徳地町

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徳地町(とくぢちょう)は、山口県中部にあった。一町で佐波郡をなしていた。非常に広い地域で、山口市全域の40%近くを占める[1]

2005年10月1日山口市および吉敷郡3町(小郡町秋穂町阿知須町)と合併(新設合併)し、新たに山口市となり消滅した。

地理

佐波川上流の中国山地山間部にある。滑(なめら)国有林をはじめとする山林が総面積の約9割を占める。

隣接している自治体

歴史

太古には朝廷の直轄地で、徳地県(あがた)が置かれ、伝説では、出雲種族が移民し開発した一帯で、景行天皇熊襲征伐の際には手助けをしたという[2]。古くから良質の木材の産地として知られ、鎌倉時代には、1180年に焼失した華厳宗大本山である東大寺奈良県奈良市)の復興に使う木材をここから切り出したと言われているとのこと。※部材をどこの部分に使われたかは不明である。

森林地帯であることから当時この一帯には生業がなく、東大寺の木材調達のために訪れた重源が村人の貧困を憐れみ、の製造を教えたと伝えられている[3]。以降、紙製造は地域の産業となり、毛利藩政時代には藩の事業として大いに発展、徳地紙は名産品として全国に知れ渡った。紙の買い付けに北前船の商人たちが訪れ、街は賑わったが[4]明治に入り藩の後ろ盾がなくなるとともに衰退していった[5]

昭和初期には、出雲村、八坂村、柚野村を下徳地、島地村、和田村、串村を上徳地と呼んでいた[3]。昭和、平成と合併を繰り返し、山口市に編入された。旧徳地町地域は、過疎化が進み、限界集落となっている[1]

沿革

  • 1955年(昭和30年)4月1日 出雲、八坂、柚ノ野、島地、串の五村が合併、町制施行して徳地町となる。
  • 2005年(平成17年)10月1日山口市など1市3町と合併して消滅。

歴代町長

産業

稲作と肉用牛の生産、および林業が盛んである。山林の樹種はスギヒノキマツなどの針葉樹が大半で、コウゾミツマタなど紙の原料となる木もある。ここで作られる和紙徳地和紙文化が今でも残っている。

交通

鉄道路線

バス路線

道路

主要施設

観光スポット

出身者

脚注

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  1. 1.0 1.1 「限界集落論の批判的検討 : 地域振興から社会福祉へ : 山口市徳地地域の高齢者生活調査を中心に」畑本裕介 山梨県立大学人間福祉学部紀要 5, 1-15, 2010-03-05
  2. 德地縣と出雲種族『郷土物語』吉村藤舟著 (郷土史研究会, 1935)
  3. 3.0 3.1 人德地杣入と生業獎勵『郷土物語』吉村藤舟著 (郷土史研究会, 1935)
  4. 「重源上人から山頭火まで : 徳地町の語り部・赤木森さん大いに語る」安渓 遊地 , 安渓 貴子 山口県立大学國際文化學部紀要 11, 55-67, 2005-03-25
  5. 『関門地方経済調査』市立下関商業学校編 (市立下関商業学校, 1935)

外部リンク