東久邇宮稔彦王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東久邇稔彦から転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家 テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年明治20年)12月3日 - 1990年平成2年)1月20日)は、日本旧皇族陸軍軍人階級陸軍大将位階従二位勲等大勲位功級功一級皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。

貴族院議員陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣第43代)、陸軍大臣第34代)などを歴任した。千葉工業大学の創設者。

父は久邇宮朝彦親王香淳皇后昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。

第二次世界大戦後には、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで8月17日に首相に就任し憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示す一方、一億総懺悔を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策[1]を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した[2]。尚、この組織的抵抗は、日本占領下時代を通じて日本政府がまとまって抵抗の意思を表した唯一の事例である。

生涯

生い立ち

久邇宮朝彦親王の九男として1887年明治20年)に誕生。学習院初等科の同期生に、有栖川宮栽仁王北白川宮成久王北白川宮輝久王(のちに臣籍降下し侯爵小松輝久)、朝香宮鳩彦王がいた。また、のちの小説家里見弴もいて親友となる。

1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。陸軍に入り、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校(20期)、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。

留学

1915年大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)からフランスに留学。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ広く学んだ。そして、後述するように、この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネクレマンソーと親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。

留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、アジアの技術力の向上を目指し、興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)の創設に尽力している。なお、同校はテクノクラートを養成するための理工系高等教育機関として、小原國芳らが唱えていた新教育を基礎とし、精神教育の面は日本の咸宜園松下村塾等を手本とし、技術教育の面はヨーロッパフランス)のエコール・ポリテクニークを手本にして造られたといわれている。

軍人生活

帰国後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。

日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。

1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇と会談した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない。作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうもほんとうのことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、明治憲法の枠を越してでも天皇の大権によって陸軍の暴走を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、英国訪問時に感銘を受けた立憲君主制への拘りから、昭和天皇には宮の助言は届かなかったという。

日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。皇族であり対米戦争回避派である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、日米交渉妥結を志向する近衛文麿広田弘毅、海軍ら穏健派以外にも、強硬派の東條英機も東久邇宮が陸軍出身であることから賛成した。しかし皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。

日中の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索するも開戦に至る[3]。1941年(昭和16年)9月には頭山満蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。

1942年(昭和17年)の元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情をはじめて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。

太平洋戦争時は防衛総司令官陸軍大将に就く。大戦中は海軍高松宮宣仁親王と共に大戦終結のために奔走した。大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされている(宮城事件)。

内閣総理大臣として

ファイル:Cabinet of Prince Higashikuni Naruhiko.jpg
東久邇宮稔彦王(最前列)と内閣の閣僚

ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。

副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿外務大臣には重光葵大蔵大臣には津島寿一内閣書記官長情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には米内光政元首相が留任している。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した九月半ばに、後任外相として吉田茂を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日-23日)東久邇宮が兼任した。

新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇総理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ[4]

日本の降伏が告知されたものの依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で降伏文書の調印式が行われ、正式に太平洋戦争大東亜戦争)は終結した。

東久邇宮は8月17日におこなわれた日本人記者団との初の記者会見において、国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に国会で行われた施政方針演説においても次の様に発言した。

テンプレート:Quotation

テンプレート:Quotation

このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、国家政策の誤りを認めるとともに、国民の道義的責任についても言及するものだった。その発言は、戦争責任の所在を曖昧にするための理論だとして国民の間で反発を招く一方、問題への関心を高めた。

すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを防ぐため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、戦争犯罪に関して日本による自主的な裁判をおこなうことが決められた。

一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え[5]、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判の準備にとりかかっている。

東久邇宮首相は、新日本の建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら政治犯釈放は内務省の反対により実現しなかった。

内務省は、モーニングコートを着た「現人神」の昭和天皇が略装の軍服を着たマッカーサーと並び立っている会見写真の公表を取り締まろうとし、東久邇宮も同意したが、GHQにより拒否された。GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」を指令し、治安維持法治安警察法の撤廃、特別高等警察と内務省警保局の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、都道府県警察部長、特高課長など4000名の罷免を求めた。東久邇宮は赤化の危険を防止出来ないと考え、敗戦処理が一段落したこともあり翌日総辞職した。

首相辞任後

1946年2月に東久邇宮は、「宮内庁の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任をとるため退位する意思があること、これへの賛同者は天皇が「道徳的、精神的な責任」があると考えていることをAP通信記者に述べている。東久邇宮は早くから天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦犯裁判における昭和天皇免責を決定していたGHQでは、退位論の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および宮中と連絡してこれに対応した。

1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。

1948年尾崎行雄賀川豊彦下中弥三郎湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現世界連邦運動協会)を創設した。

1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。 1957年6月、東京の友愛ロッジにてフリーメイソンに入会[6]

1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山片山哲とともに三元首相の連名で時の首相・岸信介に退陣を勧告。

1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。

1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。

1979年(昭和54年)、聡子夫人と死別。同年暮れ頃から、「東久邇の妻」を自称する女性がいるとの噂があったため戸籍を調べたところ、知らぬ間に入籍されていたことが判明。「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)を相手取り、結婚無効の調停を起こした。調停が不調であったため民事裁判となったが、一審判決は婚姻は有効、高裁判決は無効とし、1987年(昭和62年)最高裁が上告を棄却したため婚姻の無効が確定した。

1990年平成2年)1月20日に102歳で死去。従二位に叙せられ、特例として豊島岡墓地に葬られる。

エピソード

  • 陸軍大学校在学中に明治天皇に陪食を命じられたが、下痢を理由にこれを断り、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)に叱責された。そこで明治天皇に臣籍降下を願い出たが、天皇は「年寄りを困らせるものではない」と取り合わなかった。
  • フランス留学前に自動車の運転を覚えていたが、当時の日本では運転は匹夫野人のすることで、皇族がハンドルを握ることなどもってのほかとされていた。そのフランス留学中に同じ留学中だった北白川宮成久王からドライブに誘われたが、「ロンドンに行く用がある」という理由で断った。代わりに朝香宮鳩彦王を誘ったが、北白川宮の運転する車はスピードの出し過ぎで立ち木に激突して、北白川宮は即死、朝香宮も重傷を負った。
  • 1941年(昭和16年)夏、アジア主義の大御所である頭山満に対して、日中和平の実現のため蒋介石との間で、和平会談を依頼した。蒋の承諾を得て実行に移そうとするも、途中で東条英機首相に止められ、会談は実現に至らなかった。
  • フランス留学中に、画家のクロード・モネについて絵筆をとった。モネに親友のジョルジュ・クレマンソーを紹介され親交を深めた。フィリップ・ペタン元帥やクレマンソーと会見した時に、両人より「アメリカが日本を撃つ用意をしている(オレンジ計画も参照)」との忠言を受け、帰国後、各方面に日米戦争はすべきでないと説いて回ったが、西園寺公望以外は誰も耳を傾ける者はいなかった。日米交渉も大詰めを迎えた1941年(昭和16年)、近衛内閣で陸軍大臣の地位にあった東條英機に、稔彦王はこのクレマンソーの忠言を披露し、陸軍も日米交渉に協力すべきと説いたが、東條は「自分は陸軍大臣として、責任上アメリカの案を飲むわけにはゆかない」と応答した[9]
  • フランス留学中に東久邇宮は「自分は画家である」と老婆の手相見に言ったが、手相見は「あなたは日本の首相になる」と言った。東久邇宮は身分を明かして「私は日本の皇族でしかも軍人である。日本では皇族や軍人が政治をやることは禁じられているから、首相にはなれない」と反論したが、「いや、日本に大革命か大動乱が起きる。その時に必ずあなたは首相になる」と言い切った。実際に首相に就任してからこの話を思い出し、「老婆の予言が当たったので、薄気味悪く感じた。私は迷信が大嫌いだったが、占いもバカにならぬと思った。」と、日記に書いた[10]
  • 武装解除の際、小園安名海軍大佐率いる第三〇二海軍航空隊(神奈川県・厚木飛行場駐留)は、翌15日の玉音放送の後も降伏を受け入れず祖国防衛を目的として徹底抗戦を主張、若い隊員たちも数日にわたって戦闘機からビラ撒きをするなどの反乱状態に陥った(厚木航空隊事件)。8月16日、米内光政海軍大臣の命により寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐、第三航空艦隊参謀長・山澄忠三郎海軍大佐などが説得にあたったが、小園大佐ら厚木飛行場の将兵たちは首肯しなかった。東久邇宮内閣は小園大佐を拘束し、野比海軍病院の精神科へ強制収容された。この時のことを宮は「もし、米軍先遣隊が厚木飛行場に進駐した時、わが方がこれを攻撃でもしたら、将来アメリカに行動の自由を許す口実を与えることになる。厚木飛行隊は最も優秀な防空飛行隊で私は同飛行隊将校に同情をしたが大局から見て許すことができなかった。こうして24日夕までに完全にわが飛行機は飛べないことになった。まったく、毎日毎日剣の刃渡りをしている気持ちである」と日記に記している。
  • 宮は太平洋戦争中の日本について「戦時中、日本は小さなことに、こせこせしたが、大きなことにはぬかっていた。全体と部分との混同が、至るところに見られた。部分的には実に立派なものであるが、全体的に総合すると、てんでんばらばらのものばかりで役にはたたなかった」と評価している。
  • 米軍占領直後には「終戦」という語句を用いて敗戦の現実を有耶無耶にしようとする流れを批判し、敗戦の現実を認識してはじめて国土再建が成ると閣僚に説いたが、下村陸軍大臣が時局収拾を円滑にするため「終戦」という言葉を使ってほしいと説得され応じたという。また、当時は帝國内閣だったにも関わらず、敗戦で大混乱に直面していた国民に対し「私は皆さんから直接手紙をいただきたい。嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でもよろしい。参考としたい」と呼びかけ、国民から毎日数百通に上る手紙が舞い込んできたという。
  • ダグラス・マッカーサー元帥に面会した際「アメリカは封建的遺風の打倒を叫ぶが、私はその封建的遺物の皇族だ。もし、元帥が不適当とみるなら、私は明日にも首相を辞める」 と述べた。これに対し、マッカーサー元帥は「皇族は封建的遺物ではあるが、米国人が封建的遺物とか、非民主主義と言うのは、その人の生まれた家柄を言うので、あなたの思想・行動は非民主主義とは思わない」と対応した。
  • 戦後の日本の状況を見た東久邇宮は、内閣を組織したことについて振り返り「あの際、私が出なかった方がよかったと思う。誰か若い革新政党の人が出て、日本の政治、経済、社会各方面にわたり大改革をやっていたら、あの当時は多少の混乱と血を見たかもしれないが、現在の日本がもっと 若々しい、新しい日本となっていたことであろう」とも書き記している。

名言

テンプレート:Quotation

家族

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 東久邇稔彦 『東久邇日記 日本激動期の秘録』 徳間書店, 1968
    • 東久邇稔彦 『一皇族の戦争日記』 日本週報社, 1957
    • 東久邇稔彦 『やんちゃ孤独』 読売新聞社, 1955
    • 東久邇宮稔彦王 『私の記録』 東方書房, 1947
  • 長谷川峻著 『東久邇政権・五十日 終戦内閣』行研出版局,1987
  • 外務省編 『終戦史録(全6巻)』、解説江藤淳、北洋社 1978
  • 外務省編 『日本の選択 第二次世界大戦終戦史録(上中下)』、山手書房新社,1990
  • 江藤淳編 『占領史録』 波多野澄雄解題、講談社全4巻, 1982
講談社学術文庫全4巻, 1989、同文庫新版全2巻, 1995
  • 江藤淳編 『もう一つの戦後史』講談社、1978年-インタビュー集
  • 佐藤元英、黒沢文貴編 『GHQ歴史課陳述録 終戦史資料』
上.下 <明治百年史叢書> 原書房 2002
社団法人霞会館後援、毎日新聞社, 1991

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
鈴木貫太郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣総理大臣
第43代:1945年 |style="width:30%"|次代:
幣原喜重郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
阿南惟幾 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 陸軍大臣
第34代:1945年 |style="width:30%"|次代:
下村定 テンプレート:S-mil |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
山田乙三 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 防衛総司令官
第2代:1941年 - 1945年 |style="width:30%"|次代:
廃止 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
古荘幹郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 陸軍航空本部長
第10代:1937年 - 1938年 |style="width:30%"|次代:
寺本熊市 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
寺内寿一 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 第四師団長
1934年 - 1935年 |style="width:30%"|次代:
建川美次 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
多門二郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 第二師団長
1933年 - 1934年 |style="width:30%"|次代:
秦真次

  1. 転送 Template:End

テンプレート:日本国歴代内閣総理大臣

テンプレート:陸軍大臣
  1. 内相及び内務警察官僚四千名の罷免と治安維持法の撤廃、特別高等警察の廃止
  2. 東久邇宮首相は、副総理格の緒方竹虎の意見を求めると「占領されている以上拒否はできないが、承服したのでは政府の威信がなくなる。承服できないという消極的な意思表示の意味で内閣総辞職しよう」と述べ、これに首相が同意し、内閣は解散した(産経新聞2002年6月10日掲載)
  3. 『やんちゃ孤独』155頁
  4. 宮家皇族の名前を公式表記する場合は宮号を冠さず「名+身位」とするのが正式なものであり、官報においては「内閣総理大臣 稔彦王」と表記されていた。
  5. 朝日新聞夕刊連載『新聞と戦争』「写真を処分せよ」シリーズ、特に2007年6月26日付の第8回。
  6. テンプレート:Cite web
  7. 佐野眞一『枢密院議長の日記』講談社現代新書p.184,2007。
  8. 浅見雅男『伏見宮―もう一つの天皇家』講談社p.289,2012。
  9. 『やんちゃ孤独』101-108頁、159-162頁
  10. 広岡裕児『皇族』読売新聞社281-282頁