昭宗 (唐)

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テンプレート:基礎情報 中国君主 昭宗(しょうそう)は唐朝の第22代皇帝懿宗の七男で、僖宗の弟に当たる。

生涯

唐の実権を掌握していた宦官楊復恭により擁立された。即位当初は藩鎮が農民反乱の平定に乗じ勢力を拡大していた時代であった。昭宗は軍事力の増大による朝廷の支配権の再興を計画したが、藩鎮の猜疑心を生み鳳翔節度使李茂貞の叛乱を引き起こした。

混乱の中、光化3年(900年)11月には一部の宦官勢力がクーデターを起こしたために昭宗は退位に追い込まれ、皇太子李裕が新皇帝に即位した。しかし、翌天復元年(901年)正月には別勢力の宦官らが蜂起し、昭宗は皇帝に返り咲いた。

反乱軍が長安に迫ると宦官の韓全誨は鳳翔への逃亡を進言した。天復3年(903年)、李茂貞は韓全誨と張彦弘を殺害し官軍の李温度と和議が結ばれ叛乱は終結、昭宗は長安へと帰還した。

その後李茂貞は朱全忠により失脚させされ、朱全忠が最大藩鎮として勢力を振るうようになった。朱全忠は自らが皇帝に即位する準備として内廷の宦官5千人余りを殺害し、地方の監軍の任に当たっていた宦官も処分した。天祐元年(904年)正月、朱全忠は大臣らの反対を押し切って洛陽に遷都した。李克用、李茂貞、王建などが朱全忠に反旗を翻した。

天祐元年(904年)8月11日夜、昭宗は朱全忠に派遣された朱友恭氏叔琮蒋玄暉らによって殺害された。享年38。

宗室

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