有田鉄道線

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沿線の特産品である蜜柑の畑の中を通っていた有田鉄道線の線路。
(下津野 - 田殿口 2002年12月13日)

有田鉄道線(ありだてつどうせん)は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現在の有田川町)の藤並駅金屋口駅とを結んでいた有田鉄道鉄道路線2002年(平成14年)12月31日限りで廃線となった。

路線データ

  • 路線距離(営業キロ):5.6km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:5駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:なし(全線非電化)(内燃動力)
  • 閉塞方式:票券閉塞式(実質的にはスタフ閉塞)
  • 交換可能駅:なし(全線1閉塞)

歴史

有田鉄道は、沿線で穫れた木材や蜜柑有田みかん)などの農産品を、積出港である湯浅港まで運搬する目的で、1913年(大正2年)2月に設立された。1915年(大正4年)5月28日に海岸駅 - 下津野駅間、1916年(大正5年)7月1日に下津野駅 - 金屋口駅間が開業した。

1926年(大正15年)8月8日に紀勢西線(1959年(昭和34年)に紀勢本線と改称)が藤並駅まで開通し、有田鉄道も藤並駅を新設して紀勢西線との連絡を行った。藤並駅から国鉄線を通して、蜜柑を満載した「蜜柑列車」が全国へ運行されるようになった。紀勢西線と並行していた海岸駅 - 湯浅駅 - 藤並駅間は「不要不急路線」として1944年(昭和19年)12月10日に休止されレールが撤去された。1950年(昭和25年)4月から紀勢西線湯浅駅まで乗り入れるようになり、藤並駅 - 海岸駅間は1959年(昭和34年)4月3日に廃止された。なお、廃線敷の一部は後年紀勢本線の複線化の際に転用されている。

蜜柑などの輸送は次第にトラック輸送に置き替えられるようになり、1984年(昭和59年)2月1日に貨物営業は廃止された。大きな収入源を失ったことで、人員の大幅削減、車両保守を近くの自動車整備工場に委託するなどの合理化が図られた。紀勢本線への乗り入れは、信楽高原鐵道正面衝突事故信楽高原鐵道列車衝突事故)の後の1992年(平成4年)12月に廃止された。

この頃から利用客は沿線の高校への通学生のみに限られたため、1995年(平成7年)3月6日から、第2・第4土曜日と日曜・休日(つまり学校の休日)は全列車運休して並行する道路を走る路線バスで代替するようになり、1日の運行本数も次第に減少した。駅舎や軌道はとても現役路線とは思えないほど荒廃していた。一部の踏切は遮断棹が下りず、列車通過の際に係員が車を制止して対応する事例が一度ならず発生している。

金屋口駅出札窓口はハイモ180-101導入後に実施のワンマン運転化時に閉鎖され(運転取り扱い上駅長常勤のため駅自体の無人化ではない)、鉄道線において乗車券の販売は行われなくなった。定期乗車券、回数乗車券の販売も行わず、バスの定期乗車券、回数乗車券にて並行する鉄道区間にも乗車可能な扱いとなる。後に出札窓口を鉄道案内所として再開(ただし監督官庁許認可の都合上、駅の出札窓口としては最後まで閉鎖したままとの扱い)、鉄道愛好家に対し記念グッズとしての各種乗車券類の乱発を行うが一般乗客に対しては降車時の現金払いを案内していた。

2001年(平成13年)11月1日からは運転本数が1日2往復(最終列車は藤並12:00発)に減らされ、公共交通機関としては極めて少ない状態になっていた。このことは、「最も運行本数の少ない私鉄路線」として愛好家の間にて有田鉄道の名を知らしめることになった。晩年期の利用者数は1日平均29人で、有田鉄道が鉄道廃止の意向を示した時も、元々バスの定期券で並行する同社鉄道線の利用が可能だったため、さほど本数の減少及び廃止による影響はなかったらしく、地元から廃止反対の声はほとんど上がらなかった。このため、2003年(平成15年)10月31日限りという予定で2002年(平成14年)10月に路線廃止の申請を行なったが、廃止を早めても影響は全くないと判断されたため、同年11月29日に廃止繰上届を提出し[1]10か月繰り上げた12月31日限りで廃止となった。

廃止後

藤並駅にあったきっぷ売り場や近辺の線路などは、施設の撤去費用が出せず放置せざるをえなかったため、朽ちながらも廃止当時のまま残されていた(勿論保存目的ではなく、保存の計画は当初から存在していなかった)。だが、藤並駅の特急「くろしお」停車に向けてJR西日本と地元自治体で協議が行われた結果、駅舎の建て替え及びホームの延長が計画され、それに先立って有田鉄道のレールはようやく撤去された(ホーム及び切符売り場の撤去は2009年度)。また、廃線後間もなく一部踏切が撤去・舗装化されつつも、本線はほとんどレールが引かれたまま放置されていたが、自転車歩行者専用道路として生まれ変わるため2006年(平成18年)夏頃からレール・枕木の撤去が始まり、2008年(平成20年)には田殿口駅と下津野駅は駅舎を解体しプラットホームを改修、御霊駅は駅舎を残しプラットホームと共に整備・改修された。2010年(平成22年)10月現在も、本線跡のほぼ全線で整備・改修工事が進められている。

一方、在籍車両2両は他社譲渡、廃車解体、その他、処遇が決まらないまま金屋口駅の車庫奥に留置され、錆などの損傷が目立ってきていたが、鉄道用地と同時に沿線自治体に譲渡された。2010年(平成22年)3月20日に地元有田川町の手により金屋口駅構内が有田川町鉄道公園として開園し、園内に動態保存されている。

有田鉄道線の最終期を語るとき、ふるさと鉄道保存協会の存在があげられる。同会は有田鉄道と直接の関連はないが、同社公認会を自称し、同社もこれを否定しなかった。最多時には8両の車両と国鉄コンテナ4個を構内に保存。廃止当時の有田鉄道の2両(保線用モーターカー1両を加えても3両)をはるかに凌ぐ両数を所有した。同社線廃線後も構内にて活動していたが現在は活動を休止。構内全域が同社から有田川町に譲渡、有田川鉄道公園が開園した現在も同町の許可を得て一部の車両が園内に残る。ただし現在は同会に代わって金屋口鉄道保存協会が組織され、所有車の整備を同協会に委託している。

代行バス

代行バスは、従来から並行して運行しているバスの増発という形が取られた。すなわち、従来は平日鉄道2往復、バス17往復であったのがバス19往復となり、本数の上では従来と変わらなかった(所要時間は逆にバスが1分速かった)。しかし、廃止半年後の2003年6月に行われた調査によると、廃止時の1日あたり輸送人員は鉄道29人、バス57人であったものが、半年後にはバスの輸送人員が33人に激減していた[2]

2012年10月1日現在、同区間のバス路線は平日12往復、土日祝日7往復に減少している[3]

輸送実績

年度 1950年 1960年 1965年 1970年 1975年 1980年 1985年 1990年 1995年 2000年
旅客輸送密度(人/日) 1,429 3,657 3,426 2,072 1,422 1,252 702 319 67 43
  • 地方鉄道軌道統計年報、私鉄統計年報、民鉄統計年報、鉄道統計年報各年度版

車両

廃線時まで在籍した車両は、ハイモ180-101とキハ58 003の2両のみ。なお有田鉄道ではJR西日本新宮鉄道部から購入した保線用モーターカーを加え自社所有車両3両としていた。

気動車

ハイモ180(ハイモ180-101)
岐阜県の樽見鉄道から譲渡されたレールバスで、富士重工業がローカル線向けの軽快気動車として開発したLE-CarIIの初の実用車である。塗装変更等の整備を受け1994年5月21日から運行を開始した。車内は通路を挟んで逆向きに固定シートロングシートが並んでいる。有田鉄道線初の冷房装備車両で、最末期の主力であった。廃線後暫くは同社が所有したが、その後の自治体への鉄道用地譲渡と同時に当車も自治体に譲渡された。2010年3月20日に有田川町鉄道公園が開園し、当車は同園の動態保存車となっている。
キハ58(キハ58001・002・003)
ファイル:Arita-Kiha58003.JPG
キハ58003
(2002年12月13日)
山梨県の富士急行より譲渡された車両で、同社が中央本線との直通運転用に投入した国鉄キハ58系の富士急行向け仕様車である。その中でも特筆すべき存在はキハ58003で、増結用して製造された国鉄にはなかった製造時からの両運転台車であり、単行で営業運転ができたことから有田鉄道では特にハイモ180-101譲受前の主力として用いられた。なお、1980年にエンジンを1台取り外しているので、実質はキハ28形相当の性能である。また、他にもJRからキハ58 136を譲受しており、部品取り用ではなく営業運転でも使用していた(営業運転中の映像が確認されている)。→富士急行のキハ58系
キハ58001と同002は片運転台車で、新製時はトイレ洗面所が設置されていたが、同社への譲渡時に撤去されている。003にはトイレや洗面所は新製時から設置されていない。なお一連の改造は同社線入線に先立ち日本国有鉄道(国鉄)高砂工場に入場して行われた。003には永らくこのときの検査標記の痕跡が車体に残っていたが、有田川鉄道公園開園に先立って実施された車体の全面塗装時に塗りつぶされた。現在はシール式で同等の表示が再現されている。
経歴上、国鉄所有となったことはまったくないが、客室天井に設置の扇風機にはJNRのマークがあるなど、国鉄車と同一の部品を多く使用している。
1975年7月10日に入線し、1976年5月10日からキハ07にかわり使用を開始した。その後キハ58001と同002はハイモ180-101の本格的な営業開始後に不要車両として廃車解体。003のみ廃線時まで予備車として残るが、実態は検査期限切れのうえ整備不良で、エンジンの始動すらおぼつかない状態であった。
廃線後暫くは同社が所有したが、その後の自治体への鉄道用地譲渡と同時に当車も自治体に譲渡された。有田川町鉄道公園の開園に先立って起動可能な状態にまで整備され、同園で動態保存車となっている。
キハ07206・07207
国鉄キハ07 206・207。1970年8月より使用を開始し、1976年5月9日まで使用され以降は予備車となっていたが、1982年9月15日廃車となり1983年3月解体された。
キハ250
山鹿温泉鉄道の注文流れ。湘南窓と客用扉の2段ステップが特徴。1954年製、キハ07206・07207の使用開始より予備車となる。最終運転は1970年10月20日。1976年廃車となり1980年7月解体された。
キハ210
国鉄キハ42037。1975年廃車解体。
キハ202・205・206
国鉄キハ04 29・41038・41078。202は一畑電気鉄道立久恵線を経て入線し、後に紀州鉄道に譲渡された。
キハ201
国鉄キハ40001。一畑電気鉄道立久恵線を経て入線。キハ07206・07207の使用開始により1971年廃車1975年8月解体。

客車

木製2軸客車とガソリンカーからの改造車があった。

  • 1-4 梅鉢鉄工所製で1915年使用開始。2・3が1932年廃車。残りは1948年廃車。
  • 5・6 1917年に南海より購入。旧番号は、は60・69(製造年製造所不明)。1932年に廃車。
  • か1・2(荷物車) 1917年に南海より購入。旧番号は、に3・7(1906年南海鉄道製)。1920年に2両とも佐久鉄道に売却。

駅一覧

海岸駅 - 湯浅駅 - 吉川駅 - 藤並駅 - 明王寺駅 - 田殿口駅 - 下津野駅 - 御霊駅 - 金屋口駅

  • 有田鉄道湯浅駅は紀勢西線の湯浅駅(当時は紀伊湯浅駅、1965年3月1日改称)とは別地点にあった。
  • 海岸 - 藤並間は1934年休止、1937年吉川駅廃止、1938年貨物営業再開、1940年旅客営業廃止、1944年貨物営業休止、1959年貨物営業廃止。
  • 明王寺駅は1926年に休止[4]、1930年までに再開、1931年に廃止、1935年3月29日再開業、1946年までに廃止[5]

接続路線

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

テンプレート:Sister

  • テンプレート:Cite journal
  • テンプレート:PDFlink - 国土交通省北海道運輸局
  • テンプレート:PDFlink(平成24年10月1日改正) - 有田鉄道
  • 1926年9月7日休止「地方鉄道駅設置並閉鎖」『官報』1926年9月18日(国立国会図書館デジタル化資料)
  • 今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 8号 関西1』新潮社、2008年、p.40