日本債券信用銀行

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旧日本債券信用銀行本店
九段下にあった。現在は北の丸スクエアに建替えられた

株式会社日本債券信用銀行(にっぽんさいけんしんようぎんこう、英称: The Nippon Credit Bank,Limited.)は、かつて存在した長期信用銀行3行の一つで、債券発行銀行。

1957年4月、旧朝鮮銀行の残余財産を基に、不動産抵当貸付に主眼を置いた銀行として、長期信用銀行法に基く日本不動産銀行(にっぽんふどうさんぎんこう)として設立された。1977年日本債券信用銀行に行名変更。

長らく割引金融債ワリシン」(旧名「ワリフドー」)、利付金融債リッシン」(旧名「リツキフドー」)、「リッシンワイド」と共に日債銀(にっさいぎん)の愛称で親しまれた。1998年12月に経営破綻し一時国有化され、2000年に投資グループに売却された。2001年あおぞら銀行に行名変更。

歴史

年表


旧朝鮮銀行の国内残余資産で設立

前身ともいうべき朝鮮銀行は、1909年11月に韓国銀行の名称で設立され、1911年8月の朝鮮銀行法の公布によって朝鮮銀行と改称された。

以後、36年間にわたり朝鮮および関東州における中央銀行としての機能を果たしたが、第二次世界大戦終結によって閉鎖機関に指定され、いわゆる特殊清算が進められた。

1953年8月、閉鎖機関令改正によって清算後の国内残余財産による新会社設立の道が開かれた。以後、清算事務と並行して新会社設立構想の具体化が進められた。新会社の構想では、“これ以上、長期信用銀行は不必要”との意見もある中、紆余曲折の末、最終的に「中小企業向けの長期資金の貸付を主要業務とし、不動産を抵当とするものに重点を置く」新銀行を長期信用銀行法に基づいて設立することとなった。

1957年4月、株式会社日本不動産銀行が資本金10億円で設立され、朝鮮銀行最後の副総裁で清算責任者であった星野喜代治が初代頭取に就任した。

1957年10月に大阪支店を開設し、以降1964年までに主要経済ブロックに計8支店を開設して全国ネットを整備し、1967年10月には東京都千代田区九段下に新本店を建設した。またこの間、1964年9月に東京証券取引所第2部に上場、1966年2月に同第1部に指定替えとなった。

高度経済成長期

日本不動産銀行設立時における日本の経済は、高度経済成長期に入り始めた頃であり、中小企業などの旺盛な資金需要ともあいまって業績は開業当初から急速に拡大した。1957年11月から利付金融債(期間5年)、翌1958年10月から割引金融債(期間1年)発行を開始し、利付金融債は金融機関の引き受けを中心に、割引金融債は個人向け貯蓄手段として、いずれも順調に発行量を拡大した。1960年代に入ると、対象顧客が、それまでの中小企業を重点とした運営から、中堅企業、さらにそれらの親会社を中心とする大企業との取引も次第に拡大し、本来的な長期信用銀行としての基盤確立が進められた。

また、不動産金融については、不動産担保金融にとどまらず、「長期信用銀行としての独自性」を発揮する分野として取り組みが図られた。1964年には「積立フドー」による住宅融資が開始され、また1965年からは建設業不動産業私鉄業が「重点3業種」と位置づけられ、事業金融の性格を持つ不動産金融として推進された。

1960年代後半に入ると国債発行開始によって金融債の消化にも少なからぬ影響が生じた。このため、金融機関による消化に加え、割引金融債を中心とした自力消化、証券会社を通じた販売が「債券消化の3本柱」として位置づけられ、組織の強化、店舗の拡充、新商品の開発などが進められた。1969年10月には第4代頭取として勝田龍夫が就任、翌1970年8月、経済社会構造の変化や経済の急速な国際化に対処するため、「長期経営計画」(7ヵ年)を策定、同時に大幅な組織改革を実施して、権限の委譲などによる組織運営の効率化が進められた[1]

1970年代前半は業務の国際化が進展し、外国為替業務をはじめ、シンジケートローン業務などが拡大したほか、1974年12月にはヨーロッパ市場で初の外債が発行された。海外拠点は、1971年10月にニューヨークに初の駐在員事務所、1974年4月にはロンドンに初の海外支店を開設した。また、1974年12月に初の外債1,500万ドルを発行している。

石油危機からバブル経済

“不動産銀行”という行名からも分かるように不動産融資に注力してきたが、もともと長期信用銀行として最後発であり存立基盤が薄く、また不動産融資が主力業務であることは、日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権を作り出し、早くも1970年代後半には経営不安がささやかれるようになる。その前身から民族系企業や韓国外換銀行などとの取引が多く、不動産取引を通じて“闇社会”との接点をもち、ダーティーイメージのある金融機関であった[2]

こうした中、1973年第1次石油危機に伴う不況の中で、長期経営計画の見直しなどの対応が図られ、経営の効率化が進められた。1977年10月には創立20周年を機に、行名を株式会社日本債券信用銀行に変更、不動産担保金融より債券発行銀行としての路線転換を強調する狙いも込められた。

1980年代になると、組織改革のほか行内情報処理体制の構築などが積極的に進められ、銀行法の改正などによる金融自由化、国際化の進展などへの長期的対応が図られた。1982年には長期経営計画「PROJECT30」(5ヵ年)が策定され、1985年には環境変化の早さに対応するため、融資・債券・証券・国際業務などあらゆる機能を活用した「総合営業」が推進された。特に国際業務面では、全業務の国際化と海外営業力の強化が図られ、海外支店・駐在員事務所拡充の他、ロンドンオーストラリアスイスドイツなどに現地法人が設立された。また、新たに認められた公共債の窓口販売、ディーリング業務についても債券発行銀行としてのノウハウを生かして当初から積極的に取り組みが行われた。1987年以降は、自己資本の充実、ALMなどによる財務・収益構造の改善が進められた。

しかしバブル経済当時、前任の勝田龍夫同様ワンマン体質を引きずる実力者・頴川史郎1947年9月東大経卒・興銀を経て1964年入行。総務部長・業務推進部長を経て1970年取締役、1972年常務、1975年副頭取、1982年11月頭取、1987年12月会長、1992年6月相談役)は「暴力団相手だろうが、無担保だろうが、貸して・貸して・貸しまくれ」、「千代田(日債銀破綻の原因の一つとなる系列ノンバンク・千代田ファイナンス、後の日本トータルファイナンス)を見習え。たった2年間で融資残高を1,000億円から4,000億円に増やしている」と積極融資の大号令をかけていたと言われ、結果としてバブル崩壊後に膨大な不良債権を作り上げることになる。

バブル崩壊と経営破綻

1991年以降バブル崩壊によって、ノンバンクや不動産業向け融資が巨額の不良債権となって、経営を圧迫し始めた。保有株式の売却や債権買収機構などを積極活用し、1993年から実施された中期経営計画(3年間)の下で新たな対応が進められた。

しかし、日債銀の経営危機はさらに深刻化し、1993年窪田弘国税庁長官、1996年には東郷重興元日銀理事をそれぞれ経営首脳に迎え、事実上大蔵省・日銀管理銀行となる。1994年4月には海外より全面撤退、またクラウン・リーシング(負債約1兆1187億円)など系列ノンバンク3社を破綻処理し、1996年3月期決算は初の赤字決算となる。

こうした中、1997年3月には自己資本比率が国内基準の4%を割り込む水準まで低下する。再建策として1997年3月大蔵省が中心となり、全支店の売却および各金融機関および新金融安定化基金(日銀拠出を含む)よりいわゆる奉加帳増資で合計2,900億円を調達している。当時の日債銀・資本勘定の3倍に相当する金額であったが、引受側の各金融機関には東京証券取引所規則により「原則として割当株式の2年間売却凍結」との制限が付いた。これが後々に、日債銀株価の奇妙な安定を裏で支える要因となる[3]。続いて1998年3月に金融危機管理審査委員会(委員長・佐々波楊子慶大教授)の決定で、600億円の公的資金を注入した。また1998年4月、バンカース・トラストと業務提携する。

1991年から行われていた不良債権をペーパーカンパニーに付替える、いわゆる「飛ばし」行為による粉飾決算は、1993年に松岡誠司頭取時代以降により本格化する。当時の会計基準では、連結決算が重視されていなかったこともあり「飛ばし」行為は厳密には粉飾決算では無かった。また、日債銀の場合、旧朝鮮銀行時代や来島ドック福島交通に関する不良債権を「飛ばし」処理することで、景気回復後に適宜償却できた成功体験があった。1995年、こうした不良債権処理は本店事業推進部に一本化されるが、何れにせよ根本的な再建策は採られていなかった。また、1998年3月期決算について、279社を格上げ査定し、不良債権の取立不能見込額の過少処理・貸倒引当金の大幅圧縮(後に粉飾決算として刑事立件)を行っている。同時期、外資系金融機関、特にクレディ・スイスグループが販売するデリバティブ取引を組み込んだ金融商品を利用した不良債権隠しも行われていた[4]

1998年、マーケットは同じく長期信用銀行で経営危機に陥っていた日本長期信用銀行に関心が集中していた。株価下落と資金繰りに行き詰ったことによりマーケットから退場を迫られた長銀は、同年10月に特別公的管理下・国有化に入った。その後の関心は、小康状態を保っていた日債銀に向かっていたが、同年12月、金融庁検査で実質2,700億円の債務超過が認定され、金融再生法により、特別公的管理下・一時国有化が決定された[5]

投資グループに売却

2000年 ソフトバンクオリックス、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)などから成る投資グループに売却され、直後の2000年9月、次期社長にも内定していた本間忠世頭取(元日銀理事)が不可解な自殺を遂げる。

翌年2001年には現社名である「あおぞら銀行」に変更。

この売却にあたり、金融再生委員会預金保険機構は、日本債券信用銀行の債務超過を穴埋めするため、3兆2,428億円の公的資金投入を行った。この結果、1998年に投入した600億円を含め、実質的国民負担額は、金融機関の負担する預金保険料1,714億円を差し引いた3兆1,314億円に上った(公的資金投入額のうち、一時国有化月時点の不良債権処理費用は3兆1,497億円。国有化後に発生した損失は931億円とされる)。但し、この数字には瑕疵担保条項によって、国による不良債権買い上げによって生じる損失は、考慮されていない。

責任追及

1998年12月、その後、窪田元会長・東郷元頭取ら旧経営陣3名は、粉飾決算による証券取引法違反容疑で逮捕された。2004年5月、一審・東京地裁は 3名に対し、有罪判決(窪田元会長は懲役1年4月、東郷重興元頭取、岩城忠男元副頭取は懲役1年、いずれも執行猶予3年)を言い渡した。2007年3月、二審・東京高裁は窪田元会長に控訴棄却・有罪を言い渡したが上告を受けた最高裁判所2009年12月に二審判決を破棄差し戻し、2011年8月30日、東京高裁は無罪判決を下し、確定した(日債銀事件)。

また日債銀破綻後にその不良債権を引継いだ整理回収機構(RCC)は2001年9月、頴川史郎元会長ら旧経営陣11人に対し、「バブル期の放漫融資に深く関与していて、不良債権の原因を作った経営陣らの民事面での責任追及が可能」として、総額45億円の損害賠償を求める提訴をした。2004年3月、東京地裁は、恒吉克章元副頭取ら2名に対しRCCの請求通り5億円の支払いを命じる判決を下した。また、2004年5月、東京地裁は、RCCの請求を全面的に認め、頴川元会長ら旧経営陣に40億円の支払いを命じる判決を下した。その後、2005年12月、東京高裁にて合計2億円の賠償支払で和解が成立した。賠償額の内訳は頴川元会長が4,000万円、松岡誠司元頭取ら8人が計1億6,000万円を連帯して支払う内容となっている(告訴された11名の内、1名が控訴取下げ・1名は2004年10月に東京高裁で和解が成立していた)。

ちなみに、“日債銀破綻のA級戦犯”と名指しされるも、時効により刑事立件を逃れた頴川史郎の役員退任時の退職金は約6億円といわれる。日債銀は損害賠償とは別に、頴川史郎元会長ら旧経営陣16人に対して総額19億円の退職金の自主的返還も要請した。全員が返還に合意したものの、これまでの返還額は計約2億5000万円にとどまっている。こうしたなか、2007年3月7日、頴川は死去、享年84。

脚注

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関連項目

  • なお、勝田は自ら日債銀設立に関わった後、1969年から18年間、頭取・会長として実権をふるい、1991年5月に死去するまで名誉会長の座にあった。その強引ゆえに、気に入らない部下は左遷・降格で経営中枢から遠ざけられたという。この結果、”行内で『派閥』がない”=”「事なかれ主義」のイエスマンがはびこっているだけ”の企業風土が形成されたとされる。
  • 一時、本店駐車場を右翼の街宣車に利用させており、また、1984年3月に発覚した「東北の政商」と呼ばれた小針暦二福島交通会長への過剰融資は、最終的に500億円を超える不良債権として経営を揺さぶることになる。さらに、金丸信を“カマキリ紳士”の符号で無記名金融債口座を管理し、結果として巨額脱税に一役買っており、1993年には当時の松岡誠司頭取が国会に証人喚問されるなど、“政治家の貯金箱”とまで言われていた。
  • なお、この処理に際して、日債銀の不良債権1兆1,212億円を大蔵省が把握していながら、当時の幹部(山口公生銀行局長・中井省銀行局審議官)は各金融機関に対し「日債銀の不良債権は7,000億円」と説明していたとの報道がなされている。
  • ちなみに、この金融商品は、日債銀のほか北海道拓殖銀行東京相和銀行足利銀行中部銀行といった後に経営破綻をする金融機関を中心に少なくとも60社がこれを購入、1992年から5年間で飛ばされた不良債権総額は判明分で約5,700億円、その間、クレディ・スイスが得た手数料は340億円とされている。1999年5月の金融監督庁検査でクレディ・スイスはこの取引資料を組織的に隠蔽し、当時の支店長が銀行法違反で逮捕され、法人自体も行政処分を受けている。
  • 当時、日債銀の株価は低位であるものの安定し資金繰りにも問題がなかったことから、その破綻認定に対してはマーケットの意外感が強かった。また、日債銀も行政訴訟により抵抗する構えを見せていたが、結局は認定を受け入れることになる。