曽禰達蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曽禰 達蔵(そね たつぞう、嘉永5年11月24日(1853年1月3日) - 昭和12年(1937年)12月6日)は日本の建築家。
同郷の辰野金吾とともにジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生。丸の内の三菱オフィス街の基礎を築き、のち後輩の中條精一郎(1868年 - 1936年)とともに設計事務所を開設。
曽禰中條建築事務所は都市を飾る数多くのオフィスビルを送り出した。
経歴
- 1852年(嘉永5年)唐津藩士(祐筆)曽禰寸斉の子として江戸に生まれる
- 1873年(明治6年)工部大学校入学
- 1879年(明治12年)工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)卒業、工部省入り
- 1881年(明治14年)工部大学校助教授
- 1886年(明治19年)海軍に入り、呉鎮守府の建築委員になる
- 1890年(明治23年)恩師コンドルの紹介で三菱社に入社
- 1892年(明治25年)三菱一・二号館の建設が始まる(1894年・1895年に竣工)、以後丸の内に煉瓦造のオフィス街が生まれてゆく
- 1906年(明治39年)三菱を定年退社、建築事務所を開設
- 1908年(明治41年)中條精一郎とともに曽禰中條建築事務所開設
- 1936年(昭和11年)共同経営者の中條が逝去
- 1937年(昭和12年)逝去
主な作品
- 三菱三号館~七号館(1896年-、現存しない)
- 旧三菱銀行神戸支店(1900年、神戸市)
- 占勝閣(1904年、長崎市)
- 旧東京倉庫神戸支店兵庫出張所(1906年、神戸市)
- 以下、曽禰中條建築事務所作品
- 慶應義塾大学図書館(1912年、東京都)重要文化財
- 東京海上ビルディング旧館(1918年、東京都。現存しない)
- 旧日本郵船神戸支店ビル(1918年、神戸市)
- 日石ビルディング(旧・有楽館、1922年、東京都。現存しない)
- 郵船ビルヂング(1923年、東京都。現存しない)
- 明治屋ビル(1924年、大阪市)
- 旧鹿児島県庁庁舎(1925年、鹿児島市)
- 小笠原伯爵邸(1927年)
- 旧三井銀行小樽支店(1927年、小樽市)
- 慶應義塾大学病院予防医学教室(1929年、東京都)
- 東京海上ビルディング新館(1930年、東京都、現存しない)
- 明治屋ビルディング(1933年、東京都)
- 講談社ビル(1933年、東京都)
- 慶應義塾大学日吉キャンパス(1934年、横浜市)
- 岩崎家熱海別邸(1935年、熱海市)
- 三井住友銀行大阪中央支店(1936年、大阪市)
- 慶應義塾幼稚舎(1936年、東京都、共同設計:谷口吉郎)
- 旧田中光顕別邸(現・小田原文学館本館、1937年)
- Old Keio University Library.JPG
慶應義塾大学図書館
- 医学部予防医学教室.jpg
慶應義塾学医学部予防医学教室
- Kagoshima prefectural office old building 1.jpg
旧鹿児島県庁舎
系譜
- 妻は高橋是清の実妹。
- 長女は、貴族院議員、法制局長官の山川端夫の妻。
- 長男曾禰武は物理学博士。開成高校校長。
- 次女は株式会社東洋電機元社長の上遠野氏の妻。
- 次男の妻は、岩倉具視の孫。
- 三男曾禰益は外交官。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)等に出席。旧民社党書記長。妻・春子は、東急創始者 五島慶太の一人娘。
- 三女は、理学博士・阪大教授で文化勲章受章者の仁田勇の妻。
その他
- 唐津藩主小笠原家の嗣子・長行の小姓を勤めており、戊辰戦争の際は共に会津に向かうが、長行の命で唐津へ帰っている(設計作品の小笠原伯爵邸の当主は小倉藩主の方)。
- 海軍から三菱に移ったのは海外視察をしたかったためだという。三菱入社後、1893年にシカゴ博覧会等のため渡米、1901年には岩崎久弥に随行しロンドンへ出張した。
関連項目
著作・文献
- 石田潤一郎著、増田彰久写真『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』(三省堂、1980年)