンビアとして独立したため、開会式と閉会式とで異なる国名となった。選手村の国旗なども同日をもって新国旗に付け替えられた。
  • 東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。
  • 東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。その為、娯楽性の高い「バラエティ番組」が増えたといわれる。
  • 特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず地下鉄モノレールホテル首都高速道路など様々なインフラストラクチャーの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した[12]。これらの殆どは現在に至るまで改良を重ねながら利用されている。特に首都高速道路の建設は急ピッチで進められ、東京国際空港(羽田空港)から国立競技場(その先の新宿まで開業)までつながり、途中で銀座東京駅(呉服橋)・皇居周縁・国会議事堂霞ヶ関官庁街などの主要施設を経由するルートが大会前に完成したが、用地買収の期間を省くために日本橋川上空などが利用され、日本橋も首都高速道路の高架の下に隠れる事となり、東京都心部の親水空間は減少した。
  • 「ゴミ都市」と呼ばれていた東京に、都の主導でゴミ収集車が250台導入され、また、積水化学製のポリバケツが普及した。
  • オリンピック組織委員会が、代々木選手村の整備期間中及び大会期間中の警備に際しては警察官の人員不足を考慮して、民間警備会社『日本警備保障』(現在のセコム)に警備の依頼を行った。この民間警備会社による警備が無事に終了したことを機に、日本の社会に民間警備が認知されるようになっていく[13]
  • 東京オリンピックで初めてコンピュータによるリアルタイムでの記録管理が行なわれたことも、地味ではあるが特筆すべき事項である。それ以前のオリンピックでもコンピュータは使われていたが、あくまで記録管理はバッチ処理により行なわれており、最終的な公式記録の確定・レコードブックの作成には大会終了後数ヶ月を要していたのに対し、東京オリンピックではプレスセンターのある日本青年館に設置されたコンピュータによりリアルタイムで記録が管理され、全競技会場に置かれた端末で入力された各競技の記録が集められただけでなく、端末では他会場の競技結果も参照することができたという。また公式記録の確定も速やかに行なわれ、大会最終日の閉会式において全競技の記録を記したレコードブックが当時のアベリー・ブランデージIOC会長に渡された。同システムの構築は日本アイ・ビー・エムが約2年半がかりで行なったもので、プロジェクトリーダーを務めた竹下亨(後に中部大学大学院経営情報学研究科教授)はこのシステム構築に関する論文をまとめた功績で、1988年(昭和63年)に山内業績賞を受賞している。本システムの成功は、日本においてリアルタイムシステムが普及する大きな契機となり、同プロジェクトのメンバーはその後三井銀行第一次オンラインシステムマツダの生産管理システムなど多くのリアルタイムシステムを手がけていくことになる[14]
  • 森永卓郎(経済評論家)によると、チキン弁当は、外国人用の駅弁を考えていた時に、当時の食堂車のコックの洋食まかないを参考に考案され、福岡銘菓のひよ子も1964年に東京に進出して東京銘菓になった[15]
  • それまで社会人のスポーツは見る物だったが、ママさんバレーに代表される参加するスポーツが盛んになり、公共のスポーツ施設が各地に造られていった。

「テレビ・オリンピック」

東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。

東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。

スローモーションの放送技術で、試合直後に微妙な対戦結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。

日本では1959年(昭和34年)のミッチー・ブーム以降テレビ受像機(白黒)の普及が急速に進み、1959年(昭和34年)に23.6%だった普及率は1964年(昭和39年)には87.8%に達した。当時非常に高価だったカラーテレビ受像機は、東京オリンピックを契機に各メーカーが宣伝に力を入れ始めた。メディアでの昭和世相史に関する記事等で「東京オリンピックの時期にカラーテレビが普及した」という趣旨の記述が見られることがあるが、1966年(昭和41年)まではカラーテレビの普及率は1%未満であり、メキシコシティオリンピックが行なわれた1968年(昭和43年)の調査でも5.4%で、カラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年(昭和48年)である。

また、当時アメリカ支配権下にあった沖縄では、当時の琉球政府大田政作主席が「早期復帰がかなわないのなら、せめて本土と同じ時間にテレビが見たい」[16]と関係各所に陳情、これによって、電電公社のマイクロ回線が那覇まで延伸されることとなり、山岳回折を用いた見通し外通信によって建設が進められ、東京オリンピック直前の1964年9月1日に開通し、沖縄でも同時に放送された。なお、沖縄からは出場した選手は1人もいない。NOCを作って沖縄として出場する案もあったが、島ぐるみ闘争の激化で「1地域としての五輪参加はアメリカによる沖縄の恒久支配を意味する」との意見もあり設立されなかった。結果的に沖縄住民の日本人意識を高め、1972年5月15日の領土返還へとつながっていった。

ポスター

東京オリンピック第2号ポスター(第1号ポスターは縦長の全体が白地に、赤い日の丸の下に、金の五輪マークと金字のTOKYOと1964のイラスト)は、歴代大会のオリンピックポスターがイラストであったのを、グラフィックデザイナー亀倉雄策のデザイン、ストロボ写真演出早坂治で、オリンピックポスター初の写真ポスターである[17]

日本選手団のユニホーム

東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。

  • 開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)
    • 石津謙介デザインの上半身は明るい赤色公式ブレザー、下半身は純白、のかなり派手なデザインの服装だった[18]。このユニホームは「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。女子は白色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。
  • 選手村などで着るユニホーム
    • 開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。
  • トレーニングウェア
    • 大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。

記録映画

『東京オリンピック』

テンプレート:Infobox Film 総監督を務めることになった市川崑は、自身とその妻で脚本家の和田夏十の名コンビに加え、新鋭脚本家の白坂依志夫と詩人の谷川俊太郎という布陣で、そもそも筋書きなどはないはずのオリンピックのためにまず緻密な脚本を書き、これをもとに壮大なドラマである『東京オリンピック』を撮るという制作手法をとった。日本を代表するカメラマンとして世界的にも名を知られた宮川一夫が主導した撮影にも、アスリートの心情の表現を重視した演出や、超望遠レンズをはじめとする複数のカメラを使った多角的な描写などを駆使し、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。しかしそれは、1936年のベルリンオリンピックを記録したレニ・リーフェンシュタール監督の『民族の祭典』と並んで、「芸術か記録か」という大論争を引き起こすことになった。

完成披露試写の2日前(1965年3月8日)におこなわれた関係者のみの試写会で本作を鑑たオリンピック担当大臣の河野一郎は、「俺にはちっともわからん」「記録性をまったく無視したひどい映画」とコメントし、「記録性を重視した映画をもう一本作る」とも述べた[19]。文部大臣の愛知揆一も「文部省として、この映画を記録映画としては推薦できない」という声明を3月16日に出した[20]。東宝は市川に映画の修正を求め、市川は試写版に日本人金メダリストやオリンピック建造物の映像を追加して公開版を作成した[19]

この状況で、女優の高峰秀子は3月18日付の東京新聞に「市川作品はオリンピックの汚点だなとと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名のつく人物のすることではない」と市川を擁護する意見を投稿した[21]。高峰はさらに単身河野に面会し、映画と市川の優れた点を訴えるとともに、河野が市川と面談するように求めた[22]。このあと河野は3度にわたって市川と面談する機会を持ち(うち2回は高峰も同席)、最終的に市川ら関係者の努力を認め「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画プロデューサーの田口助太郎(東京オリンピック映画協会会長)に電話して矛を収めることとなった[23]

この時の騒動について市川は映画の完成から20年後に「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていないのが気に食わなかった。作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。今から言えば笑い話ですがね」とインタビューで語っている[24]

英語版では大会組織委員会が再編集を施し、上映時間が日本語版より40分短い作品に仕上げている。一方市川自身も、2004年(平成16年)にオリンピック開催40周年を記念して発売されたDVDでは、本人が再編集したディレクターズカットを公開版と併せ収録している。このディレクターズカット版も、公開当時に全体のバランスから入れざるを得なかった競技や、やや創作に偏り過ぎたというチャド共和国の陸上アスリート、アフメド・イサのエピソードがカットされたため、公開版より22分短い。

さまざまな波紋を広げながらも、『東京オリンピック』は日本国内で12億2321万円の配給収入を記録。同年度のカンヌ国際映画祭では国際批評家賞受賞した。また映画館の他にも日本各地の学校や公民館で上映会が開かれたことから、その観客動員数は一般観客750万人、学校動員1600万人の合計2350万人で、事実上日本映画史上最多であるといわれている[25]

この映画のタイトルは一般公募され4万7千通もの応募があり、その中から監督の市川が選ぶというかたちを取ったが市川は結局のところ「いちばん簡潔なものを」ということでタイトルは「東京オリンピック」に決まった[26]

映画の製作はオリンピック開催の4か月以上も前の5月28日、オリンピック会場の建設現場でそれまで建っていた建物が壊されるシーンの撮影からクランクインした[27] 。使用されたカメラは103台、レンズは232本、撮影したフィルムの長さは40万フィート、録音テープの長さは6万5千メートル、携わったスタッフは総勢556名にも及び撮影と編集には莫大な労力を費やした。効果音はほとんどが後付けであり、富士山をバックに聖火ランナーが走るシーンなども別撮りである。

撮影を進めるうえで「実際に競技している音を望遠マイクで拾うために1,700万円」、「競技場の臨場感を再現するステレオ録音にするため680万円」、「閉会式など夜間の明かりが暗い場所で撮影するためF値の明るい超望遠レンズの調達に780万円」、等々と経費が次々とかさみ、最終的な制作費は3億5,360万円まで膨れ上がった[28]

最初に話を受けたのは黒澤明だったが予算の関係から断り、次に今井正今村昌平渋谷実新藤兼人ら複数の監督に話が流れ、最終的に市川が引き受けた。

撮影スタッフの一人に山本晋也がおり、市川に「選手の癖を撮れ」と言われ、非常に困ったと後に話している。

『東京オリンピック』(英題:テンプレート:En
 イーストマンカラー、35mm ワイドスクリーン (2.35 : 1)
 170分

『オリンピック東京大会 世紀の感動』

市川崑が総監督を務めて制作された『東京オリンピック』のフィルムを新たなスタッフが再編集・再構成し、シナリオを執筆した作品。1966年5月15日公開。市川の『東京オリンピック』に比べ、実況を含んだ解説の流れる部分が多く、「記録映画」の色彩が濃いため、いわゆる「ドキュメンタリー」に分類されている。

『オリンピック東京大会 世紀の感動』

 154分

テレビドキュメンタリー

2013年8月NHK総合テレビジョンで3部作として放送。

テンプレート:See also

テレビの関連番組

  • NHKテレビの放送開始60周年記念事業として、2013年に当時の映像記録を視聴者などから提供したもので構成した特別番組が編成されている。何れもNHK BS1にて放送
    • 2013年1月1日 「伝説の名勝負・東洋の魔女 世紀の金メダルロード」
    東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール日本代表が金メダルを決定させるソビエト戦のノーカットフルタイムの映像が視聴者から提供された。この試合に関与した選手や、その試合を観戦した著名人各氏のインタビューを交えてその試合を振り返った。[29]
    • 2013年12月31日 「よみがえる東京オリンピック1964→2020半世紀を経て発見!20時間の競技映像」
    NHKの取材班は2020年の東京五輪開催決定前の事前取材で、1964年に行われた同大会の記録映像となる16㎜フィルムを発見した。この中にはNHKのライブラリーにも残されていない映像も多数発掘された。そこで、この映像にラジオのアーカイブス音源を絡ませ、この大会に参加した選手や当事者へのインタビューを交え、1964年五輪の記憶をよみがえらせる[30]

楽曲

『東京オリンピックの歌「この日のために」』、『東京オリンピック音頭』の2曲は公募当選歌で、選定は日本体育協会オリンピック東京大会組織委員会東京都が行ない、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都、文部省日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援によって1962年(昭和37年)に制作され、5月8日には、東京都体育館で日本ビクター主催の「オリンピックの歌発表会」が催された。

記念発行物

ファイル:TokyoOlympic100.jpg
記念貨幣(100円銀貨)
ファイル:TokyoOlympic1000.jpg
記念貨幣(1000円銀貨)
「出場記念」として東京オリンピック記念切手を発行した国としては中華民国(台湾)韓国ソ連、北朝鮮(ボイコット)などがある。

その他

  • 新興国競技大会 (GANEFO) への参加選手への資格停止処分をめぐり、国際陸上競技連盟国際水泳連盟と対立していた朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とインドネシアは、直前まで参加予定で選手団も日本に来ており、組織委員会は両国の参加を実現すべく両者の間に入り調整を続けていたが対立関係は修復されず、両国とも開会式の前日(10月9日)に不参加届を組織委員会に提出して参加を取りやめた[31]
  • 当時アパルトヘイト政策をおこなっていた南アフリカの参加をめぐって、これに反対、抗議するアフリカ・スポーツ最高会議の要請を受けて、国際オリンピック委員会は南アフリカの参加を拒否。これに反発した南アフリカはオリンピック参加を辞退し、アフリカ各国のボイコットは回避された。
  • 中華民国と「中国を代表する国家」の地位をめぐって対立していた中華人民共和国は、独立したNOCとしてIOCに加盟していた中華民国の扱いへの反発から1958年にIOCを脱退していたため、当初より参加の予定はなかった(新興国競技大会の項目も参照)。また会期中の10月16日に同国初の核実験原子爆弾実験)を行なっている。
  • 会期中に使用された国立代々木競技場選手村の本村、代々木選手村は、第二次世界大戦での日本の敗戦後に日本を占領下に置いた連合国軍の1つであるアメリカ軍によって設けられたワシントンハイツが返還された跡地に建設された。選手村で新築された4階建ての中層共同住宅形式の宿舎は1965年(昭和40年)以降、国立オリンピック記念青少年総合センターとなった。
  • 開会式では、1年半を海の上で訓練したブルーインパルスF-86が貴賓席から見えるよう、上空3000メートルに五色のスモークで直径1800メートル各五輪の間隔300メートルで五輪のマークを描いたことで話題を呼んだ[9]
  • 開会宣言の前にIOCのブランデージ会長が片言の日本語で「開会宣言を天皇陛下にお願い申しあげます」と述べた後、昭和天皇が開会宣言を行なった。
  • 当時、ボディビル剣道に勤しみスポーツに関心を持っていた作家の三島由紀夫が期間中のオリンピック・リポーターとして採用され、式典、各競技の感動の模様を伝える記事を毎日新聞報知新聞朝日新聞などに分載形式で連載している[32]
  • 選手村においてブルガリア人選手同士が結婚式を挙げた。これは史上初のことであった。
  • 折からガンで入院していた池田勇人首相は、10月10日の開会式には参加したが、閉会式翌日の10月25日に退陣を発表した。
  • 日本のお家芸と言われた男子体操団体は、ローマ大会に続いて2連覇を果たしたが、前回のローマ大会と東京大会に限って団体総合では1つしかメダルが授与されていない。東京大会では女子も団体で銅メダルを獲得したが、チームへの一つだけである。他の団体競技では選手全員にメダルが授与されているので、このようなケースは珍しい。2006年10月19日になって表彰の楯が各選手に贈られた[33]
  • 閉会式は誘導のトラブルからこれまでの慣例と違い国別の整然とした行進にならなかったが、そのために却って、各国の選手が入り混じり腕や肩を組み合って入場するものとなった。その後のオリンピックでは東京方式が採用されるようになった。ただし国別に選手が入場しなかったのはメルボルンオリンピックが先である。
  • マラソン競技は全コースが生中継されたが、オリンピックのマラソン競技が全コース生中継されたのはこの東京オリンピックが世界最初である。なお、この生中継はNHKが担当したが、全コースを生中継するためにNHKはテレビ中継車7台、ヘリコプター1機、を投入し放送用カメラは全部で26台もあった。また沿道にカメラを設置し、移動中継車やヘリコプターなどを経てNHK放送センターへ画像を送るなどして見事に全コースの生中継を全世界へ送り届けた。
  • 案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。開催時に外国語(特に英語)によるコミュニケーションをとることができ難い当時の日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。競技種目ピクトグラムを制作したのは山下芳郎1人である。
  • 大会後の日本における祝勝会にはメダル取得者が呼ばれていたが、男子バレーボールチームは競技でメダルを取ったにも拘らず、連絡ミスにより参加できなかった。
  • 諸外国から来日するオリンピック関係者や各国元首たちを接待するためのコンパニオンを30名採用した。このコンパニオンは一般公募などされたが総理大臣の次女と三女、日本オリンピック委員会長の長女、日立製作所顧問の長女など大会関係者の子女が数多く含まれていた。そのうちの一人の西村亜希子報知新聞の企画で対談したプロ野球読売ジャイアンツ長嶋茂雄1965年(昭和40年)に結婚した。
  • 公募で決まった公式標語は「世界は一つ東京オリンピック」。名古屋の中学生の作品。
  • 柔道会場の日本武道館には日本古来の稲藁やシチトウを用いたが敷かれた。その後のオリンピックではビニール・プラスティック素材のマットに変わる。
  • 1966年、アメリカ映画『歩け走るな!』(コロムビア映画チャールズ・ウォルタース監督、ケーリー・グラント主演)が制作・公開された。オリンピックを含めた当時の東京の様相が色濃く描かれている。
  • 日本国内ではチケットの売れ行きが好調で種目によっては徹夜で売り場に並ぶなどの現象も見られた。しかし海外におけるチケットの売れ行きはあまり良くなかった。当初の割り当て分を全て完売したのは大韓民国(韓国)のみでそれ以外の国々では競技によっては完売したチケットがあったが、全て完売した国は無かった。その理由について「チケットを買ってもホテルが予約できないので行けない」という声が多かったという[34]。なお、日本と韓国はまだ外交関係を結んでいなかったが[35]、北朝鮮と異なり、韓国は東京五輪に参加した。
  • 日本中の関心がオリンピックに集中したため、プロ野球もこれに配慮して公式戦の日程を前倒しして消化し、日本選手権シリーズの日程もプロ野球史上最も早い9月29日開幕、第7戦予定は10月7日としていたが、南海ホークス阪神タイガースの関西圏チーム同士で争われた実際の1964年の日本シリーズは10月1日開幕となった上、雨天による試合延期や両チームが3勝ずつで並ぶ接戦などもあって、阪神甲子園球場で行われた第7戦はオリンピック開会式当日の10月10日の夜となり、注目度は大きく下がった[36]
  • 日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人だった[37]
  • 統一東西ドイツが金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され交響曲第9番 (ベートーヴェン)が演奏された。
  • 東京オリンピックにおいて国立競技場に翻っていた五輪旗は、その見事な大会運営に感動したアベリー・ブランデージIOC会長から組織委員会会長の安川に寄贈され、その後安川から母校である修猷館高校に寄贈されている。現在は修猷館高校の体育館に額に入れて飾られており、以前は同校の運動会の入場行進において使用されていた(現在はレプリカを使用)。
  • 2005年(平成17年)に東京都石原慎太郎知事は、2016年(平成28年)の夏季オリンピック開催地に立候補する意向を表明した。1964年大会で使用した施設の中では国立霞ヶ丘競技場がマラソンコースの起点となり、代々木体育館や日本武道館も使用されるが、競技の中心は新設の東京オリンピックスタジアムなどの臨海部で開催される計画案を作成したが、2009年のIOC総会による投票で2016年のオリンピックはブラジルリオデジャネイロで開催されることが決定された(2016年東京オリンピック構想も参照)。その後、石原都知事は2020年のオリンピックについても再び東京への招致を表明し、石原の後任の猪瀬直樹知事の下、2020年は56年ぶりに東京でオリンピックを開催することが決定した(2020年夏季オリンピックの開催地選考も参照)。

東京オリンピックを扱った小説

  • オリンピックの身代金
    • 奥田英朗著のフィクション。東京だけが日本中の富と繁栄を独占し、地方はいまだ貧困から抜け出せない現状に憤った秋田出身の主人公島崎国男が「東京オリンピック」を人質に国家から金を強請るストーリー。庶民には手の届かないカラーテレビ、東京の開発に駆り出され命を落とす労働者たち、郊外へ移り住む団地族など日本の高度経済成長時代当時が詳しく描写している。

注釈

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:東京オリンピック実施競技 テンプレート:Navbox テンプレート:日本の経済史

テンプレート:市川崑
  1. 夏季大会は非開催でも回次はそのまま残るため、東京は回次上では2回目の開催扱いとなる
  2. 朝日新聞1954年(昭和29年)10月10日,6面.
  3. 2013年8月20日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第2回オリンピック招致にかけた男たち」
  4. 当時の大卒初任給は国家公務員I種で23,300円であった。
  5. 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p205
  6. 日本オリンピック委員会ホームページ内のメモリアルプレイスの記事[1]
  7. 選手村の調理に携わった調理師のエピソードは、『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の題材になっている(第94回「料理人たち 炎の東京オリンピック」、2002年8月27日放映)。
  8. 東京オリンピックサッカー競技の為に改装工事が行われた。
  9. 9.0 9.1 9.2 2013年8月19日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第1回平和の炎が灯った日」
  10. その後も聖火輸送を記念して、YS-11を運航する1社である全日空のYSには「オリンピア」の愛称が付けられていた
  11. トラックから聖火台までの階段の段数については、文献によって163や182など複数の説がある。坂井自身は167段と聞かされていた(小沢剛「心の聖地 スポーツ、あの日から」四国新聞2010年5月11日、20面)。
  12. 突貫工事による開業だったため、日本国有鉄道(国鉄)は路盤の安定に時間がかかるとして一部区間での徐行運転を実施し、東京駅-新大阪駅間は超特急ひかり」でも所要時間が4時間ちょうどに設定された。1年1か月後の1965年昭和40年)11月1日からは3時間10分に短縮された。
  13. 第7回 東京オリンピックの警備を受注 セコムオフィシャルサイト『創業物語』
  14. NHKスペシャル新・電子立国』第5巻「驚異の巨大システム」(相田洋著、日本放送出版協会、1997年)pp.48 - 95
  15. 「2020五輪で東京はこう変わる!大胆予測SPマル秘公開」テレビ朝日 2013年9月8日放送
  16. 2011年7月25日、琉球放送「RBC ザ・ニュース アナログ放送半世紀の歴史に幕」
  17. テンプレート:Cite web
  18. テンプレート:Cite web
  19. 19.0 19.1 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、pp.246 - 247
  20. 野地、2011年、p.247。文部省はすでに都道府県教育委員会に児童生徒が集団鑑賞する通達を出していたが、それについては「取り消さない」との但し書きが着いていた。
  21. 野地、2011年、pp.247 - 248。高峰は市川の監督デビュー作と2作目に主演するなど親しい間柄だった。
  22. 野地、2011年、p.249。河野は高峰の話を笑いながら聞き、「実は映画のことは少しも分からんのだ」と打ち明けたという。
  23. 野地、2011年、p.250。2度面談に同席した高峰によると、その模様は「和気あいあいで歓談しただけ」だったという。
  24. 1985年8月27日『朝日新聞』
  25. ギネスブック'84』講談社、1984年、p452。この記述は日本版で独自に編集された「特集・日本の記録」の項目に記載されたもの。
  26. 朝日新聞・昭和39年6月30日朝刊記事
  27. 朝日新聞・昭和39年5月28日夕刊記事
  28. 朝日新聞・昭和39年6月30日朝刊記事
  29. 伝説の名勝負紹介サイト
  30. NHK注目番組ナビ「よみがえる東京オリンピック」
  31. なお、北朝鮮がオリンピック記念切手を最初に発行したのも東京オリンピックのときである(内藤陽介『北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』雄山閣 2001年 ISBN 9784803503166)。
  32. 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」(毎日新聞 1964年10月11日)、「競技初日の風景――ボクシングを見て」(朝日新聞 1964年10月12日)、「ジワジワしたスリル――重量あげ」(1964年10月13日)、「白い叙情詩――女子百メートル背泳」(報知新聞 1964年10月15日)、「空間の壁抜け男――陸上競技」(毎日新聞 1964年10月16日)、「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」(毎日新聞 1964年10月18日)、「完全性への夢――体操」(毎日新聞 1964年10月21日夕刊)、「彼女も泣いた、私も泣いた――女子バレー」(報知新聞 1964年10月24日)、「『別れもたのし』の祭典――閉会式」(報知新聞 1964年10月25日)
  33. 国際オリンピック委員会ロゲ会長が来日レセプションの会場にて、東京五輪日本代表男子チーム・女子チームの選手全員に対し 「シンボル・オブ・リコグニッション」を贈呈した。(日本オリンピック委員会 日本オリンピアンズ協会
  34. 朝日新聞昭和39年5月19日朝刊記事
  35. 日韓基本条約の締結は五輪翌年の1965年。
  36. 観客数は1万5172人で、各年の日本シリーズ優勝チーム決定戦での最低観客数記録となっている。試合はジョー・スタンカの完封で南海が阪神に3-0で勝利し、南海としては最後の日本一となった。
  37. 2013年8月21日20時NHK総合放送「1964東京オリンピック〜第3回1億人の勝利をアスリートたちの挑戦」