本文批評

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

本文批評(ほんもんひひょう。英語:Textual Criticismの詳細な記述を精読されたい。テンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:Lang-de-short) とは、ある文書の現存する写本から、理論的に可能な限り、その文書の元来の形(英語ではこれを Archetype という )の再構成を目指す作業のこと。その手段となるのが、書誌学文献学である。英米には、本文批評書誌学を一体にした「本文書誌学」(Textual Bibliography)が存在する。なお、本文批評は本文批判、正文批判(正文批評)、テキスト批判(テキスト批評)、下等批判(下等批評)とも呼ばれる。保守陣営からは聖書批評学[1]と呼ばれることがある。

本文批評と教理

フリデリック・ケニヨンは「キリスト教信仰の基本的教理は、一つとして議論のある聖書の読み(本文)に基づいていない」、「聖書の本文は、本質において確実であると、いくら強く主張してもしすぎることはない」と述べ、これが教理に抵触することはないため、本文批評を認めている[2]

写本

古い時代の文書は、多くの場合、人の手によって写される写本の形で伝わった。写本の際には、単なる誤記・脱字のミスや、誤記・脱字の範囲を超えて意図的に原本から外されたり書き換えられたりされた。こうして書き写された文書が、今度は他の写本に写される。この繰り返しの結果として、内容が異なる様々な異本(ヴァリアント)を生むこととなったとされる。本文批評の観点から編集され変化したテキストは校訂本、または定本(底本ではない)と呼ばれる。

外的批評と内的批評

本文批評の方法論は、外的批評と内的批評とに分けられる。内的批評には、古典的な二つの原則がある。一つは、より難しい読みがより可能性がある (lectio difficilior lectio potior)、もう一つは、より短い読みがより可能性がある (lectio brevior lectio potior) というものであるが、実際にはどちらも当てはまらない場合が多くあり、不動の原則ではない。

本文批評と高等批評

本文批評が「下等批評」(Lower Criticism) と称される時は、「高等批評」(Higher Criticism) に対するもので、ここに高等、下等は、位づけに関わることではなく、上のレイヤーか下のレイヤーか、との視点からの名称である。「下等批評」学においては本文をその研究対象とし、「高等批評」学では、その基礎のもとに、著者問題、執筆年代、執筆場所、執筆目的などに関する研究を扱う。聖書信仰は本文批評は認めているが、高等批評は信仰の敵であるリベラルとして退けてきた[3]

写本の信頼性

新約聖書学者のウェストコットとホートは原典に近い本文復元版で、「どのような意味においても、本質的な読み方の相違と言われるものの大部分は・・・・本文全体の千分の一を超えない」と述べ、またウォーフィールドは、「読み方の相違の約20分の19は・・・幾種の読み方があっても、誰一人として、それを矛盾する読み方であるとは考えていない。また、残りの二十分の一も、ほとんど重要な個所ではなく、それを取り上げようと取り上げまいと、その部分の意味には別に対して重要な相違をきたさない。」と述べている。 [4]

バート・D.アーマンは、たとえば、ナザレのイエスがいつ「神の子」となったのか、再臨はいつ起きるのかなど教義に関わる問題についても新約聖書の各記述間の矛盾を指摘している。

田川建三

田川建三によれば、世界で最も現存する写本数の多い新約聖書の諸文書は、同一箇所について膨大な異なる読みを持つことで知られる。オリジナルのギリシア語テキストでは「ほとんど一つ一つの文(センテンス)について、必ず異なった読みが存在するくらい」[5]である。この異なる読みの中からオリジナルのかたちを推定することが本文批評の主たる目的である。

脚注

  1. 富井悠夫「聖書批評学」『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年
  2. 日本プロテスタント聖書信仰同盟『現代と聖書信仰』p.72-73
  3. ケアンズ『基督教全史』聖書図書刊行会
  4. 尾山令仁著『聖書の権威』日本プロテスタント聖書信仰同盟、(再版羊群社)p.65
  5. 田川 1997, p. 394

参考文献


執筆の途中です この項目「本文批評」は、キリスト教に関連した書きかけ項目です。加筆・訂正などをして下さる協力者を求めていますP:キリスト教/PJ:キリスト教)。