昭和町

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テンプレート:Infobox 昭和町(しょうわちょう)は、山梨県中央部にあるである。中巨摩郡に属する。昭和町の周辺の町村は同じ中巨摩郡に属していたが、いわゆる平成の大合併によりそれぞれ甲斐市南アルプス市中央市となり、昭和町は現在の中巨摩郡唯一の自治体である。

地理

甲府盆地の中央部に位置し、かつて釜無川氾濫原であった平坦地。笛吹川支流の河川も流れ、近世以降は穀倉地帯や甲府の水源(地下水)にもなる。

歴史

甲府盆地底部は釜無・笛吹両河川の氾濫原であるため考古遺跡が乏しく、町域においても同様の傾向が見られる。

平安時代後期には甲府盆地各地で荘園が成立し、町域東部の押越や紙漉阿原は鎌田荘に属していたと考えられている。また、平安後期には源義清清光が甲斐へ土着し子孫は盆地各地へ広まり甲斐源氏となるが、西条の義清神社は源義清の居館跡とする伝承が伝わっている。戦国期には守護武田氏による釜無川・御勅使川の治水が行われ、永禄3年(1560年)には甲斐市(旧中巨摩郡竜王町)に信玄堤が完成しており、町域においてもこの頃から開発が本格化したと考えられている。武田氏滅亡後に武田遺領を確保した徳川氏に臣従した武田遺臣の中には、町域を本領とするものも見られる。

江戸時代には西条、西条新田、清水新居、河東中嶋、押越、紙漉阿原、築地新居、築地新田、飯喰、河西、上河東の11の村が成立し、巨摩郡中郡筋に属する。幕領・甲府藩領を経て、享保9年(1724年)に甲斐一国の幕府直轄領化に伴い再び幕領となる。町域北東から南部にかけては駿州往還が通過し、河東中島村には宿駅も存在していたほか、築地新居村には釜無渡船場があった。

近世段階においても釜無川流路は不安定で町域は水害被害を受け続けた。天保7年(1836年)には甲斐一国規模の天保騒動が発生し、町域の村々も一揆勢の被害を受けている。町域には寺子屋が数多く存在し、明和年間には西条村の若宮八幡宮神主山本忠告、文化年間には同村の村医師野呂瀬主膳、慶応年間には押越村の夕食伊藤日遵がそれぞれ寺子屋を経営している。

近代には甲府盆地底部において流行した地方病の有病地となる。大正期に山梨県では農民運動が盛んになるが、町域でも農民組合の結成にいたる運動が興隆し、大正10年(1921年)に農事協和会が発足し、翌大正11年には小作人による押原農民組合が結成された。

近年は工業団地の造成や甲府市の中心部から近いため、宅地化が進み、人口は増加傾向にある。 2000年(平成12年)2月2日にイトーヨーカドー甲府昭和店 [1]2011年(平成23年)3月17日にイオンモール甲府昭和が開店する[2]など大型ショッピングモールが出店している。 1971年(昭和46年)6月に昭和町となり、現在に至る。

中央自動車道を境とした紙漉阿原東部は甲府市、旧玉穂町(現・中央市)にまたがる国母工業団地の一部にあたる。工業団地は、天野久知事時代の県勢振興計画で定められた県外企業誘致方針の一環として田辺国男知事時代に取り組まれ、甲府地区開発事業団が設立された。1970年(昭和45年)に首都圏整備法に基づく都市開発区域として着工され、1973年(昭和48年)には第一期の分譲が完了した。県内では国母工業団地に続いて甲西工業団地、身延工業団地など基幹工業団地の造成が行われ、昭和町では釜無川左岸の玉幡飛行場跡地にあたる築地新居、築地新田地区で釜無工業団地が1976年(昭和51年)から県土地開発公社を事業主体として造成された。

沿革

文化財

上河東の妙福寺本堂の青銅製鰐口は1960年(昭和35年)11月7日に県指定の工芸品。また、鎌田川のゲンジボタルは1930年(昭和5年)に国指定の天然記念物であったが、地方病の原因である日本住血吸虫中間宿主であるミヤイリガイの駆除の影響で、餌となるカワニナが激減したために減少し、1976年(昭和51年)には指定は解除された。

人口

テンプレート:人口統計

行政

  • 町長:角野幹男(2007年2月就任 1期目)

教育

交通

鉄道

東海旅客鉄道

路線バス

道路

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

関連項目

脚注

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外部リンク

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  1. “イトーヨーカ堂「甲府昭和店」開店”. 日本食糧新聞(日本食糧新聞社). (2000年1月21日)
  2. “「イオン甲府昭和店」オープン 統合後の初出店は地域性反映”. 日本食糧新聞(日本食糧新聞社). (2011年2月9日)