日産・チェリー
チェリー (CHERRY ) は、かつて日産自動車が販売していた乗用車である。
目次
概要
元々、1966年8月に日産自動車に吸収合併されたプリンス自動車工業が、日産に吸収合併される以前から次世代の前輪駆動(FF)車として開発されていた車種である。日産に吸収合併された後も旧プリンス出身の社員を中心に、当時の旧プリンスの開発拠点であった東京都杉並区荻窪の荻窪事業所にて開発が続行され[1]、1970年に日産初の量産前輪駆動(FF)車として発売された。
パワートレインはミニと同様の横置きエンジンで、シリンダーブロックの真下にトランスミッションを置く二階建てとされ、いわゆるBMC式、あるいはイシゴニス式と呼ばれるレイアウトだった。
ディーラー網
新規車種のチェリーの発売に際して、日産の新たな販売系列として「チェリー店」が設立されることになり、「チェリー店」の設立には、日産自動車グループの愛知機械工業が1970年10月をもって自社ブランドの軽自動車「コニー」の生産販売から撤退したことにより、それまで愛知機械工業の車種を取扱していた販売系列の「コニー店」の大半が、「日産コニー○○販売」から「日産チェリー○○販売」に社名変更して「チェリー店」に変更されている[2]。
「チェリー店」の取扱車種には、主力車種のチェリーの他に、上級車種のバイオレット(「日産店」と併売)、チェリーの名を冠したチェリーキャブ(後のチェリーバネット)が投入され、1977年には上級車種のバイオレットが、バイオレットの兄弟車種として発売されたバイオレットオースター(翌1978年、オースターに変更)に取扱車種が変更、1978年には主力車種のチェリーの3代目へのフルモデルチェンジを機にパルサーへ車名変更され、1980年には高級車種のレパードTR-Xが投入された。
しかし、1978年の3代目へのフルモデルチェンジの際に、それまでのチェリーからパルサーに車名変更された後も、販売系列の「チェリー店」の名称や販売会社名の「日産チェリー○○販売」の名称が変更されることもなく、広告上では「パルサー販売」「パルサー販売会社」「日産チェリー販売会社」と表記された。1980年代後半に「チェリー店」の取扱車種が「プリンス店(=スカイライン販売会社)」と共通化されて、全国各地の大半の「チェリー店」が同じ地域の「プリンス店」など[3]との合併・統合が相次ぎ店舗数が激減、さらに1999年には「サニー店」と統合されレッドステージ店となった。現在、チェリー店は、岩手県に日産チェリー岩手販売が、それ以外の地域でも東京都、愛知県、大阪府などの中小規模の整備工場に併設しているチェリー店に残っているのみとなっている。
歴史
初代 E10型(1970年-1974年)
- クラス的にはカローラやサニーに代表されるいわゆる「大衆車」クラスよりもやや下(パブリカと同クラス)に属し、日本国内では、初めて自動車を持つ若者や、軽自動車からの乗り換え需要を主なターゲットとした。
- 搭載エンジンは直列4気筒OHV1,000ccA10型、および直列4気筒OHV1,200ccA12型ツインキャブ仕様(X-1)の2機種。サスペンションは前ストラット、後トレーリングアームの4輪独立で、前後ともコイルスプリングを用いた。
- 当初は4ドアセダンおよび2ドアセダンのみの設定だった。
- ボディスタイルは丸みを帯びた凝縮感の強いもので、シンプルながら強い個性を持つ「セミファストバック」と呼ばれる個性的なボディスタイルが採用された(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社 60頁参照)。サイドウインドウの形が特徴的で、前後をあわせると目の形に似ていたため「アイライン」と称された。またCピラーの造形は日本らしさを特徴とした車とするため富士山をモチーフとしたとも言われ、車名を「フジ」とすることも検討されたという。なおアメリカ車ではすでに1960年代からこのようなクォーターウインドウとピラー形状のスタイリングが取り入れられている。
- 1971年9月 - 3ドアクーペ追加。冷却ファンがベルト駆動から電動に改められた。
- 1972年3月 - A12型シングルキャブ仕様 及び3ドアバン追加。バンのリアサスペンションはセダンと異なりリーフ式リジットだった。バンは当時業務提携していたいすゞ自動車藤沢工場で生産されていた。
- 4月 - レース・ド・ニッポンに「クーペ」が参戦。その他の国内レースにも日産ワークスとして参戦した。
- 6月 - マイナーチェンジ。前後バンパーの大型化、およびセダン系のテールランプの大型化など。
- 1973年3月 - オーバーフェンダー付の「クーペ1200X-1・R」追加。
- 1974年9月 - 上級クラスに移行した「チェリーF-II」が発売された後も、初代モデルは日産のラインナップの下端を受け持つ車種としてしばらくの間F-IIと併売された。生産中止後、その市場を直接受け継ぐモデルは長らく現れず、1982年にマーチが発売されるまで日産では1000ccクラスは空白となった。
- 1976年 - アクロポリスラリーにプライベーターの手により参戦。
- Nissan-CherryX1R.JPG
2ドアクーペ X-1R
- Nissan Cherry 1200 X-1 102.JPG
2ドアセダン X-1(リア)
- Nissan Cherry Coupe rear.jpg
2ドアクーペ デラックス(リア)
- Datsun Cherry Estate 1975.jpg
英国向けエステート
国内向けバンも共通の車体。
2代目 F10型(1974年-1978年)
- 1974年9月 フルモデルチェンジ。サブネームが付き正式には「チェリーF-II」となった。
- 初代よりも上級クラスに移行し、同じ日産ではサニーとほぼ同じクラスとなる。
- 機構的には初代を踏襲しており、A型エンジン、2階建てレイアウトの駆動系、前ストラット、後フル・トレーリングアームの4輪独立懸架などを受け継いでいる。
- 搭載エンジンは旧来のA12型に加え1,400ccのA14型が追加された。一方1,000ccのA10型は姿を消した。
- ボディバリエーションは4ドアセダン、2ドアセダン、3ドアクーペ及びバンの4種類。寸法的には、全長、全幅、ホイールベースがそれぞれ215mm、30mm、60mm拡大された(4ドア)。
- 初代チェリーはシンプルでありながら強い個性を持ったボディスタイルもその大きな特徴だったが、F-IIではそのどちらも影を潜め、当時の他の日産車によく似た没個性的なボディスタイルとなった。一方で、初代、特にクーペで劣悪だった後方視界は幾分改善された。
- 1975年10月 - 1400が排出ガス50年規制に適合。
- 12月 - 1200が51年規制に適合。
- 1976年2月 - 1400が51年規制に適合。
- 3月 - ツインキャブレター装着の「1400 GX TWIN」発売。
- 11月 - 「スポーツマチック」と称する3速セミオートマチックトランスミッション搭載車が設定される。
- 1977年2月 - マイナーチェンジ。
- 1978年 - スウェディッシュラリーにプライベーターの手により参戦。
- 5月 - チェリーの後継モデルとしてパルサー(N10型)が登場し、4ドアセダンが廃止。
- 9月 - パルサーに3ドアハッチバック(チェリーF-II2ドアセダンの後継モデル)及びクーペ(チェリーF-IIクーペの後継モデル)が追加され、チェリーはおよそ8年の歴史に幕を下ろした。
車名の由来
「桜」を示す英語「Cherry」から。
脚注
- ↑ 荻窪事業所ではチェリーのほかスカイライン(R30型迄)、ローレル(C31型迄)、レパード(初代F30型)、プレーリー(初代M10型)の開発も手がけていた。荻窪事業所は中島飛行機東京工場時代から続く旧プリンスの製造開発拠点で、戦後GHQの命により中島飛行機が解体され、その中の一つが富士産業→富士精密工業となり荻窪に残った。自動車の開発拠点として、主にスカイラインをはじめ旧プリンス時代から続くブランドの車やFF車の開発を担当していたが、1981年11月に神奈川県厚木市に完成した大型研究開発施設のテクニカルセンターへ日産旧来の開発拠点であった鶴見の横浜事業所らと共に集約され、自動車の開発拠点としての使命は終わった。ただし日産は旧プリンスが中島飛行機時代から荻窪事業所で行っていたロケット開発を引き継いで宇宙航空事業に参入しており、1998年に宇宙航空事業部が群馬県へ移転するまで荻窪事業所は存在していた(その後、宇宙航空事業部は2000年に石川島播磨重工業へ部門ごと売却され、現在のIHIエアロスペースとなる)。
- ↑ この他、一部地域のいすゞモーター店にも販売されていた(初代のみ)。
- ↑ 新潟日産(日産店=ブルーバード販売会社)に吸収された日産チェリー新潟販売や広陽日産モーター(モーター店=ローレル販売会社)に吸収された日産チェリー広島販売のように例外はある。