引き揚げ

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引き揚げ(ひきあげ)とは、1945年(昭和20年)の敗戦まで、日本の植民地や占領地での生活基盤を有する一般日本人が、日本本土に戻されることをいう。これに対し、軍人や軍属を召集解除または解雇し、軍籍から外すことを「復員」という。軍人軍属が日本本土以外にいる場合は、日本への帰還が完了することで最終手続きとなるため、所定の「復員手続」を済ませて、帰郷旅費を支給するまでの面倒を見ることまでが「復員業務」とされた。本項では、一般日本人の「引き揚げ」に加え、軍人軍属の「復員業務」を併せて扱う。

敗戦

1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇は日本国民に向けての録音放送で「ポツダム宣言」を全面的に受諾する旨の、「終戦に関する詔書」を発表した。これにより日本政府は、以下の義務を負うことになった。

  1. 無条件降伏の宣言
  2. 軍の武装を完全解除
  3. 植民地、占領地の放棄
  4. 連合国による占領の受け入れ
  5. 戦争犯罪人に対する処罰に応ずること

1945年8月15日時点での在外軍人、在外一般日本人の概況

日本国外にいる軍人、軍属は陸軍が308万人、海軍が45万人であり、合わせて353万人にのぼった。これに一般人300万人を加えた、約660万人が海外にいたことになる。これを5つの軍管区別にみると以下のとおりである。

  1. 中国軍管区(旧満州地区を除く中国本土、台湾、北緯16度以北のフランス領インドシナ)在留全日本人の概数312万人(在留全日本人の47パーセント)
  2. ソ連軍管区(旧満州地区、北緯38度以北の朝鮮樺太千島列島)在留日本人の概数161万人(在留全日本人の24パーセント)
  3. イギリス軍管区(アンダマン諸島ニコバル諸島ビルマタイ国、北緯16度以南のフランス領インドシナ、マライ、スマトラジャワ小スンダ諸島、ブル、セラム、アンボンカイテンプレート:要曖昧さ回避、アル、タニンバルおよびアラフラ海の諸島、セレベス諸島ハルマヘラ諸島オランダ領ニューギニア)在留日本人の概数161万人(在留全日本人の11パーセント)
  4. オーストラリア軍管区(ボルネオイギリス領ニューギニアビスマルク諸島ソロモン諸島)在留日本人の概数14万人(在留全日本人の2パーセント)
  5. アメリカ軍管区(日本国委任統治諸島、小笠原諸島および他の太平洋諸島、日本国に隣接する諸小島、北緯38度以南の朝鮮、琉球諸島フィリピン諸島)在留日本人の概数99万人(在留全日本人の15パーセント)

引き揚げ事業の実施

実際の引き揚げ事業も上記5つの軍管区ごとに実施された。さらに「日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべし」との連合軍の指示により、軍人軍属の帰還よりはじめられた。陸軍の復員業務は、ソ連軍管区地域にて抑留された軍人を除いて、1948年1月までにほぼ完了した。海軍の復員は、1947年(昭和22年)末までにおおむね完了した。その後、一般の日本人の帰還が行われた。一般日本人の帰還にあたっては、現金1000円と自力で運ぶことができる若干の荷物のみ帯行が許された。 引き揚げにあたっては、敗戦時までに残っていた旧日本軍の艦船や民間船舶のみならず、アメリカ合衆国政府より、リバティ型輸送船(7000トン)を100隻、LST艦(戦車揚陸艦 3000トン)を85隻、病院船6隻が貸与された。 引き揚げ者は、厚生省(当時)が開設した引揚港から上陸した。以下の18地域において、「地方引揚援護局」あるいはその出張所がおかれた。 浦賀、舞鶴、呉、下関、博多、佐世保、鹿児島、函館、大竹、宇品、田辺、唐津、別府、名古屋、横浜、仙崎、門司、戸畑である。 引き揚げ事業開始から4年が経過した1949年(昭和24年)末までに、軍人軍属を含む624万人が帰還した。引き揚げ開始から約30年が経過した1976年末には、629万人(軍人軍属311万人、一般人318万人)が帰還している。結果的には、引き揚げ開始から4年間で99パーセントを超える日本人が日本に戻ってきたことになる。この事業は極めて広範囲かつ大規模であり、人類史上最大の短期的かつ集団的な人員移動といえる。

引き揚げ事業担当部局の変遷

軍人軍属の復員については、旧陸軍省を解体し発足した第一復員省が旧陸軍軍人軍属の復員を担当した。旧海軍軍人軍属については旧海軍省を解体し発足した第二復員省が担当した。1946年6月第一復員省と第二復員省を統合して復員庁とし、第一復員局と第二復員局が設置された。同年10月には、第一復員庁が厚生省(当時)所属になり、第二復員庁が総理庁(当時)直属となった。一方、一般日本人の引き揚げ事業は厚生省が担当した。同省では当初、社会局引揚援護課や地方引揚援護局を設置し、その任にあてていたが、引き揚げ業務の本格化に備え、1946年3月引揚援護院を設置し、その内部につき援護局、医務局、地方引揚援護局の体制とした。1948年5月、復員局と引揚援護院は一体となって引揚援護庁という厚生省の外局となった。「復員」と「引き揚げ」というそれぞれの概念も「引揚援護」という概念になった。その後、引揚者数が減った1954年(昭和29年)、引揚援護庁は厚生省内の引揚援護局に改組された。

残置私有財産返還要求運動

引き揚げ者は、1000円の現金と自力で運ぶことができる若干の荷物しか帯行が許されなかったので、残置私有財産の返還運動が起こった。とくに1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて大規模な全国大会が開かれ、国会議員の間でも関心が高まった。そのため1968年8月「引揚者に対する特別交付金の支給に関する法律」(昭和42年8月1日法律第114号)が公布された。この法律により、引揚者及びその遺族並びに引揚前死亡者の遺族に対する特別交付金の支給に関し必要な事項が規定された(同法第1条)。同法における「引揚者」とは、①「外地」(日本本土以外の地域)に1945年(昭和20年)8月15日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、終戦に伴って発生した事態に基づく外国官憲の命令、生活手段の喪失等のやむを得ない理由により同日以後日本に引き揚げた者、②外地に1945年8月9日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、ソヴィエト社会主義共和国連邦の参戦に伴って発生した事態により同日以後終戦日前に本邦に引き揚げた者③外地に終戦日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、日本国内に滞在中、終戦によってその生活の本拠を有していた外地へもどることができなくなったもの、④日本のもと委任統治領であった南洋群島に1943年(昭和18年)10月1日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、戦争に関連する緊迫した事態に基づく日本国政府の要請により同日以後終戦日前に日本に引き揚げたもの等とされた(同法第2条各号)。この法律により、総額1925億円の特別交付金が交付されることになった。終戦時の年齢に応じて一人当たり16万円から2万円が支給された。具体的には、終戦時50歳以上の者は16万円、35歳以上50歳未満の者は10万円、25歳以上35歳未満の者は5万円、20歳以上25歳未満の者は3万円、20歳未満の者は2万円であった(同法第6条第1項)。 交付の方法は、10年均等償還される無利子の記名国債での交付であった(同法第7条第1項)。 1975年7月当時の三木首相は、「特別交付金支給」をもって在外財産の処理は最終的に解決されたと発表した。この発表により引き揚げ者の返還要求の途は閉ざされることになった。

関連項目

参考文献

  • 「台湾引揚者関係資料集」第一巻解題 河原功