張作霖爆殺事件

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爆破現場の状況、右下の残骸があるところが爆破地点

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年昭和3年、民国17年)6月4日中華民国奉天(現瀋陽市)近郊で、関東軍によって奉天軍閥の指導者張作霖暗殺された事件。別名「奉天事件[1]」。中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。終戦まで事件の犯人が公表されず、日本政府内では「満洲某重大事件[2]」と呼ばれていた。

背景

馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下、段芝貴失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。

張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、1918年(大正7年)3月、段祺瑞内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。1920年8月、安直戦争の際には直隷派を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。1922年、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張は東三省の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した。鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備えるための方便にすぎなかった[3]

第一次国共合作1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。

1924年(大正13年)の第二次奉直戦争では、馮玉祥の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。1925年11月22日、最も信頼していた部下の郭松齢が叛旗を翻し、張は窮地に陥った。関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。郭の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖は呉佩孚と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした[3]1927年4月には北京のソビエト連邦大使館を襲撃し中華民国とソ連の国交は断絶。

国民党の北伐で直隷派が壊滅(1926年)した後、張作霖は中国に権益を持つ欧米(イギリスフランスドイツアメリカなど)の支援を得るため、日本から欧米寄りの姿勢に転換。権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援。

同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、1927年4月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石中国共産党員とその同調者の一部労働者を粛清し、国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この粛清以降、蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。

1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとし[4]、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。

  • 奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
  • 国民党
  • 中国共産党 ← ソ連

満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、1926年の歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。張政権は不換紙幣を濫発し、1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年には490元、1927年には4300元に暴落した[3]

1928年4月、蒋介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。

  • 奉天軍(張作霖)
  • 国民党 ← 欧米
  • 共産党 ← ソ連

当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発した。蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。

また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止された。

1928年、以下のような記事が新聞発表された。

電報 昭和3年6月1日
参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
第47号

5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり

一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し
二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く

1928年6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。

陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。
  • 関東軍
軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出した。

4月19日、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定し、5月3日済南事件が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。5月16日、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蒋介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した[3]

5月18日、アメリカから「日本は満洲に対して何らかの積極的行動に出るのではないか、もしそうなら事前にアメリカにその内容を示してほしい」という要求があり、また19日には、アメリカのケロッグ国務長官が記者団に対し、「満州は中華民国の領土である」とし、同国の領土保全を定めた九カ国条約を提示した。のちにケロッグ国務長官は、日本を非難したように曲解されたことは非常に遺憾である旨を松平恒雄駐米大使に述べた。斉藤恒関東軍参謀長の日記によると、24日、アメリカ公使が芳沢謙吉公使に、日本独力にて満洲の治安維持を為さんとするとせば重大なる結果を来す、と告げた[3]

5月20日から関係当局の会議が開かれ、25日にようやく既定方針で進むことが決定されたが、有田八郎アジア局長と阿部信行軍務局長腰越の別荘にいた田中首相に決裁を求めると、田中首相は「まだええだろう」と答え、関東軍宛てに「錦州出動予定中止」が打電された。河本大作は「松平駐米大使からの報告に基づいて、田中首相がアメリカの輿論に気兼ねをし、既定の方針の敢行をためらった」と発言し、石原莞爾中佐は「出淵(松平の誤り)の電報一本で参謀本部が腰を抜かしたのだ」と語ったという[3]

村岡長太郎関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中首相は出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意した。河本大作大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに独自全責任をもって決行したという。

河本大作を満洲に送り込んだのは一夕会の画策であったと土橋勇逸は証言している[5]

列車爆破

ファイル:Huanggutun Incident.jpg
張作霖が乗車していた列車

1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと6月21日に発表した。

また警備、側近ら17名が死亡した。同列車には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問儀我誠也少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている[6]。張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に要請されて同道したが、天津で下車した。また、山東省督軍の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。

車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した[7]

同乗していた儀我が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、張作霖の乗っていたのは8輌目であったが[8]、爆破によりその前側車輌が大破し、先頭部の6輌は200メートル程走行して転覆し、列車の後半部は火災を起こした。8輌目では張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していたが、呉が張と儀我に寒いからと勧めるので張は外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、張は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたがこの時には「何、大丈夫だ」と答えていた。やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着し、現場は憲兵で警護され、自動車が到着すると張は自動車でその場を離れ、大師府に入った[9]

関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官村岡長太郎中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行する。河本からの指示に基づき、6月4日早朝、爆薬の準備は、現場の守備担当であった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉、同第二大隊付の神田泰之助中尉朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉らが協力して行った。

現場指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。2人は張作霖が乗っていると思われる第二列車中央の貴賓車を狙って、独立守備隊の監視所から爆薬に点火した。そのため、爆風で上から鉄橋(南満洲鉄道所有)が崩落して客車が押しつぶされた上に炎上したものである。なお張作霖乗車の車両は貴賓車であり、かつては清朝末期に権勢を振るっていた西太后お召し列車として使用していたものだった[10]

河本らは、予め買収しておいた中国人アヘン中毒患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突、死体を放置し「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていた[11][12]。しかし3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わったのである。なお、張作霖の側近として同列車に同乗して事件で負傷した張景恵は後に満洲国国務総理大臣に就任している。

爆破事件の直接首謀者

  • 関東軍参謀 河本大作大佐(計画立案)
  • 奉天独立守備隊 東宮鉄男大尉(直接担当)
  • 朝鮮軍龍山の亀山工兵隊 桐原貞寿工兵中尉(爆弾設置工事等)

事後調査

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爆破箇所における現場検証(交差していた鉄橋は崩落している)

林久治郎奉天総領事は6月4日の事件発生直後、内田五郎領事に対し、現場へ急行し奉天警察側との合同調査班を結成するよう命じた。内田は八ヶ代副領事らとともに、奉天交渉署関第一科長、安第三科長らとの合同現場検証チームを編成した。日本と奉天軍閥の共同調査が行われ、爆発後に集めた破片から爆弾はロシア製と判断された[7]。事件当初から「日本軍の仕業」とする説が流布された。当初は国民党の便衣兵による犯行であるとされたこと[13]、また現場は張作霖の通過ということで奉天軍側は前日に警備の交替を日本側に申し出て奉天軍閥兵士50名で張が利用する京奉鉄道側を守り[14]、日本軍は満洲鉄道側を警備していたため無関係との理解が得られ、日本に対する疑念は薄らいだ[15]

奉天軍閥側は事件の発生した場所が本来日本側の管理区域であることから日本側の責任を主張したが、日本側は奉天軍閥側が自ら求めて張の到着のために警備を行った点を主張した。6月15日には日中共同調査の報告書に調印されることとなっていたが、奉天軍閥側は折衝を重ねた経緯があるにも関わらず当日調印を拒否した[16]。日本側の記録には事件の際に外部の爆弾を用いて張作霖のいる車両のみならず、その場所まで特定して暗殺することは不可能であり、予め車両の天井部分に用意した爆弾を走行中に機関車からの電気配線を用いて爆破させた方法が実施されたとする根拠が記されている[17]

現場調査を行った民政党代議士松村謙三は、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを奉天軍閥側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している[18]。事件直後現場に行って、事件に関わった安達隆成から詳細な話を聞いた工藤鉄三郎(工藤忠。のち溥儀から「忠」名を与えられて改名)が急いで帰国し、小川平吉鉄道大臣に対し、口頭説明の後、書簡「奉天に於ける爆発事件の真相」でも説明し、田中首相にも口頭説明をした。白川義則陸相がなかなか信じなかったため、田中首相・小川鉄相・森恪外務政務次官が連携したとみられるが、「特別調査委員会」を設置し[17]、陸軍に調査を促した結果、峯憲兵司令官が派遣され調査し、現場で発見された「中国人2人」の死体は実は日本側の工作であったことなどが確認された。工藤は、田中首相・小川鉄相・白川陸相・森次官のいずれとも関係があった人物であり、工藤の報告は田中内閣の実情調査・事実確認で決定的な意味をもった[19]。峯憲兵司令官も朝鮮にて桐原中尉を尋問、事件の主犯は河本大佐ら日本側軍人であるとの確証を得、その旨を田中首相に報告した。

また河本自身が事件の二ヶ月前に大阪陸軍地方幼年学校時代以来の後輩である磯谷廉介に「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ」と[20]、張に対する実力行使を手紙で事前に告げていた。しかし同じ手紙の最初のほうに、「満蒙問題の解決は理屈ではとてもできぬ、少しぐらいの恩恵を施す術策も駄目なり、武力のほか道なし、ただ武力を用いるとするも名義と幡じるしの選択が肝要なり、ここにおいてか少しでも理屈ある時に一大痛棒を喰わせて根本的に彼らの対日観念を変革せしむる要あり」とあり、また、奉天特務機関秦真次少将と張作霖首席軍事顧問土肥原賢二中佐が、張作霖親衛隊長黄慕(荒木五郎)に謀反を起こさせようとした謀略を阻止したことが書かれており、「もし土肥原なんかのすることを放任していたら、陸軍はもう世間に顔出しならぬこととなっていよう」とあり、「張作霖の一人や二人ぐらい、野垂れ死にしても差し支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ」は必ずしも張作霖殺害を意味しない、という説もある[3]

斉藤恒関東軍参謀長は「張作霖列車爆破事件に関する所見」で、爆源は橋脚上部か列車内にあったのではないかと報告している。また、列車が現場に近づくや時速10キロ程度にスピードを落としたのはなぜか、と疑問を投げかけている。そして、列車内より橋脚上部の爆薬を爆破させようとしたら、列車内に小爆薬を装置し、これを爆破して逓伝爆破によって行えば容易なり、と述べている。さらに、橋脚壁は黒の煤煙で覆われ、黄色粉末を見ず、使用爆薬は黒色または「ヂナミット」である、としている。内田五郎領事の報告書[21]では、爆薬は、展望車後方部か食堂車前部の車内上部か、または橋脚鉄桁と石崖との間の空隙個所に装置されたものと認められる、とされている。さらに、松村謙三は、爆破の状況をみるに、上のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしい、と述べている[22]

しかし、河本大作は線路脇の土嚢の土を火薬にすりかえたと証言しており[23]秦郁彦は、線路脇の資材置場に積んであった土嚢と黄色火薬詰めの麻袋と差し替えたとしており[24]、満鉄線陸橋から奉天側へ数メートルほど離れた地点としている[25]。また、松本清張は、満鉄路線脇の歩哨のトーチカに麻袋3個分の火薬がつめこまれたとしている[26]。さらに、相良俊輔は、陸橋の橋脚から15メートル手前の線路際に積んであった土嚢の土をのぞき、火薬をつめたとしている[27]

田中内閣総辞職

東京裁判関係資料から発見された「厳秘 内奏写」(栗谷憲太郎『東京裁判論』所収、大月書店)によれば、田中首相は昭和天皇にたいし同年12月24日「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と河本大佐の犯行を認めたうえで、関係者の処分を行う旨の上奏を行った。しかし田中はその後、陸軍ならびに閣僚・重臣らの強い反対にあった。白川義則陸相は三回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏し、陸軍は軍法会議開廷を回避して行政処分で済ませるため、5月14日付で河本高級参謀を内地へ異動させたので、河本をふくめた関係者の処分を断念。「この問題はうやむやに葬りたい」との上奏を行うこととなった。

6月27日、田中首相は「陸相が奏上いたしましたように関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分致します」と上奏した。これに対し天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と田中を叱責し、田中首相が恐懼し弁解をしようとしたが、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と話す[28]。鈴木侍従長から天皇の言葉を聞かされた田中は引責辞任の腹を決め、7月1日付で村岡長太郎関東軍司令官を依願予備役、河本大作陸軍歩兵大佐を停職、斉藤恒前関東軍参謀長を譴責、水町竹三満州独立守備隊司令官を譴責とする行政処分を発表し、7月2日に田中内閣は総辞職した。しかし、大佐クラスの独断で出来る規模の謀略ではなく関東軍司令官からの命令であったと言われていたにも係らず、河本は主な責任を問われ、1929年4月に予備役、第九師団司令部附となり金沢に講せられ、同年8月停職処分と言う形で軍を追われた。

易幟

また、奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良も程なく真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換。1928年12月29日朝、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。結果、日本は満洲への影響力を弱める結果となった。これが後の満洲事変の背景の1つとなる。

異説

ソ連特務機関犯行説

張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説も存在している。2005年に邦訳が出版されたユン・チアンマオ 誰も知らなかった毛沢東』でも簡単に紹介され、プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている[29]

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その他

在中全権大使を務めたアメリカの外交官・ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリーの覚書によると、郭松齢の反乱以降、張学良が父張作霖との関係がうまくいっていなかったこと、日本と張作霖の関係は完全に満足のゆくものではなかったが、どうしようもない状態ではなかったことから、日本人が張作霖を爆殺したという説は理解できないとしている[30]。瀧澤一郎も同様に日本側は張作霖を重視しており、殺害するメリットはなく、デメリットしかないことが明らかで、日本側が犯行を犯したという言説に疑問を呈している[31]。また、加藤康男は『謎解き「張作霖爆殺事件」』で、「ソ連特務機関犯行説」とともに「張学良犯行説」に言及している。

現状

現場の線路は現役であり[10]であり、張作霖列車が大破した下線は瀋陽北駅から北京に向かう高速電車などに使われ、上線は瀋陽駅から吉林方面に向かう列車などに使用。上下線の交差付近の斜面上に「皇姑屯事件」と事件跡を示す石碑[10]があるが、鉄道施設内にあるため一般人の立ち入りはできないため、線路脇からしか見ることができない。なお、張作霖が向かっていた瀋陽駅は現在は線形が変更されたため、張作霖列車が使っていた線路では入線することができない[10]

備考

張作霖爆殺事件の首謀者とされる河本大作であるが、また事件後、関東軍時代の伝手を用いて、南満洲鉄道の理事、ついで満州炭坑の理事長と就任できたのも事件への関与が評価されていたと言える。

出身地である兵庫県三日月町の町史によれば、河本の一連の行為に対し「報国の至誠とその果断決行は長く記録されよう」と評価[32]されている。また地元有志により河本の生家の隣にある明光寺の境内に建立した顕彰碑がある。碑には「戦犯となり収容所にて病没」と刻まれているという[33]

脚注

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参考文献

概説書、研究文献
  • 井星英「張作霖爆殺事件の真相」(『芸林』昭和57年3月号より5回連載)
  • 稲葉正夫「張作霖爆殺事件」(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』所収)
  • 大江志乃夫『張作霖爆殺』(中公新書)
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件」(文春文庫『昭和史の謎を追う』(上)所収)
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件の再考察」(日本大学法学会『政経研究』2007.5)=「ソ連陰謀説」への批判。
  • 益井康一「満州事変の真相」(光人社NF文庫「なぜ日本は戦争を始めたのか」所収)
  • 『昭和・平成日本のテロ事件史』(別冊宝島)
  • 植民地文化学会 中国東北淪陥14年史総編室『「満洲国」とは何だったのか―日中共同研究』小学館 2008年

張作霖爆殺事件を描いた作品

小説
映画

関連項目

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  • 奉天事件コトバンク
  • 満州某重大事件コトバンク
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 井星英「張作霖爆殺事件の真相」
  • つくる会「新版 新しい歴史教科書」自由社刊 198頁 2009年
  • 土橋勇逸『軍服生活四十年の想出』
  • 『朝日新聞』 2008年6月15日付朝刊 10面
  • 7.0 7.1 タイムズ紙 1928年6月6日16面
  • タイムズ」誌は「張作霖の使った列車は貴賓車22輌からなるもので爆破は機関車から11輌目を吹き飛ばし、続く4輌を焼失させた」と伝えている 1928年6月5日16面
  • 東京日日新聞』1928年6月5日付夕刊、一面
  • 10.0 10.1 10.2 10.3 鉄道ジャーナル 2009年7月号、鉄道ジャーナル社刊より
  • 大江志乃夫『張作霖爆殺』、中央公論社(中公新書)、1989年 ISBN 4-12-100942-8
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う (上)』、文藝春秋(文春文庫)、1999年 ISBN 4-16-745304-5
  • 『東京朝日新聞』1928年6月5日付朝刊、二面
  • 『読売新聞』1928年6月5日付朝刊、二面
  • ニューヨーク・タイムズ紙 1928年6月6日7面
  • 共同調査報告の内容は現場の状況、事件当日の日中特別警備協定、中国国民党の便衣隊による事件であること、爆薬装填箇所を特定する結論からなり、便衣隊については折衝により承認がなされ、爆薬装填箇所についても大部分も合意されていたが中国側は各項目全部の不承認を訴えた(『東京朝日新聞』1928年6月17日付夕刊一面)
  • 17.0 17.1 テンプレート:Cite web
  • 松村謙三『三代回顧録』、東洋経済新報社、1964年
  • 山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠  忘れられた日本人の満洲国』(朝日新聞出版、朝日選書、2010年)
  • 読売新聞戦争責任検証委員会編著『検証戦争責任II』、中央公論新社2006年 8~9頁 ISBN 4-12-003772-X
  • 「昭和三年六月四日満鉄京奉交叉点地点列車爆破事件調査報告」『張作霖爆殺ファイル』(A6-1-5-2)外交史料館所蔵
  • 松村謙三『三代回顧録』
  • 森克己『満洲事変の裏面史』(森克己著作選集第6巻)国書刊行会、1976年
  • 秦郁彦『昭和史の謎を追う』上巻
  • 秦郁彦「張作霖爆殺事件の再考察」(『政策研究』第44巻第1号)
  • 松本清張『昭和史発掘』2巻
  • 相良俊輔『赤い夕陽の満州野ヶ原で』
  • 原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。
  • 2006年2月28日 産経新聞
  • ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー『平和はいかに失われたか』
  • 『正論』2006年5月号「張作霖を「殺った」ロシア工作員たち」
  • 学習研究社『歴史群像シリーズ 満州帝国』164頁
  • 張作霖事件・河本大佐の生地で孫が平和の絵本展 佐用町 asahi.com 2010年1月7日配信、2010年1月10日確認