徳南晴一郎

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テンプレート:Sidebar with collapsible lists 徳南 晴一郎(とくなみ せいいちろう、1934年6月1日 - 2009年12月24日)は、日本の漫画家大阪市北区南森町に生まれる。本来の読み方は「とくなん」だが、戦時中「国難」と掛けて学校でさんざん虐められた悲惨な思い出もあり、また「十苦難」と意味が重なるのを避けるため、30歳のとき「とくなみ」と改めた。

略歴

8人兄弟姉妹の長男。幼稚園にあがる数年前にジフテリアを患い、下垂体性機能不全小人症を発病。このため身長140cmで発育が停止。そのため、子供の頃から常にいじめにあい、人間嫌いで神経質な性格の元となった。

戦時中は大分福井の親戚の家に縁故疎開した。1953年石森章太郎主宰の同人誌『墨汁一滴』に参加。大阪の高校を卒業後、知人の紹介で漫画家藤原成憲と知り合い、専売公社の宣伝活動に参加して街頭で漫画を描いた。同じころ、大阪市立天王寺美術研究所に研究生として在籍。しかし1955年に行き詰まりを感じて同研究所を退いた後、大阪の丸山東光堂から『影を斬る侍』『あらしの剣豪』を上梓し、貸本漫画の世界に入る。丸山東光堂の社主の没後、わかば書房から『笑狂四郎捕物控』シリーズを5~6点刊行したが、わかば書房でお家騒動が起きたのを機に上京を決意。このとき、上京の目的のひとつは、東京在住の医学者緒方知三郎東大名誉教授を訪れてホルモンの投与を受け、人並みに背を伸ばすことにあった。

1957年10月に上京。雑司が谷にあった手塚治虫の住居"並木ハウス"に居候していたこともある。緒方知三郎を訪ねたものの年齢を理由に治療不可能なることを告げられ、落胆する。原稿の売込にも失敗したため前途に絶望。手塚家を出て雑司が谷の別の下宿に移ってからガス自殺を図ったが、大家が元栓を締めていたため未遂に終わる。

その後、曙出版で原稿の売込に成功し、同社から『怪猫雪姫』『怪猫紅行燈』『忍法無惨帖』などを上梓。同じ時期に早稲田へ転居。このころ、曙出版専属漫画家の親睦会「+画人会」(ぷらすがじんかい)のメンバーに長谷邦夫川田漫一ヒモトタロウ江戸川清鈴原研一郎らがいた。

貸本屋からの返本が続いたため、市川誠一の筆名で『ひるぜんの曲』など青春現代物を執筆。やはり人気は思わしくなく、1962年夏から本名に戻って『怪談 人間時計』『怪談 猫の喪服』などのシュールな作風の怪奇漫画を発表。このころ豊島区高田本町に転居。1962年12月に結婚したが、神経質な徳南による執拗な叱責に耐えかねて妻が実家に帰ってしまい、まもなく破婚。

曙出版から『徳川家康』『豊臣秀吉』『伊達政宗』など戦国武将ものを上梓。しかしこれまた人気が出ず、生活に窮してエロ漫画を描き、成人向けの週刊誌に持ち込んだが不採用となった。とうとう仕事がなくなったため1963年6月に漫画家を廃業し、光映画現像株式会社に就職。このころ武蔵野市境に転居。

フィルム現像の手伝いをしていたが、全自動現像焼付機の導入に伴ってやりがいを失い自主退職。折あたかも母が病気で入院したため大阪に帰郷。しばらく生家のパン屋を手伝っていたが、大手製パン会社の進出で店が潰れたため、電気商工新聞社に就職。以後、印鑑のセールスや無線配車タクシーの手配の仕事など職を転々としつつも一介のサラリーマンとして過ごし、二度と漫画を発表することはなかった。ただし日曜画家として油絵を描き続け、1979年には創元会第38回展覧会に入選したこともある。油絵画家としての名前は徳南誠吾。

永らく忘れられた漫画家だったが、1979年に『怪談 人間時計』が限定450部復刻される。後年、一部の漫画マニアに評価をうけ、著作は10万円以上のプレミアがつくほどのカルト的人気を得、1990年代以降、太田出版から続々と旧作が復刊された。またライターの大泉実成が「消えたマンガ家」の取材で、徳南本人に接触を試みているが、本人の強い意向によりインタビューは出来なかった事などを明かしている。

趣味は読書と漢詩とクラシック音楽鑑賞。夏目漱石永井荷風を愛読し、ベートーヴェンを崇拝していた。

著書に、特異な自伝『孤客』(太田出版、1998年)がある。

2010年1月末、前年の12月24日に死去していたことがあきらかになった[1]

代表的な作品

  • 『怪談 人間時計』
  • 『怪談 猫の喪服』
  • 『ひるぜんの曲』

外部リンク

徳南晴一郎作品リスト http://www5a.biglobe.ne.jp/~natsuman/tokunan.htm

脚注

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  1. 長谷邦夫の日記