廃仏毀釈

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破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。
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岐阜県東白川村役場脇にある「四つ割りの南無阿弥陀仏碑」。廃仏毀釈時に4つに割られて庭石などにされたのち、廃仏毀釈後に破片を集め修復されたもの。中央に割った時の跡が残る

廃仏毀釈廢佛毀釋排仏棄釈、はいぶつきしゃく)は、仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏はいぶつ」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈きしゃく」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。僧侶などが釈迦を指す時は、釈尊(しゃくそん)、釈迦尊、釈迦仏、釈迦如来などと呼んだりする。

神仏分離と廃仏毀釈

キリシタン大名の廃仏毀釈

小西行長などキリシタン大名が支配した地域では、キリスト教を信仰するため神社・仏閣などが焼き払われた。(現、山都町愛藤寺城周辺 熊本県指定重要文化財の「木造大日如来座像」は、この時の焼失から免れたもの) 周辺にある小高い山に「天主山」という名を付けて、麓から拝んでいたという。

明治期の神仏分離と廃仏毀釈

一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日1868年4月5日)に発した太政官布告[1](通称神仏分離令、神仏判然令)、明治3年1月3日1870年2月3日)に出された詔書大教宣布[2]などの政策[3]によって引き起こされた、仏教施設の破壊などを指す。

神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた。神仏習合の廃止、仏像神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。

一向宗が強い三河や越前ではこれらの処置に反発する一向一揆が見られたものの、それを除けば、全体としては大きな反抗もなく、わずか2、3年後の明治4年(1871年)頃には終息した[4]

大阪住吉神社の神宮寺の二つの塔をもつ大伽藍は、1873年(明治6年)にほとんどが壊された。奈良興福寺の食堂は1875年(明治8年)に破壊される。出羽三山については、1874年(明治7年)以降に廃仏毀釈が始まる[5]

例えば千葉県鋸山には五百羅漢像があるが、全ての仏像が破壊された。現在は修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。また、華族の墓地も仏教方式から神道方式へと変更させられた。

伊勢国三重県)では、伊勢神宮のお膝元という事もあって激しい廃仏毀釈があり、かつて神宮との関係が深かった慶光院など100ヶ所以上が廃寺となった。その為、全国平均に較べて古い建物の数自体が少なくなっている。

明治政府は神道を国家統合の基幹にしようと意図した。一部の国学者主導のもと、仏教は外来の宗教であるとして、それまでさまざまな特権を持っていた仏教勢力の財産や地位を剥奪した。僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいた。また、僧侶の中には神官や兵士となる者や、寺院の土地や宝物を売り逃げていく者もいた。現在は国宝に指定されている興福寺五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、25円[6]で売りに出され、薪にされようとしていた。大寺として広壮な伽藍を誇っていたと伝えられる内山永久寺に至っては破壊しつくされ、その痕跡すら残っていない。安徳天皇陵と平家を祀る塚を境内に持ち、「耳なし芳一」の舞台としても知られる阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となり現在に至る。

廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。

美濃国岐阜県)の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。

一方、尾張国愛知県)では津島神社の神宮寺であった宝寿院が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している[7]

廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。

一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代には寺院がさまざまな特権を持っており、寺社奉行による寺請制度で寺院を通じた民衆管理が法制化され、汚職の温床となったことで、それに対する民衆の反発があったためとの説もある。藩政時代の特権を喪失したことによってもたらされた仏教の危機は仏教界の反省を促し、伝統仏教の近代化に結びついた。

尾鍋輝彦は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している[8]

明治期の神仏分離政策後、政府の意図に反して、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。廃仏毀釈の原因は地域・事例ごとにさまざまであるが、廃仏思想を背景とするもののほか、近世までの寺檀制度下における寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院の財産の収公を狙ってのことなど、社会的・政治的理由も窺える。政府は廃仏毀釈などの行為に対して、「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ」ことと、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。

被害を受けた寺社

廃仏毀釈による主な廃寺

廃仏毀釈により破却された神塔

脚注

  1. 太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など
  2. 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
  3. 例えば明治5年(1872年)4月25日、太政官布告第133号「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事 但法用ノ外ハ人民一般ノ服ヲ着用不苦候事」など。僧尼令について
  4. 尾鍋輝彦 『大世界史 第19巻 カイゼルの髭』 36ページ
  5. 出羽三山で神仏分離が徹底され、廃仏毀釈が推進されたのは、六年九月、西川須賀雄が宮司として着任してからのことであった。西川は、教部省出仕大講義で佐賀藩の出身、神祇官→大教院において神道国教主義的理念をかかげる最急進グループの一人だった。安丸良夫の『神々の明治維新』P.149~
  6. 大屋徳城「奈良における神仏分離」『明治維新神仏分離資料』
  7. テンプレート:Citeweb
  8. 尾鍋輝彦 『大世界史 第19巻 カイゼルの髭』 36ページ

関連書籍

  • 安丸良夫『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』 岩波新書 黄版 103 岩波書店 ISBN 4004201039
  • 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』岩波書店
  • 羽賀祥二『明治維新と宗教』筑摩書房 ISBN 4-480-85670-6
  • ジェームス・E. ケテラー『邪教/殉教の明治 廃仏毀釈と近代仏教』ぺりかん社 平成18年(2006年) ISBN 4831511293
  • 佐伯恵達『廃仏毀釈百年 虐げられつづけた仏たち 改訂版』みやざき文庫20 鉱脈社 ISBN 4-86061-060-1
  • 尾鍋輝彦 『大世界史 第19巻 カイゼルの髭』 文藝春秋、1968年
  • 岡田荘司〈編〉『日本神道史』 平成22年 ISBN978-4-642-08038-5

関連項目

外部リンク

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