日本語ロック論争

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テンプレート:独自研究 日本語ロック論争(にほんごロックろんそう)は、1970年代初めに起きた日本語ロック音楽の関係性についての論争である。

解説

この「日本語ロック論争」は、60年代末ニューロックという言葉が流行して、つまりニューロック=新しいロック、これからのロックは、日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが「議論」された。日本語はロックのメロディーに乗らないというのが定説に、英語派であるミュージシャンは海外成功目標で英語は不可欠という論拠の内田裕也(と、その牽引していたフラワー・トラベリン・バンド)、グループサウンズ時代から活動するザ・モップスは英米追随ながら本物のロック音楽志向という立場で、そこに日本語派はっぴいえんどは、[1]その前身エイプリル・フールから移行発展するなか[2]うたごえ運動の流れを汲むボブ・ディランに影響を受けたフォーク岡林信康ら、日本語で歌うアーティストが次世代音楽(ポップス、またはニューミュージック)に進展する中起こった「議論」とされる。

一連の流れ

新宿プレイマップ』1970年10月号「ニューロック座談会」(出席者:内田裕也鈴木ひろみつミッキー・カーチス大滝詠一中山久民 司会:相倉久人)、『ニューミュージック・マガジン』1971年5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」(福田一郎中村とうよう、ミッキー・カーチス、内田裕也、折田育造小倉エージ、大滝詠一、松本隆)が発端。


その前には1969年7月にTBSのテレビ番組「ヤング720」に内田裕也とフラワーズの内田、麻生レミエイプリル・フール在籍中の細野晴臣が出演し、インタビューの「これからの抱負は?」という問いに細野は「来年は日本語とロックを結納する。」(または「来年は日本語とロックを融合する。」)と発言している(出典「定本はっぴいえんど」)。

議論とは名ばかりで、実際には英語で歌っていたミュージシャンが一方的に日本語で歌っているミュージシャンに難癖をつけた、という方がより実情に近い。論争と扱われたきっかけは『ニューミュージック・マガジン』で発表された日本のロック賞の上位にランクされたのが、主に日本語で歌っているアーティスト、特にURCレコード(主にフォーク系のアーティストの作品をリリースしていたレーベル)のアーティストが上位を占め、英語で歌っているアーティストが選ばれなかった事に始まったといえる[3]。この対談で内田裕也は「(はっぴいえんどの)「春よ来い」にしたって、よほど注意して聞かないと言ってることがわからない。歌詞とメロディとリズムのバランスが悪く、日本語とロックの結びつきに成功したとは思わない」と音楽的な指摘をしている一方で「去年の『ニューミュージック・マガジン』の日本のロックの1位が岡林信康で、今年ははっぴいえんど、そんなにURCのレコードがいいのか? 僕達だって一生懸命やってるんだと言いたくなる」と本音を吐いている。また対する松本隆は、ロックに日本語の歌詞を乗せる事に未だ成功していない事をあっさりと認めたうえ、「フラワー・トラベリン・バンドやザ・モップスについてどう思うのか?」との内田からの挑発に近い問いに「僕達は人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわないと思うし、音楽についても趣味の問題だ」[4]と全く意に介さずと言った発言をしており、両者の間には明確な温度差があった。また内田以外の参加者ははっぴいえんどを絶賛し、興奮する内田をなだめる事に終始しており事実上、議論は成立していない様に見えた。

収束

英語で歌っている側からの一方的な論争だったこともあり、はっぴいえんどがアルバム『風街ろまん』で、ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せるという事に一応の成功を納めた頃には、沈静化していた。フラワー・トラベリン・バンドがカナダ経由で海外進出しアトランティック・レコードと契約するなどそれぞれが主張通り体現したことによる。

1972年12月、キャロルがデビューして、日本語英語チャンポン歌詞+矢沢永吉の「巻き舌唱法」で商業的な成功を収めると[5][6][7]"日本語ロック論争"は、何語で歌うかは問題外になり、それまでのナンセンスな論争も、ロックの精神性云々を問う思想問答も一蹴された[5][6][7]。「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは1972年吉田拓郎の「結婚しようよ」「旅の宿」の2曲の大ヒット以降で、そのためか、1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に2回開かれ、多くのフォークとロックのアーティストを育てた“日本語のふぉーくとろっくのコンサート”も1972年5月で終了した」[8]と論じている。

はっぴいえんどが一般的にはアングラな存在のままで解散した一方、この論争の火付け役であった内田裕也自身や、「日本語でロックを歌うのはバカ」と言い放っていた鈴木ヒロミツのバンド“ザ・モップス”らが日本語のヒット曲[9]を生み出すという事態が起り[10](モップスは「いいじゃないか」という日本語を織り交ぜた英詩曲「御意見無用」に「パーティぺーション(参加)」と「迷子列車」という同じ曲で英詩と和詩というバージョンの実験を試みていた。)、この論争は形として決着、フォークのフォーク・クルセダース出身加藤和彦サディスティック・ミカ・バンドが、イギリスEMIハーベスト・レコードからアルバムを発表、ロキシー・ミュージックと共演を果した頃には完全に過去のものとなった[11]

この論争の中で「日本のこれからのロックは日本語で歌うべき」とする人々が、はっぴいえんどを日本語によるニューロックの創始として支持し、これがのちの再評価のなかで「すべての日本語のロックの創始ははっぴいえんど」という「偏見」が広まった。しかし、以前のグループ・サウンズにはザ・スパイダースがオリジナル曲(かまやつひろし作曲)で「日本人による日本語のロックンロール」を展開している。「フリフリ」、「バンバンバン」で一応の成功を見ており、キャロルはスパイダースの直系の日本語ロックンロールであるテンプレート:要出典という主張もある(スパイダースは旧態の興業の世界から登場した故ここで言う「日本語ロック」のなかでは黙殺されているが)。 また、はっぴいえんどが「日本語のロック」を志すなかジャックス遠藤賢司を参考にした発言(出典「定本はっぴえんど」)も残されている。 ニュー・ロックはグループ・サウンズ以降の、多様化したロック・ミュージックを指すもので、欧米のサイケデリック・ロック影響経てハード・ロックカントリー・ロックロックンロールを指向するグループ、ソロ・アーティスト達に使われた(実際は、レコード会社の宣伝文句「ニュー~」の一つに過ぎなかった)。また「フォークとロックの確執」が存在し「西(関西)がフォーク、東(東京)は、ロックで、(はっぴいえんどは、)どっちつかずのコウモリ(と揶揄された)。」との細野の発言も残されており(「はっぴいえんど」項目参照)、こちらのわだかまり解消は、「岡林信康」の伴奏を「はっぴいえんど」が務めるなど歩み寄りは進んでいた。「日本語ロック論争」とは音楽指向の多様化が融合に進む流れ手前時期にマス・メディアが増幅し顕著化させた出来事でもあった。


しかし、この狭い範囲の論争と称するもので日本語ロックは事実上はっぴいえんどのことであり、テンプレート:要出典範囲

付記

日本人によるロック・ミュージックのあり方に一石投じた出来事だった。

一方の当事者を担った内田裕也は海外親展を意識する発言をしていたが、既にミッキー・カーチスという、戦後の日本に流入した洋楽でブーム化したロカビリーで「ロカビリー三人男」だった彼はミッキーカーチス&サムライ[12]1967年にインストロメンタル・アルバム、2枚のシングルを国内で制作後、11月に渡欧しイギリス、イタリアで4枚のシングル、西ドイツMetronomeレーベルから二枚組アルバムを発表し1970年夏に帰国、翌年日本でアルバム「河童」を発表、営業上の大きな成功には繋がらず、話題にも上らなかったが、日本出身のロックバンド [13] が海外現地で活動しで二枚組アルバムを制作発売する快挙[14] の一方、日本国内ではこの「議論」という些細な意見交換に終始していた。

出典

大川俊昭・高護共著『定本はっぴえんど』SFC音楽出版、1986年12月 ISBN 4893670247 白夜書房「ロック画報」

脚注

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関連項目

  • 楽曲影響はアメリカ西海岸に影響されバッファロー・スプリングフィールドモビー・グレープの影響が大きかった。
  • 日本語と英語で歌い、アイアン・バタフライ、ブルース・ロック、ブリティッシュ・ロックに影響された音楽だった。
  • ニューミュージック・マガジン』の編集は洋楽の中村とうよう福田一郎に日本フォークの田川律が関与していた。
  • 大滝は日本語のロックについて「あれは細野さんが言い出した」(『元春レイディオ・ショー』(2011年)と、自身は否定的であったと話している。
  • 5.0 5.1 『Hotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 Vol.1ウルトラ・ヴァイヴ、2005年、90頁
  • 6.0 6.1 『別冊太陽 日本のロック 50's~90's』平凡社、1993年、84-85頁
  • 7.0 7.1 『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房、2001年、31、198頁
  • 鈴木勝生 『風に吹かれた神々―幻のURCとフォーク・ジャンボリー』 シンコー・ミュージック、1987年、145頁
  • 吉田拓郎作「たどりついたらいつも雨ふり」のカバー
  • 本来の音楽志向と商業上ヒット曲を発表しなければならない矛盾、ジレンマに立たされてしまった。
  • のち、ツトム・ヤマシタ、やがてイエロー・マジック・オーケストラの成功が繋がって行く。
  • ミッキーカーチス&サムライ[1]を参照、このグループにはミッキーカーチスとサムライズ以外に様々な呼称があり、メンバーチェンジから一定していなかった誤解がある。
  • 日系人のHarumiやジャズ他分野では存在する。
  • 坂本九、スパイダースなど、国内録音シングルの海外発売は既に多数あった。